13
大学の教室。誰かとぶつからないようにと静かに歩いているのに、ぶつかってくるのは向こうだった。
小さな押し合い。机の端に無造作に置かれたカバンが、わざと通れなくしているかのように通路を塞ぐ。
その無言の圧力こそが、鋭く、冷たく、心を締めつけてくる。
ひそひそと交わされる視線と言葉の断片が、皮膚の下に突き刺さる。
「瀬奈ちゃん、さ……」「男、二人もキープしてるんでしょ」「ああいう子、無理」
笑いながら話しているふりをして、その目には明らかに悪意が滲んでいた。
(……平気よ。こんなこと、社交界では日常茶飯事だった)
そう自分に言い聞かせて、私はただノートを開いた。ページの文字はまるで頭に入ってこない。
そのときだった。
「瀬奈ちゃん、大丈夫?」
不意に差し込む光のような声が、沈みかけていた心にそっと触れた。
顔を上げると、そこには海翔がいた。
誰とも目を合わせようとしなかったこの空間で、彼だけが真正面から私を見ていた。
「……何のこと?」
なるべく笑顔を作ったつもりだった。でも、それはきっと上手くいっていなかった。
海翔は少し眉を寄せて、椅子を引いて私の隣に腰を下ろす。
「無理すんなよ。誰が何言ってようが、俺はちゃんと見てるから」
その言葉に、不意に胸の奥が揺れる。
(……誰も、気づかないと思ってた)
「ありがとう。でも、本当に大丈夫。ちょっと、疲れてるだけなの」
「何かあったなら、言って。……俺、力になりたいから」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。
優しい。まっすぐで、ただ心配してくれているのが伝わってきて、思わず目をそらしてしまいそうになる。
でも、今の私には――答えられなかった。
言葉を探していたその瞬間。
ふと、何かに視線を感じて振り返る。
廊下の端。人の流れの向こうに、静かに佇むひとつの影。
その黒髪の青年が、じっとこちらを見つめていた。
蓮だった。
表情は読めない。けれど、確かに、彼は見ていた。
まるで、私のすべてを見透かすかのように。
次の瞬間には、彼の姿はすっと人混みに紛れて消えた。
心臓が、音を立てて跳ねる。
鼓動が、どこかおかしいほどに速くなる。
なぜか、胸にざらりとした不安が残った。
それが海翔に対するものか、蓮に対するものか――自分でもわからなかった。
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大学の講義が終わる頃、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
建物の外に出ると、赤く焼けた空が静かに沈んでいく。
横に目をやれば、蓮がこちらへと歩いてくる――
だが。
「ごめん。今日はちょっと予定があって……1人で帰れる?」
優しいけれど、どこか距離のある声音。
笑顔も、ほんの少しだけ硬いように見えた。
何かを隠している。そんな気がして、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……うん。わかったわ」
笑顔を作って返したけれど、その背中を見送る瞬間、喉の奥がきゅっと締めつけられた。
そのまま人波の中に蓮が消えていくのを見届けてから、私は踵を返し、ひとり帰路についた。
⸻
いつもの帰り道。
けれど、隣に蓮がいないだけで、景色がまるで別物に感じられる。
夕日が照らすアスファルトの道も、通り過ぎる笑い声も、やけに空虚だった。
重く感じる足取りで家へ戻る。
ドアを開けた瞬間、静寂が広がった。
蓮と一緒に立っていた暖かなキッチンも、軽口も、ドキドキするようなこともない。
冷蔵庫から取り出した食材で夕食を用意してみたものの、箸はなかなか進まなかった。
味が、しない。
いや、たぶん、ちゃんと味はついている。
けれど、誰かと一緒に食べる食事じゃないと、こんなにも味気ないものだったなんて。
「……おかしいわね」
思わずつぶやいて、自分で自分に驚いた。
私は、1人でも平気だったはず。
前世でも、そうやってずっと強くあろうとしてきた。
心を寄せることが怖かったから。
傷つくことを恐れて、誰にも甘えなかった。
それなのに。
今、蓮がそばにいないだけで、世界がこんなに灰色になるなんて。
「私……どうして、こんなにも」
胸に手を当ててみる。
どくん、どくんと、脈打つ鼓動が、切なさを知らせてくる。
気づいてしまった。
あの穏やかな日々は、彼がいてくれたからこそ――だったのだと。
あたたかい紅茶の湯気が、誰にも届かずに静かに消えていく。
今夜の静けさが、やけに堪える。
私は、もう戻れない。
誰の手も借りず、凛と立っていた頃の自分に。
蓮が、私の世界に入り込んでしまったから。