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 大学の教室。誰かとぶつからないようにと静かに歩いているのに、ぶつかってくるのは向こうだった。

 小さな押し合い。机の端に無造作に置かれたカバンが、わざと通れなくしているかのように通路を塞ぐ。

 その無言の圧力こそが、鋭く、冷たく、心を締めつけてくる。


 ひそひそと交わされる視線と言葉の断片が、皮膚の下に突き刺さる。


「瀬奈ちゃん、さ……」「男、二人もキープしてるんでしょ」「ああいう子、無理」


 笑いながら話しているふりをして、その目には明らかに悪意が滲んでいた。


(……平気よ。こんなこと、社交界では日常茶飯事だった)


 そう自分に言い聞かせて、私はただノートを開いた。ページの文字はまるで頭に入ってこない。


 そのときだった。


「瀬奈ちゃん、大丈夫?」


不意に差し込む光のような声が、沈みかけていた心にそっと触れた。


 顔を上げると、そこには海翔がいた。

 誰とも目を合わせようとしなかったこの空間で、彼だけが真正面から私を見ていた。


「……何のこと?」


 なるべく笑顔を作ったつもりだった。でも、それはきっと上手くいっていなかった。


 海翔は少し眉を寄せて、椅子を引いて私の隣に腰を下ろす。


「無理すんなよ。誰が何言ってようが、俺はちゃんと見てるから」


 その言葉に、不意に胸の奥が揺れる。


(……誰も、気づかないと思ってた)


「ありがとう。でも、本当に大丈夫。ちょっと、疲れてるだけなの」


「何かあったなら、言って。……俺、力になりたいから」


 その言葉に、胸がぎゅっとなる。

 優しい。まっすぐで、ただ心配してくれているのが伝わってきて、思わず目をそらしてしまいそうになる。


 でも、今の私には――答えられなかった。


 言葉を探していたその瞬間。

 ふと、何かに視線を感じて振り返る。


 廊下の端。人の流れの向こうに、静かに佇むひとつの影。

 その黒髪の青年が、じっとこちらを見つめていた。


 蓮だった。

 表情は読めない。けれど、確かに、彼は見ていた。

 まるで、私のすべてを見透かすかのように。


 次の瞬間には、彼の姿はすっと人混みに紛れて消えた。


 心臓が、音を立てて跳ねる。

 鼓動が、どこかおかしいほどに速くなる。


 なぜか、胸にざらりとした不安が残った。

 それが海翔に対するものか、蓮に対するものか――自分でもわからなかった。



 -------



 大学の講義が終わる頃、空はすっかり夕暮れに染まっていた。

 建物の外に出ると、赤く焼けた空が静かに沈んでいく。

 横に目をやれば、蓮がこちらへと歩いてくる――


 だが。


「ごめん。今日はちょっと予定があって……1人で帰れる?」


 優しいけれど、どこか距離のある声音。

 笑顔も、ほんの少しだけ硬いように見えた。

 何かを隠している。そんな気がして、胸の奥がちくりと痛んだ。


「……うん。わかったわ」


 笑顔を作って返したけれど、その背中を見送る瞬間、喉の奥がきゅっと締めつけられた。

 そのまま人波の中に蓮が消えていくのを見届けてから、私は踵を返し、ひとり帰路についた。


 ⸻


 いつもの帰り道。

 けれど、隣に蓮がいないだけで、景色がまるで別物に感じられる。

 夕日が照らすアスファルトの道も、通り過ぎる笑い声も、やけに空虚だった。


 重く感じる足取りで家へ戻る。

 ドアを開けた瞬間、静寂が広がった。


 蓮と一緒に立っていた暖かなキッチンも、軽口も、ドキドキするようなこともない。

 冷蔵庫から取り出した食材で夕食を用意してみたものの、箸はなかなか進まなかった。


 味が、しない。

 いや、たぶん、ちゃんと味はついている。

 けれど、誰かと一緒に食べる食事じゃないと、こんなにも味気ないものだったなんて。


「……おかしいわね」


 思わずつぶやいて、自分で自分に驚いた。


 私は、1人でも平気だったはず。

 前世でも、そうやってずっと強くあろうとしてきた。

 心を寄せることが怖かったから。

 傷つくことを恐れて、誰にも甘えなかった。


 それなのに。

 今、蓮がそばにいないだけで、世界がこんなに灰色になるなんて。


「私……どうして、こんなにも」


 胸に手を当ててみる。

 どくん、どくんと、脈打つ鼓動が、切なさを知らせてくる。


 気づいてしまった。

 あの穏やかな日々は、彼がいてくれたからこそ――だったのだと。


 あたたかい紅茶の湯気が、誰にも届かずに静かに消えていく。

 今夜の静けさが、やけに堪える。


 私は、もう戻れない。

 誰の手も借りず、凛と立っていた頃の自分に。

 蓮が、私の世界に入り込んでしまったから。



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