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大学生活にも、ようやく慣れてきた。
目まぐるしく移り変わる講義のスケジュール、広すぎる校舎、ざわざわとした昼休みの喧騒。初めは戸惑うばかりだったけれど、今では少しずつ楽しさを見つけられるようになった。
「……なるほど、この文献はこう繋がってるのね」
図書館の窓際で、エレオノーラ――いや、今の私は瀬奈として、ノートにペンを走らせていた。
教授の話は難しいけれど、学ぶことは純粋に楽しい。誰かに決められた役割ではなく、自分で選び、自分で理解し、自分の中に蓄積していく――そんな自由を初めて感じていた。
そして、いつだってその隣には蓮がいた。
「お昼、一緒にどう?」
「次の授業、場所分かる? 一緒に行こうか」
当たり前のようにそばにいて、自然に手を差し伸べてくれる彼。
その優しさが、どこかくすぐったくて、でもとてもあたたかかった。
前世では誰にも心を許せなかった私が、彼の前ではふっと肩の力を抜けていることに気づくたびに、胸の奥がそっと熱くなる。
だが――その穏やかな日常に、ひびが入り始めたのは、ほんの小さな違和感からだった。
ふとした瞬間、視線を感じるようになった。
誰かの目が背中に刺さる。すれ違いざまに、低く押し殺した笑い声が耳に残る。
正面から見据えられることはないのに、通り過ぎたあとに必ず何かが背後で動いている気配がした。
最初は気のせいだと思った。
慣れない大学生活の中で神経質になっているのかもしれない。
そう思って、笑って流そうとした。
けれど。
(――これは、知っている感覚)
社交界で生きてきたあの頃、背後で交わされる皮肉や嫉妬、嘲笑の視線。
いつだって笑顔の裏に牙を隠し、人を陥れる準備をしていた令嬢たちの中で、私は生きていた。
だから、わかる。あれは「気のせい」なんかじゃない。
蓮と並んで歩く。
ほんのわずかに距離をとったはずなのに、通り過ぎた女子学生たちの視線が突き刺さる。
冷たい。攻撃的。嫉妬にも似た感情が、無言の波となって押し寄せてくる。
それでも、口には出さない。
誰にも頼らず、誰にも隙を見せずに生きてきた。今さら誰かに「助けて」なんて言えない。
だから、私は何も言わずに微笑む。
「どうしたの?」
不意に、蓮の声が横から降ってきた。優しく、けれどまっすぐな声音だった。
「……別に、何でもないの」
即座に返す。表情は変えない。笑って、なにごともないふりをした。
しかし、彼は立ち止まり、私を見つめた。
その目が、息を呑むほど真っ直ぐで――まるで、心の奥を覗き込まれているようで。
「無理しないで。……大丈夫だから」
蓮の言葉は、優しい声色とともに降り注いだ。
けれど、その「大丈夫」の意味を、私はすぐには理解できなかった。
何が“大丈夫”なの?
私が無理してることを、どうして彼が気づけるの?
思考の奥で小さく波紋が広がる。けれど表面には出さず、私は微笑を作って言った。
「……ありがとう。でも、本当に大丈夫よ。私は、平気だから」
前世では、誰かに助けられることを当然だと思ってはいけなかった。
ひとりで立つことこそが誇りだったし、誇りを守るために弱さは見せてはいけなかった。
けれど今は、彼がそばにいる――それでも、私は今もまだ、すべてを委ねきれずにいる。
蓮はしばらく私の顔を見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「……そっか。じゃあ、何かあったらすぐ言って。」
言葉は穏やかだったけれど、その瞳の奥に一瞬だけ、底の見えない色が宿っていた気がした。
***
その日を境に、周囲の空気がゆっくりと、けれど確実に変わっていった。
廊下ですれ違う女子たちの視線が、どこか冷たい。
講義中、隣に座る予定だった学生にさりげなく席を避けられる。
「あの子、また蓮くんと一緒だったよ」
「最近、海翔くんともよく話してない?」
小さなささやき声が、教室のあちこちで泡のように弾けては消える。
噂は名前を持たないまま、私の背後にまとわりついて離れない。
“蓮くんをいいように使ってる”
“男を取り替えてる”
“本当は病気なんかじゃなかったんじゃないか”
私は何もしていない。ただ、日常を取り戻そうとしていただけ。
けれどこの世界では、それさえも誰かの妬みや憎しみに火をつける。
――ふん、くだらない。
心のどこかで、エレオノーラとしての私が嘲笑う声がする。
社交界ではもっと陰湿で悪意に満ちた罠が常だった。
噂や視線だけなら、傷ひとつ残らない。そんなもの、怖くはない。
私は静かに背筋を伸ばし、何もなかったように歩いた。
笑いかける相手を選び、言葉を整え、噂には噂で上書きする。
これが“処世術”――誇りを守るために身につけた鎧。
だけどその夜、帰宅してドアを閉めた瞬間、私はふっと壁にもたれた。
(私は今、誰として生きてるの……?)
瀬奈として、大学に通い、家に帰って、蓮に支えられて生きている。
けれど本当の私は、エレオノーラ。
王太子に裏切られ、誇りを踏みにじられ、ひとり命を終えた女。
なのに、今は誰かに守られて、愛されて、寄りかかっている。
(――こんなの、私らしくない。なのに……)
彼の笑顔が浮かぶ。
ふいに差し出された手、そっと触れてくれたぬくもり。
(どうして……あんなふうに優しくされると、心が揺れるの?)
強くあろうとするほど、彼の存在が私を脆くする。
その葛藤の正体を、私はまだうまく言葉にできなかった。




