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 静寂に包まれた図書館で、私は夢中になって本を読み進めていた。

 この世界の「愛」や「死」に関する考察は、前世では到底語られなかった感性に満ちていて、ページをめくるたびに新しい景色が広がっていく。


「……やっぱり、瀬奈ちゃんだよね?」


 ふいに名前を呼ばれて、顔を上げる。

 立っていたのは、少し長めの前髪に優しい目をした青年──海翔かいとだった。


 (瀬奈の記憶によれば……ゼミで一緒だった、海翔さん)


「びっくりした。入院してたって聞いたけど……もう大丈夫なの?」


「ええ。少し休んで、ようやく戻ってこられました。心配してくれて、ありがとうございます」


 自然に微笑みながら返すと、海翔は一瞬きょとんとした顔をして、それから優しく笑った。


「……あれ、そんなふうに笑う人だったっけ?」


「え?」


「いや、なんていうか……前は、いつもどこか辛そうな顔してたから。初めて笑ったとこ、見たかもって思って」


 そう言われて、私はほんの少し目を伏せた。

 笑顔を褒められることが、こんなにも心を温かくするなんて──。


「笑ってる方が、ずっと似合うよ」


「……ありがとう、ございます」


 少し照れて、視線を本に戻す。


「その本、面白いの?」


「はい。“死生観の変遷”という内容ですが……とても興味深くて」


「へぇ、難しそう。やっぱり本、好きなんだね」


 その問いに、思わず頷く。

 本を読むことで世界が広がる。学ぶことで、自分の心が少しずつ自由になっていく──そんな感覚が心地良かった。


 そんなひとときを破ったのは、テーブルの端で震えたスマートフォンだった。

 画面を見ると、《蓮》からのメッセージが届いていた。


『体調どう?迎え行こうか?』

『帰り時間、決まってたら教えて。迎えに行く』


 数分おきに送られてくる短い文章。

 ……とても心配してくれてるのね。


「……だれか迎えに来るの?送って行こうか?」


「迎えが来てくれるから大丈夫です。心配してくれてありがとう。」


 海翔の視線を感じつつ、スマホをそっと伏せた。


「……じゃあ、またゼミでね」


 海翔の柔らかな声を背中で聞きながら、私はゆっくりと階段を降りた。

 図書館の前に出ると、まるで待っていたかのように、蓮の姿が目に入った


「……迎えに来たよ」


 穏やかな口調だったけれど、その目は真っ直ぐに私の顔を見つめていた。

 どこか、突き刺すような視線だった。


「ありがとう。そんなに急がなくても大丈夫だったのに……」


 そう言いながらも、私は胸の内で小さなため息をついた。

 (……“ちょうどいいタイミング”すぎるわ)


 エレオノーラとしての直感が囁く。

 彼は、私が誰といたのかを――知っている。


 隣に座った途端、蓮は静かにシートベルトを締め、エンジンをかけた。

 発進までの一瞬の間に、視線がわずかにこちらへ流れる。


「さっき、図書館で誰かと話してた?」


 その問いかけは、まるで何気ない雑談のように聞こえた。けれど。


「……ええ。ゼミで一緒の人と少し、話を」

「ふうん……そうなんだ」

 その声音には、僅かに湿った熱がこもっていた。


 興味、疑念、苛立ち、独占欲――果たしてそれが瀬奈に対するものなのか、わたくしに対するものなのか...


「……なにか、気になることでも?」


「……別に。ただ、笑ってたのが珍しかったから」


 そう言って、蓮は前を向いたまま微笑んだ。けれど、その笑みにはどこか張りつめたものがあった。


「そう……私、笑ってた?」


「うん。なんだか……悔しくなるくらい、綺麗だった」


 その一言に、心臓が一瞬跳ね、顔が一気に真っ赤になった。


 彼の言葉は、いつも唐突で、少し危うくて。

 でも、それ以上に――どうしようもなく、胸に響いてしまう。


「蓮……」


「――ねえ、帰ったら、また一緒にご飯作ろうか。昨日みたいに」


 いつものように穏やかな声色だったけれど、私は気づいていた。

 彼が今、私の“そばにいたい”という感情でいっぱいになっていることに。


「……ええ、いいわ。私も……楽しかったから」


 彼の気持ちに応えるように、小さく微笑むと、蓮の目が一瞬だけ柔らかくなった。


 でもその奥底には、まだ消えきらない“何か”が、静かに揺れていた。


 当然のように蓮とともに瀬奈の家へ戻った。


 鍵を開けて玄関を入ると、蓮が手に持っていた紙袋をそっとキッチンカウンターに置いた。


「今日は、鶏肉のトマト煮込み。準備しておくから、部屋で先に着替えてきたら?」


「うん……ありがとう」


 部屋で着替えてから、夕暮れの光が差し込むキッチンへ行った。エレオノーラにとって蓮のあるキッチンは少しずつ見慣れた空間になっていた。最初こそ包丁の握り方すらおぼつかなかったが、蓮の手伝いもあり、最近では少しずつ段取りがわかってきていた。


 エプロンをかけると、蓮がさりげなく後ろからリボンを結ぶ。自然すぎて、鼓動が跳ね上がる。


「……っ、あの、いつも手慣れてるのね」


「毎日一緒に料理してるから慣れてきたよ、俺も」


 そう言って笑う蓮の声はどこか優しくて、包まれるようで。胸の奥が、くすぐったくなる。


 炒めた玉ねぎの香りが立ち上るキッチンで、ふたり並んでフライパンをのぞき込む。何気ない共同作業なのに、不思議と心が満たされていく。


 こんな日々が、永遠に続けばいいのに――


 そんなふうに思ってしまった自分に、エレオノーラはふと驚く。本当にそれが許されるならば――。


「必要とされること」に、こんなにも心が温かくなるなんて。前の人生では知ることのなかった感覚だった。


「ねぇ、そこの塩、取ってくれる?」


「あ、うん。これでだよね?」


「うん、ありがと」


 自然なやり取りの中に、小さな幸せが満ちていく。


 夕食の時間になり、テーブルに並んだ料理を前に蓮がふとつぶやいた。


「なんか、最近……こうして並んで料理して、食べて、他愛ない会話してるだけなのに、落ち着くんだよね」


「……ふふっ、変な感じね。でも……私も、少しわかる気がする」


 気づけば、テーブル越しに向けられる蓮の視線がいつもよりも長く、そして真っ直ぐだった。


 言葉にできない何かが、少しずつ、でも確かに、ふたりの間に育ちつつあった。


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