あるべき場所へ
「……どこかに収容されたとか?」
魔物を倒し、体を取り返したはずだった。
しかし見上げるのは、吸い込まれてしまいそうなほど深い闇。
「視力がなくなったとか」
それならば、音はするはずだ。
「聴力も?」
何も聞こえてはこない。
腕を動かしてみるが、感触も伝わってこない。
体を取り戻したはずなのに、口の感覚もない。においをかごうとするが、吸い込むことすらできなかった。
「……え、私、今度こそ本当に死んだの?」
八十九歳まで生きられるのではなかったのか。
突然、温かさを感じる。漆黒の闇に、ほのかな光が広がった。
「エウロギアだ」
魔物を退治しても、残ってくれたのか。
「てことは、緊急事態はまだ終わってないってことか」
環はハッと思い出す。
遥の存在を。
「うっ、まぶしいっ」
子供の声が、闇に響いた。
「電気?消してよ」
「あなた、遥?」
恐る恐る尋ねる。
「そうだよ。あたしの妹ちゃん」
少し笑ったような声。
「ずっと眠っててよ。まぶしいからその光消して」
「私がつけたんじゃないから分からない……というか、まだ私の体をあなたが乗っ取ってるってこと?」
「乗っ取ってないもん。これはもうあたしのもの」
「いや私のですけど」
「あたしのなの!」
おもちゃの取り合いのようだ。
もしも姉が生きていたとしたら、百回と繰り返すことになったかもしれないやりとり。
薄闇の中、切なさが環を貫く。傷口から血があふれるように、様々な思いがめぐっていく。
もし、姉が生きていれば、自分の人生は全く違ったものになっただろう。遥と遊んだり、喧嘩したり、時には競ったりして、かけがえのない相棒のような存在ができたかもしれない。
あの世へ行くことも、当然なかったはずだ。
むしろ、自分は生まれてこなかったかもしれない。遥の代わりにもうけた子供だからこそ、母親は自分と遥を重ねて見ていたのだろう。
今この、暗闇にいる自分は、無数の選択が重なった点にいる。
少し道が違えば、見ることなどできない景色。
それは遥も同じのはずだ。
この世にとどまり、月の魔物に出会い、環の体を手に入れた。幼くして死んだ後悔が欲した景色を、堪能してきたのだ。
手放したくないというのも、当然かもしれない。
「お母さんもお父さんも、あたしが戻ってきて嬉しそうだったよ。あんたなんていらないの!」
生きていきたいという遥の願いは強い。遥が帰ってきてくれて、過失が許された気がしている母の喜びも強い。
それは、環にも、痛いほど理解できた。
「……それでも、私の体で、私の人生だから。誰かが悲しもうとも、喜ぼうとも。私なんか誰にも必要とされてないとしても、私は私のことが必要だから」
静かな声が響く。声の行く先を可視化するように、エウロギアの光がぼんやりと広がった。
「ねえ、どうして、この世にとどまっていたの?あの世からお迎えはこなかったの?」
「来たけど、怖いから逃げたよ。あたしはずっと、川でひとりぼっち。ずっとあんたがうらやましかった。お母さんもお父さんもひとり占めして、彼氏もできて。ズルいよ。もうたくさん遊んだでしょ。あたしに代わってくれたっていいじゃん!」
遥が泣きべそをかく声が聞こえる。
「……お姉ちゃん」
ためらいがちに、彼女を呼んだ。
「どんな来世にしたいかはね、自分で決めることができるんだ。なんなら私の子供に生まれてくればいいよ。そうすれば、またお父さんとお母さんにかわいがってもらえるよ」
「やだ!」
「魂のエネルギーがないと、希望通りにはならない。だから、この世にとどまってちゃダメなんだよ。早く、あの世へ向かった方がいい」
「いやだ!」
「……そうだよね。五歳で死んじゃったんだもん。わがままだって言いたいよね」
悲しみがこみ上げてくる。
説得は難しいかもしれない。それでも、伝えたいことがあった。
「私ね、お姉ちゃんの生まれ変わりかもって、お母さんに期待されて生きてきたんだ。それを辛いって思ったことはなかったんだけどね、最近気がついたんだ。本当は、私らしく生きていきたいって。だから、私には、私の体が必要なんだ」
エウロギアの光が、さらに強くなる。
遠く離れた場所に、少女の顔が見える。
写真で見る幼いころの自分に、そっくりだった。
「私は、新しい扉を開けないといけない。それは、お姉ちゃんも同じだよ。本当にほしいものは、前に進んで手に入れるんだ」
遥は目を細めて、こちらを見ている。邪気のない、子供らしい顔をしていた。
「あたしの、ほしいもの……」
小さな声で呟く。
「私の体はあげられないけど……神様、エウロギアを、お姉ちゃんにあげてもいいですか?」
環は、エウロギアに語りかける。
「私は、自分の足で歩むって決めたんです。でも、お姉ちゃんにはきっと、それが難しいだろうから。助けてあげたい」
エウロギアが、答えるように輝きを増す。
環の元から、光が離れていく。流れ星のように闇を駆け、遥を包み込んだ。
「あったかいなあ」
少女が目を瞑り、ほっとしたように声をもらす。安らかな顔を、環はじっと見つめる。自分が生まれる前に死んだ姉と、出会えた奇跡をかみしめるように。
「神様、お姉ちゃんを、あの世に送ってあげてください」
環の声は震えていた。
「環ちゃん。ごめんね。本当はちょっとだけ、ごめんなさいって思ってたんだ」
「いいよ。許すよ。だから、また会おうね!あの世は少し大変な所だけど、きっと大丈夫だよ。絶対、約束だからね。また……!」
「うん」
遥が、笑顔でうなずいた。
遥を包み込んだエウロギアが、遠ざかっていく。
光が星のような点になったころ、環に温かさが戻ってくる。
それはエウロギアとは違う、懐かしい温かさだった。
魂が拡張していくような感覚と同時に、ざわざわとした音が鼓膜を揺らす。まとわりつく服の感触、足は何かに固定されているようだ。頭皮の不愉快さは、しばらくシャワーを浴びていないときと同じ。
息が喉に突き刺さる。肺が膨らむ感覚、全身をめぐる血管に、内側から鼓膜を打つ鼓動。
環は思いっきりむせて、目を開いた。くらくらするような眩しさに驚いて、すぐまた目蓋を閉じる。
自分の体に、帰ってきたのだ。
細胞のひとつひとつが、ふさわしい魂の帰還に喜びをあげているように思えた。閃光のような快感が、皮膚の下を走っている。閉じた目からは涙があふれた。
「せ、先生!」
バタバタと看護師が出ていく。
環は、光に目を慣らしながら、ゆっくりと目を開けた。まず飛び込んできたのは、包帯でグルグル巻きにされた右足。ものものしい器具で固定されている。口元には、ドラマで見たことのある透明グリーンのマスクをつけていた。心拍を図る機械が、一定のリズムで音を立てている。
病院にいるのだ。意識を失っていたのだろう。体の中に、魂が二つも入っていたのだ。体も耐えきれないはずだ。
などと考えているうちに、じわじわと痛みの自覚が芽生える。足首を中心に、体のあちこちが打撲の痛みを抱えていた。
「い、痛い!」
環がこの世に戻って発した、最初の言葉だった。