親と子
第五の町に向かう汽車の中で、環は眠っていた。
環だけではない。乗客のほとんどが目を閉じていた。
第四の町で魔物と戦ってきたのだ。あの世にいるのは魂なので、当然肉体的疲労はない。それでも睡眠という癒しは、魂にとっても変わらないようだった。
あの世で眠ると、魂はこの世へ降りる。
環は、以前この世で目覚めたときと同じように、自室のベッドにいた。
辺りは暗く、カーテンが開いたままの窓から街頭の灯が入ってきている。夜にもかかわらず、自分の部屋に自分の肉体の姿はない。
夏生の家に行っているのだろうか。
ベッドサイドの時計を見る。時間の横に、日付が書いてある時計だった。
「クリスマス……」
0時を回った時計の日付が、二十五日になっている。
環は、この日のために予約したレストランのことを思い出した。イタリアンのコース料理を食べながら、イルミネーションが見えるレストランだった。
夏生は医大生で勉強が忙しいのに、少ないバイト代から割り勘にしてくれると言ってくれた。
偽物の自分と一緒に、楽しい時間を過ごしているのだろう。
その場所にいるべきなのは、自分のはずなのに。そう思いかけて、首を横に振る。そもそも浮気をしている人間なのだ。今さらどうして一緒にいたいなんて考えるのだろう。
環の部屋は二階にあった。開け放たれたドアから出て、一階へ降りる。ドアのガラスから、リビングの光が漏れている。中をのぞくと、両親がダイニングテーブルで向かい合っているのが見えた。
クセでドアノブに手をかけようとするが、見事に空振る。
魂だから、物には触れないのだろうか。それならドアをすり抜けられるのではないかと進んでみるが、阻まれる。開いていない扉からは入れないのかもしれない。
しばらく待っていると、父親が席を立つ。ドアを開けた隙に、環はサッとリビングに入った。
「ただいまぁ……」
一応声を出してみるが、母親は少しもこちらを見ない。
ダイニングテーブルに座った母親が、空になったワイングラスに目を落としている。遠すぎる場所を見つめるような瞳に、環は見覚えがあった。
死んだ姉のことを、考えているのだ。
この顔を見るのが、ずっと嫌だった。だから、姉と同じように振る舞うことで笑顔になると知ったときから、母や父の中にある姉の像を探すようになった。それに合わせて自分を作れば、この悲しい瞳を見なくて済むから。
ほどなくして、父親が戻ってくる。
「どうした」
沈み込んだ母親に、父が声をかける。
「環、橋から落ちて、あの子に似てきたわよね」
「ああ……。俺もそう思っていた」
「橋から落ちたのも、あの子と同じだし」
「生きててくれて、本当に良かったよ」
二人そろってため息をつく。
「お母さん、お父さん、あれは、本当の私じゃないんだ」
ダイニングテーブルの、ひとつだけ空いた席の後ろに立って言う。
「あの子……遥はミニトマトが好きだったでしょ。環は嫌いだったけど。今朝、嬉し泣きしながら食べていたじゃない。それに、遥が好きだったピンクの服をたくさん着てるでしょ。環はあまりピンクは選ばないのに。どうしたって遥に重ねてしまうじゃない」
「そういえば、魂はあの世をめぐって、この世に帰ってくると信じて、環という名前をつけたな……」
「もしかしたら環は本当に、あの子の生まれ変わりなんじゃないかと思うことが何度もあったけど、橋から落ちたショックで、完全に思い出したのかもしれないわよね。前世のことを」
父親は渋い顔をしてうつむいている。同意をしているわけではないが、否定をしたくないときの顔だった。
「私、ずっと後悔していたのよ。目を離すんじゃなかったって。私がきちんと見ていさえすれば……遥が死んでしまうことは絶対になかった」
母親が顔を覆う。父がブランケットを母の肩にかけ、背中を優しくたたいた。
「遥が、また私たちのところに来てくれたみたいで、許されたような気持ちなの。あの子が、私の子供じゃなければ良かったって思っていたら、きっと帰ってくることってないでしょ」
「ちょっと……待ってよ」
環は母親の顔をのぞきこむ。
「じゃあ、私は?私がいなくなったことはどうでもいいの?それに、私の前世はお姉ちゃんじゃなかったよ。どこの誰かもわからない、関係のない人」
「本当に、良かった……」
震えるため息とともに、母親がもらす。
「それにあの世ではね、前世の記憶を忘れるようになっているんだ。だから、もしお姉ちゃんが生まれ変わったとしたって、それはもう、お姉ちゃんとは全然別の人になっているんだよ」
聞こえないのに、まくしたてるように言う。
「記憶に障害が残ってしまったけど、あの子は、遥は自分を取り戻すことができたのよ」
「わ、私は……?今こんな目に遭っているのに?」
魂であることを忘れ、環は叫ぶ。
「私の話を聞いてよ!」
「ごめんなさい。夜風に当たってくる」
「俺も行くよ」
「いいわ。一人にしてほしい」
席を立つ母親の後に環は続く。
「ねえ。聞こえないの……?」
泣きそうな声で呟く。
母親は二階の寝室に入り、窓を開ける。バルコニーの椅子に座り、夜空を見上げた。
「そっか、聞こえないのか。私幽霊だから」
環はふわりと床を蹴り、母の視線の先に浮かぶ。
「お母さん、私のこと、見えてないんだもんね……」
最後まで目が合わない母に肩を落とす。家の前の歩道に降り、トボトボ歩き始めた。