パンドラの箱
『魔物に接近しています。注意してください』
ソピアが環に警告する。
「魔物は、こっちにきてる?」
『はい。このまま進んだら遭遇してしまいます。岩陰に隠れてください』
「魔物が来てるって。そこに隠れよう」
ヒネにささやき、そそくさと身をひそめた。
ほどなくして、魔物の足音と話声が近づいてくる。
「お前、知ってるか?こっちに人間が来てるらしいぞ。しかも、神から力を借りてるっていう」
「知ってるわよう。昨日はその女の子の話で持ち切りだったじゃない」
「その顔見ると、興味なさそうだな」
「私、ミーハーって嫌いなの」
「右に同じだ」
この魔物たちには、遭遇しても襲われないかもしれない。少しホッとする。
「それより、月の魔物が、女の子を恨む人間にけしかけられて体を奪ったって話の方が面白いわよぉ」
環は目を見開く。
下卑た人間のような声は、楽しそうに続けた。
「私、月の魔物と友達だからさあ、教えてくれたのよ。人間からものすごい剣幕で『あいつの体を奪ってくれ!』って頼まれたんですって。人間も怖いわよねえ」
「それで、どうやって体を奪ったんだ?俺もやってみてえな」
「橋から飛び降りさせたんですって。仮死の状態で魂が飛びかけてるとこを狙って、スルっと」
「いや、スルッと入るとこはなんとなく想像できるけどよ、どうやって飛び降りさせたんだ。人間には触れねえだろ?後ろからドンってやればいいんならすぐにでも実行してえが、そうもいかねえし」
「そいつの彼氏をちょいちょいっといじって、喧嘩させたんだって。問題はこの方法よねえ。月の魔物は精神攻撃できるからうらやましいわあ。でも、方法が分かったとこで無理よ。人間から頼まれないと、乗っ取るほどの力出せないでしょう。あー私のとこにもそういう依頼こないかなあ」
「いいよなー。人間界に降りれたら、食い放題じゃねえか」
「そうらしいわよお。まずは信用させて、周りのことを把握して、ばれないようになるべく多く食べるつもりなんですって。うらやましい!」
「ていうか、こっちに来てる女って若いんだろ?短い人生の間に、そこまで人から恨みを買えるもんなんだな。よっぽど悪党なのかもしれねえ」
「えっ。だからあんなに魔物に襲われてたの?」
ヒネが、声もひそめず環に尋ねた。
「今、人間の声が聞こえなかったかしらあ?」
「聞こえたなあ、あの岩から」
環がゾッとして立ち上がった瞬間、魔物たちがこちらをのぞきこんできた。
「噂をすれば影あり、とはこのことか」
「ミーハーは嫌だけど、目の前にいるなら話は別よねえ」
肩幅の広すぎる魔物と、胸が大きすぎる魔物が顔を見合わせる。
「神から武器をもらってるって話、聞いてるわよう」
「下手に手は出さない方がいいな」
魔物たちが、両側から環の腕をつかむ。大きすぎる肩と胸が、環にあたった。
「さ、武器がどんな力を持ってるか、私に教えてくださいな」
環は動けない。それを狙ってか、バングルがサッと奪われる。焦りが背中を駆け抜けた。攻撃されたら終わりだ。
ただ、この魔物たちは武器の力を知らないのだ。覚られてはならない。
「あれえ、怖くておしゃべりできなくなっちゃったかなあ」
「ま、まさかあ」
振り絞るように答えた声が震えていて、魔物たちがどっと笑う。
「魔物ってねえ、人間の肉体が食べたいんじゃないの。魂がエサなのよ。だからね、魔物にロックオンされたが最後、二度と生まれ変わることができない。殺人を犯した魂と同じ末路をたどるのよお」
聞いたらダメだ。環は手を握りしめる。ここは神の守る町だ。食われることはない。
ただ、恐怖に負けてしまったら分からない。魔物だって元々は神なのだ。人間の恐怖と魔物の優越がかみ合ったとき、神の予想を超えた事態に陥るかもしれない。
覚悟を決め、腕を振り払う。肩の魔物からは腕を外せなかったが、十分だった。
ソピアに触れて叫ぶ。
「どうしたらいい?」
『ジャンプしてください。タラリアの力で振り切れます』
「させねえよ!」
肩の魔物に組み伏せられる。
『左足で後ろ蹴りです』
無我夢中で足を振るうと、重たい感触がある。肩の魔物が吹っ飛んでいた。
「す、すごい」
タラリアには、飛行能力だけでなく、脚力の強化もついているのかもしれない。
「この女!」
飛び掛かってくる胸の魔物を這いつくばってかわし、地面を強く蹴った。洞窟の天井に頭を打ちそうになり、慌てて手をつく。
「バングルを取り返さなくちゃ。どっちが奪った?」
『どちらでもありません』
「え?」
「めぐるーん」
いつの間にか先に進んでいるヒネが、遠くで手を振る。
「ねえ!魔物に襲われるくらい悪いことしてきたの?」
先ほどの問いを繰り返す。
環は答えない。脳裏に晴山のことが蘇っていた。
自分勝手なペースで進み、相手を自分の思い通りに動かそうとする悪人。
ただ、ヒネは自分勝手なだけで、相手を思い通りにしたいというようには見えない。
ひとつ言えるのは、ペースに巻き込まれたら今度も危機的な状況に陥るということだった。
「あのさあ!バングル奪ったの、あたしなんだ!」
「どうしてそんなこと!」
「さあ、どうしてだと思うー?」
唇の両端を吊り上げて笑う。
まるで魔物のような顔だった。
「ねえ、怖い?あたしが。……黙ってるところを見ると怖いんだよね」
冷たい声が洞窟に響く。
「でも、引き返したって、しょうがないって分かってるよね?」
ヒネが、スタスタと奥へ進んでいく。
環は地面に降りることもできずに、宙にとどまっている。
耳の中によみがえる、魔物たちの会話。月の魔物が、自分の体を乗っ取ったんじゃなかった。誰かが月の魔物を使って、体を乗っ取らせた。
誰が?
――魔物に襲われるくらい悪いことしてきたの?
無自覚に悪意を振りまいて生きてきたから、長く付き合ってきた彼氏にさえ、ひどいことを言われたのだろうか。
いや、夏生は騙されたと言っていた。
それに、月の魔物を放置していたら、夏生もいつか食べられてしまうかもしれない。夏生だって魔物の被害者だ。
環はフラフラと進み始める。
――のうのうと生きてるだけのお前が、浮気されたぐらいでわめくな
夏生は、月の魔物に騙されて、あんなことを言ったのだ。本心じゃないはずだ。もしかしたら、浮気だって唆されてやったことなのかもしれない。
かもしれないのに、力が出ない。
「私、本当は、悪い奴なの?」
思わずソピアに触れる。
『お答えしかねます』
無機質な声が返ってきた。