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第2話: 機械みたいな専務

 喉元でネクタイの結び目が、いつもよりきつい。


 瀬名はグラスの水に指先で触れ、溶けていく氷の音だけを数えていた。一、二、三……。約束の七時まで、あと三分。


 個室の扉が、音もなく開く。


 現れた男は、写真で見るより一回り大きく見えた。仕立てのいいスーツに、寸分の乱れもない黒髪。表情は、写真とほとんど変わらないくらい動かない。


「瀬名さん」


 名前を呼ばれた瞬間、うなじの奥がまた微かに冷えた。低く、静かな声。理由のわからない反応に、瀬名は内心で首をひねる。


「……棚倉さん、ですよね。初めまして」


 立ち上がって頭を下げると、棚倉は小さく頷き、対面の椅子に腰を下ろした。握手も世間話もない。会議の開始を告げるような、無駄のない座り方だ。


「本日はお時間をいただき、感謝します」


「あ、いえ。こちらこそ」


 声が上ずった。工場の見積もりの話なら、誰よりも冷静でいられるのに。この個室の空気には、まだ慣れない重さがある。


 棚倉はメニューを一瞥し、給仕に何かを短く告げた。声量はほとんど変わらないのに、給仕は迷わず動き出す。指示に無駄がない。


 瀬名はグラスを取りながら口を開いた。


「取引先の会合で、お名前だけは聞いたことがあります」


「機械みたいに正確で、笑わないと」


 棚倉の眉が、わずかに動く。表情と呼べるほどでもない、本当にかすかな動きだった。


「よく言われます」


 否定も肯定もしない、平坦な返事。瀬名はその声の温度のなさに、逆に身構えた。冷たいというより、感情の置き場所を最初から持っていないような話し方だ。


「本当に、この話を受けるつもりなんですか」


 探りを入れるように尋ねる。


「経営者同士の思惑で決まった話です。断る理由がありますか」


「別に、ないですけど」


 いえあります、と続けたい気持ちを飲み込んだ。


「棚倉さんは、それでいいんですか」


「私の一存で決められる話ではありません。会社にとって最善の選択です」


 迷いのない即答。取り付く島もないとは、こういう返事のことを言うのだろう。


 瀬名はグラスの水面に浮いた氷を、指先でひとつ押し沈めた。


「そうですか」


「不満そうですね」


「いえ。予想通りだっただけです」


 棚倉が視線を上げた。目が合ったのは、この日初めてだ。


「予想と違っていてほしかった、ということですか」


 答えに詰まった。図星を突かれた気がしたが、認めるのは癪だった。


「別に。ただの感想です」




 前菜が運ばれてくる少し前、瀬名はメニューの「香辛料を効かせた」という一文に、無意識に眉を寄せた。空きっ腹に刺激物はきつい。今日はただでさえ、胃が落ち着かない。


 言葉にはしなかった。初対面の相手に、好き嫌いを主張する場面ではない。


 だが給仕が皿を置く直前、棚倉が短く付け加えた。


「そちらは辛味を控えめに」


 誰に向けた言葉かは言わなかった。給仕は「かしこまりました」とだけ答えて下がっていく。


 運ばれてきた瀬名の皿は、確かに辛味が抑えられていた。棚倉の皿とは、明らかに味付けが違う。


 なぜわかったのだろう。表情に出したつもりはなかった。眉が寄ったのは、一瞬だけだったはずなのに。


 瀬名は皿の縁を指先でひと撫でしてから、顔を上げた。


「ありがとうございます」


 礼を言うと、棚倉はフォークを取りながら、こちらを見もせずに答えた。


「体調管理も仕事のうちです。今日はあなたに、無理をしてほしくない」


 仕事、という単語が引っかかった。今日のこれは、業務なのだろうか。それとも――考えかけて、瀬名は自分の思考を止める。深追いする話ではない。


「瀬名工業さんの受注状況は、把握しています」


 唐突に、棚倉が言った。


「今期は前期比で八パーセント減。主因は二年前に離脱した大口取引先の穴が、まだ埋まっていないこと。合っていますか」


 数字を並べられて、言葉に詰まった。


「……よく調べてますね」


「取引先の状況を把握するのは、当然の仕事です」


「うちの従業員のことも、資料に書いてあるんですか」


 声が、思ったより尖った。


「従業員数は把握しています。個人の名前までは」


「三十人います。田中さんも、山口さんも、俺が子供の頃から知ってる顔です。旋盤の音も、休憩中の下手な将棋も、全部知ってる。データにすれば三十って数字ですけど、うちにとっては三十の暮らしがあって、その先にまた家族がいて――」


 そこまで一息で言ってから、自分の口の速さに気づいた。工場の見積もりの交渉でも、ここまで早口になることはない。


「……すみません。喋りすぎました」


 急に恥ずかしくなって、皿の上に視線を落とす。耳の先が熱い。工場のことになると、つい前のめりになる。分かっていても直らない、悪い癖だった。


 父にもよく言われる。お前は喋りだすと止まらない、営業には向いてないと。今まさに、その通りのことをしてしまった。


 棚倉はフォークを置いた。皿に触れる音さえ、ほとんど立たなかった。しばらく、黙っている。瀬名の勢いに気圧された沈黙ではない――もっと低く、もっと重い。空調の風だけが、いつもよりわずかに冷たく感じられた。


「知っています。だからこそ、この話がまとまることに意味がある」


 その言葉の温度は変わらないのに、瀬名は一瞬、返す言葉を失った。


 自分ばかりが喋りすぎた、と思う。だが棚倉は、黙って聞いていたことを咎めもしなかった。それが余計に、居心地を悪くさせた。




 食事の途中、担当のソムリエだという若い女性がグラスを替えに来た。瀬名の手元に視線を留め、微笑む。


「お怪我ですか、指先」


 瀬名は思わず指先を握り込んでから、開いた。


「いや、仕事柄というか。工場をやってるので」


 油と研磨で傷んだ指先を見られるのは、慣れているようで、少し落ち着かない。ソムリエは興味深そうに、もう少し何か聞こうと口を開きかける。


 その時、棚倉の視線が瀬名の指先へ、ほんの一瞬だけ落ちた。


「グラスは私が」


 瓶を受け取るほうが早かった。ソムリエの言葉より、ほとんど間を置かずに。


「失礼します」


 ソムリエは軽く頭を下げて下がった。棚倉は瀬名のグラスに酒を注ぎながら、視線をワインの色にだけ向けている。何事もなかったような手つきだ。


 だが瀬名の目には、その動きがほんの少しだけ急いで見えた。理由を聞くほどのことでもない。ただ、機械みたいだと思っていた男の中に、機械らしくない何かが一瞬だけ紛れ込んだ気がした。


 機械には、油を差す場所がある。棚倉にも、きっと同じような場所があるはずなのに、瀬名にはまだそこがどこなのか分からない。


「……独り占めですか」


 からかい半分で言うと、棚倉はグラスをこちらへ差し出しながら答えた。表情は変わらない。


「彼女の接客が、今日の主旨とは関係のない話に流れていましたので」


「そんな、大した話でも」


「関係のない話です」


 妙にきっぱりとした言い切りに、瀬名は思わず黙った。




 食事が終わる頃、棚倉は伝票を確認もせずに支払いを済ませていた。瀬名が財布に手をかける前に、もう終わっている。


「今日は、条件の話は控えます。まずは顔を合わせておきたかっただけなので」


 瀬名は伝票の消えたテーブルへ、一度だけ視線を落とした。


「律儀ですね」


「政略であっても、初対面で数字の話をするのは失礼だと思っています」


「次は、いつ会うんですか」


「条件のすり合わせは、双方の代理人を挟んで後日行います。今日はその前段階です」


「随分きっちりしてますね」


「政略なので」


 その一言で、片付けられてしまった気がした。


 だが言い分そのものは、意外にまっすぐだった。少なくとも、瀬名が想像していた「事務的に処理する相手」という像とは、少しずれている。


 個室を出て、ホテルのロビーで別れる段になって、棚倉は一度だけ足を止めた。振り返りはしない。ただ、背を向けたまま数秒、動かなかった。


「……棚倉さん?」


「いえ」


 棚倉はそのまま歩き出す。振り返らずに。


「また、連絡します」


 その後ろ姿を見送りながら、瀬名は自分の中に残った違和感の正体を探した。冷淡だと思っていた。実際、口数も少なく、笑いもしない。なのに、辛い物を避けてくれたことも、グラスを奪うように注いだことも、どこか誰かの扱いに慣れているような手つきだった。


 初対面の相手に向ける態度には、見えなかった。


 棚倉玲司。


 写真で覚えた名前を、もう一度胸の中で呟く。


 駅までの道を歩きながら、瀬名はふと自分がまた何かを数えていることに気づいた。信号の点滅、横断歩道の白線、街灯の間隔――七時ちょうど、個室で氷の溶ける音を数えていた時と同じ癖だ。あの時は緊張を逃がすためだった。今は、何を逃がそうとしているのか、自分でも分からない。


 スマートフォンが短く震えたのは、駅の改札を抜けた直後だった。


 棚倉からのメッセージだった。


 〈本日はありがとうございました。次回、お食事の席を設ける際は、事前に苦手な味付けを伺います〉


 業務連絡のような文面の中に、辛味を避けてくれた皿のことが、さりげなく紛れ込んでいる。


 瀬名はその一文を、二度読み返した。返信をどう打てばいいのか分からず、指がしばらく画面の上で止まる。結局、短く「お疲れ様です」とだけ送って、それ以上は打てなかった。


 画面が暗くなるまで、あと何秒あるのか。無意識に数えかけて、瀬名は自分でそれに気づき、スマートフォンをポケットに戻した。


 うなじの奥が、また微かに冷たかった。今度のそれは、嫌な感覚ではなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


棚倉のワインを注ぐ場面は、プロットの時点では存在しませんでした。書きながらソムリエとの短いやり取りを入れたら、棚倉が勝手に瓶を取り上げてしまって、書いている自分が一番驚きました。本人は独占欲だと自覚していないはずで、そこがこのキャラの厄介なところだと思います。


今回、瀬名が従業員の話で我を忘れて早口になり、あとで急に恥ずかしくなって黙り込む場面を書き足しました。彼は工場のこととなると一番歯止めが利かなくなるタイプで、その空回りごと棚倉に静かに受け止められてしまうのが、この二人らしいと思います。


氷の溶ける音を数える癖が、最後にもう一度顔を出すのも今回のお気に入りです。緊張をやり過ごすための癖だったはずが、いつの間にか違う意味を持ち始めている――そのことに瀬名自身はまだ気づいていません。


瀬名が最後に感じる違和感は、まだ彼自身も言葉にできていません。次話では条件交渉の場で、その違和感がもう少しだけ輪郭を持ち始めます。よろしければ引き続きお付き合いください。

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