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第1話: 突然の話

 旋盤の油の匂いが、指先に染みついたまま取れない。


 悠斗はその指で応接室のドアノブを回した。父に呼ばれるのは珍しくない。だが「話がある、応接室に来い」というのは珍しかった。工場の話なら、いつも現場で立ち話で済ませる父だ。


「入ります」


 声をかけてドアを開けると、夕方の弱い光がブラインドの隙間から斜めに差し込んでいた。八畳ほどの狭い応接室に、来客用のソファがひとつ。父の康平はその上に、めずらしく背筋を伸ばして座っていた。テーブルの上には、見慣れない社名の入った封筒が一つ。


 封筒から目が離せなかった。棚倉グループ、という文字が印刷の角ばった書体で光っている。


「座れ」


 父の声は、いつもより低かった。瀬名は言われるままソファに腰を下ろす。工場の椅子とは違う柔らかさが、かえって落ち着かなかった。


「棚倉さんから、正式に話が来た」


「取引の話なら、俺より営業に――」


「違う」


 康平は言葉を切った。それから、まるで自分に言い聞かせるように続けた。


「お前の結婚の話だ」


 一瞬、聞き間違えたのだと思った。政略結婚だなんて、時代劇でしか聞いたことのない言葉だ。


「……は?」


「棚倉グループの次期社長――棚倉玲司さんとの縁談だ。向こうの家から、正式に打診が来ている」


 室内の空気が、急に薄くなった気がした。


「待ってくれ。俺は、男だぞ」


 声が裏返りかけた。心臓が、変な速さで一つ跳ねる。


「向こうも承知の上だ。棚倉家では跡取りの結婚相手の性別は問わない、と最初から言ってきている」


 康平の声は淡々としていたが、その手はテーブルの上で固く握られていた。


 父がこんな顔をするのを、見たことがなかった。二年前、取引先が一つ離れた時も、康平は現場に立って涼しい顔をしていた男だ。


「……本気で言ってるのか」


「本気だ」


 父はそう言って、初めて瀬名の目をまっすぐに見た。


「うちは、棚倉グループなしでは半年も持たない」




 その言葉の重みが、瀬名の胸に落ちてくるまで、少し時間がかかった。


 瀬名工業は、精密加工の技術で三代続いてきた町工場だ。父の代から棚倉グループの部品供給を担い、それを軸にほかの取引先とも関係を広げてきた。だが二年前、主要取引先の一つが海外生産に切り替えて撤退した。それ以来、棚倉グループへの依存度は上がる一方だった。


「最近の受注、落ちてるのは知ってるだろう」


「知ってる。だから最近、自分でも新規開拓を回してた」


「ああ。お前がよくやってくれてるのは分かってる」


 康平はテーブルの封筒に視線を落とした。


「だが、それだけじゃ間に合わない。棚倉さんのところが今の発注量を維持してくれるかどうかで、来年のうちが決まる」


「その発注の話と俺の結婚に、何の関係がある」


 声が思ったより尖った。父は怯まなかった。


「向こうの会長――棚倉さんのお祖父さんが、昔からうちの技術を買ってくれている。だが会社の中には、うちみたいな規模の工場との取引を切りたがってる人間もいるらしい。もっと大きな会社と組んだほうが得だ、という考え方だ」


「それで」


「棚倉さんの結婚は、そのまま棚倉グループの経営方針を左右する話になる。跡取りの結婚相手が誰なのかで、次の十年どこと深く組むかが決まる。……そう向こうの担当者が言っていた」


 黙って父を見た。康平の頬は、少し前より薄くなっていた。疲れと申し訳なさが、その顔に同時に浮かんでいる。


「つまり俺と結婚すれば、棚倉さんはうちを選び続けるってことか」


「そういうことになる」


「馬鹿げてる」


 思わず声が出た。


「政略結婚なんて、時代劇の話だろ。うちは武家でも財閥でもない、ただの町工場だぞ」


「馬鹿げてるのは俺も分かってる」


 康平の声が、初めて少し揺れた。


「だが、うちには三十人の従業員がいる。田中さんも山口さんも、みんな家族を養ってる。俺の代で工場を潰したら、あの人たちの生活まで潰すことになる」


 その名前を一つひとつ挙げる父の声に、言葉を失った。工場の従業員は、瀬名にとっても顔の分かる、名前で呼べる相手だった。小学生の頃、正月に山口の家に呼ばれて、雑煮に入った餅を何個もお代わりした記憶がある。あの頃と同じ顔で、山口は今も旋盤の前に立っている。


「分かってるよ。工場のことは、俺だって同じだけ大事に思ってる」


「悠斗」


 康平が、テーブル越しに手を伸ばしかけて、途中で止めた。


「お前にこんなことを頼む俺を、殴りたいだろう」


 答えられなかった。殴りたいわけではなかった。ただ、自分の人生の一番大きな部分を、書類一枚の話し合いで決められていく感覚が、どうしようもなく気持ち悪かった。




 康平は封筒から一枚の写真を取り出し、テーブルの上に滑らせた。


「相手の顔くらいは、見ておけ」


 反射的にそれを見た。


 写った男は、瀬名より年上に見えた。整った顔立ちに、隙のないスーツ。表情はほとんど動いていない。証明写真のような硬さだった。


「棚倉玲司さん。三十三歳。棚倉グループの専務で、次期社長に内定してる」


 写真を見つめたまま、なぜか妙な感覚に襲われた。


 知らない顔のはずだった。少なくとも、記憶にはっきりと残っているような相手ではない。それなのに、写真の男の目元を見た瞬間、うなじのあたりがひやりとした。


 何かを思い出しかけて、思い出せない。低い声の断片のようなものが、耳の奥でひとつだけ鳴って消えた。


 康平が瀬名の顔を覗き込んだ。


「どうした」


「いや」


 写真から視線を上げた。


「別に。ただの初対面の相手だ」


 自分でそう言いながら、腑に落ちなかった。初対面なら、こんなふうに指先が冷たくなるはずがない。


「一度、向こうと顔合わせの席を設けたいそうだ。来週、都合をつけられるか」


 写真を見たまま、しばらく黙っていた。断る理由はいくらでも思いつく。だが、それを口にすれば、この応接室にいる従業員たちの顔が、頭の中で一人ずつ静かに首を横に振る気がした。


「……分かった」


「悠斗」


「行くよ、顔合わせ。それで工場が保つなら、行く」


 言ってしまってから、思ったより自分の声が落ち着いていることに、瀬名自身が一番驚いていた。


 康平は深く頭を下げた。その白髪の増えた頭頂部を見下ろしながら、瀬名は写真の中の男の顔を、もう一度盗み見た。


 棚倉玲司。


 どこかで、この名前を聞いたことがある気がした。それがいつ、どこでだったのか――記憶の底に手を伸ばしても、指先はただ空を切るだけだった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


このお話は、政略結婚というよくある設定を、なるべく地に足のついた形で書きたくて始めました。町工場の跡取りである瀬名の「殴りたいわけじゃない、ただ気持ち悪い」という感覚は、書いていて自分でも一番大事にしたい一文になりました。


棚倉の名前に感じる違和感は、瀬名自身もまだ正体に気づいていません。彼がいつ、どんなふうにその記憶を思い出すのか、しばらくは瀬名と同じ速度で読者の方にも「あれ、なんだっけ」と感じてもらえたら嬉しいです。


次話では、いよいよ棚倉本人との顔合わせが描かれます。写真の中の硬い表情の男が、実際にはどんな人物なのか。ゆっくり書いていきますので、よろしければ引き続きお付き合いください。

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