21話 パートナー探し
王立音楽コンクールへの出場が決まった翌日。
音瀬奏は、ルミナス川のほとりで頭を抱えていた。
秋の気配を含んだ風が、柳の枝を揺らし、足元の枯れ葉が乾いた摩擦音を立てて転がっていく。その寒々しい響きが、今の奏の心境を表しているようだった。
「……全滅だ」
奏は手帳に書き出したリストを眺め、深い溜息をついた。
昨日、執事のスヴェンから『鍵盤の魔女』ことソフィア・ツー・ロイス男爵令嬢の名前が挙がった。
しかし、「気に入らない相手には椅子を投げつける」という強烈な前評判に、奏は二の足を踏んだのだ。
いくら腕が良くても、コミュニケーションが取れなければアンサンブルは成立しない。まずは、もう少し「話が通じそうな」ピアニストを探そう。
そう考えて、王都の音楽家ギルドや、ツテのある演奏家たちを当たってみたのだが――。
結果は、惨敗だった。
「どこも門前払いだな」
木の上からライラが降りてきた。彼女の手には、ギルドから持ち帰った報告書が握られている。
「ギルドに登録されているめぼしいピアニストに打診してみたが、全員に断られた。『今は忙しい』『体調が優れない』『実家の猫が病気で』……理由は様々だが、明らかに口裏を合わせている」
「やっぱり、圧力かな」
「間違いないだろう。ゲルマン伯爵の手が回っている」
ライラは苦々しげに舌打ちをした。
宮廷楽団の人事権を握るゲルマン伯爵。彼にとって、甥であるベンの敵となる奏は目の上のたんこぶだ。
奏に協力する者は、伯爵家を敵に回すことになる。将来ある音楽家たちが、報復を恐れて関わり合いを避けるのは当然だった。
隣で紅茶を飲んでいたミアが、憤慨してバスケットを強く叩いた。
「卑怯者! 実力で勝負できないからって、外堀から埋めるなんて!」
「まあ、予想はしていたけどね……」
奏は苦笑した。
ベンとの勝負は、ステージに上がる前から始まっているのだ。
「こうなると、やはりスヴェンの言っていた『最終手段』に頼るしかなさそうだな」
ライラが腕を組む。
「ソフィア・ツー・ロイス男爵令嬢……か」
その名を聞いた途端、奏の背筋に冷たいものが走った。
「……ねえ、本当にその人で大丈夫なのかな? 椅子が飛んでくるような人と、音楽が作れる気がしないよ」
「安心しろ。私が切り払ってやる」
「そういう問題じゃなくて……」
奏が項垂れていると、茂みの向こうから足音が聞こえてきた。
「あら、暗い顔してどうしたの? お葬式?」
現れたのは、アメリだった。
今日は非番なのか、落ち着いた色合いの私服を着ている。手には差し入れの紙袋を持っていた。
「アメリさん! 来てくれたんだ」
「ええ。あんたがコンクールに出るって噂、王宮でも持ちきりよ。ベンが『あいつを公開処刑にしてやる』って触れ回ってるからね」
アメリは呆れたように肩をすくめ、紙袋から焼き菓子を取り出した。
「ほら、お食べ。頭を使ったら糖分補給よ」
「ありがとう……。実は、伴奏者が見つからなくて困ってて」
奏が事情を説明すると、アメリはふむ、と顎に手を当てた。
「なるほどね。ゲルマンの爺さんが手を回したか。……まともな神経のピアニストなら、今のあんたには近づかないわよ。自分のキャリアが終わっちゃうもの」
「やっぱり、そうですか……」
「でも、一人だけ例外がいるわ」
アメリはニヤリと笑った。
「権力も、常識も、他人の評価も一切気にしない。ただ『良い音楽』のためなら悪魔とだって契約しかねない、とびきりの変人がね」
「それって、もしかして……」
「ソフィア・ツー・ロイス」
アメリの口から、再びその名が出た。
スヴェンだけでなく、アメリまで彼女を推すとは。
「アメリさんも、彼女を知ってるんですか?」
「知ってるも何も、音楽院時代の同期よ。……もっとも、彼女は飛び級しすぎて、ほとんど顔を合わせなかったけど」
アメリは遠い目をした。
「あの子はね、『鍵盤の魔女』って呼ばれてたの。学生時代から技術は別格。教授たちでさえ、彼女の演奏には口を出せなかった。……ただ、性格がねぇ」
「性格?」
「音楽以外に興味がないのよ。食事も忘れてピアノを弾き続けるし、気に入らない演奏家とは絶対に合わせない。昔、貴族の夜会で演奏を頼まれた時なんて、『客のおしゃべりがうるさい』って言って、ピアノの蓋を閉めて帰っちゃった伝説があるわ」
「……うわぁ」
奏の頬が引きつる。
まじかよ……異世界にもいるんだ、そんなロックな奴!
「腕は確かよ。今のあんたのフルートについてこられるピアニストがいるとしたら、この国には彼女しかいない。……毒を食らわば皿まで。猛獣使いになる覚悟は、ある?」
奏はごくりと唾を飲み込んだ。
猛獣使い。
自分の周りを見渡せば、リスに猫にウサギ。そして、最強の女騎士に、お転婆な公爵令嬢。
ある意味、すでに猛獣使いのようなものかもしれない。
「……うん。行ってみるよ。彼女しかいないなら、お願いするしかない」
奏は決意を固めて頷いた。
§
その日の午後。
奏、ライラ、そして「絶対についていく!」と言い張って聞かなかったミアの三人は、馬車に揺られて王都の一角にある高級住宅街へと向かっていた。
石畳は綺麗に整備され、ガス灯が立ち並ぶ洗練された通りだ。
スヴェンから聞いていた住所は、お化け屋敷のような洋館ではなく、富豪の商人が建てたという高級集合住宅だった。
「ここか……」
奏たちは、重厚な石造りの建物の前で馬車を降りた。
一階には高級なブティックが入っており、上階が居住スペースになっているらしい。
「意外ね。もっとこう、蜘蛛の巣が張ったような場所に住んでるのかと思ったわ」
ミアが物珍しそうに見上げる。
「彼女は作曲家としての功績で男爵位を授与された、一代貴族だからな。実家は裕福な商家だったと聞く。金には困っていないのだろう」
ライラが補足する。
なるほど、だからこそ貴族の圧力にも屈しない独自の立ち位置を築けているのかもしれない。
奏たちは入り口の管理人を通し、最上階の部屋へと向かった。
磨き上げられたオーク材のドアの前に立つ。
「よし、行こう」
奏は深呼吸をして、扉をノックした。
しばらくして、内側から錠前が外れる金属音が響いた。
ドアを開けたのは、黒と白のクラシカルなメイド服に身を包んだ、初老の女性だった。
「……どちら様でございましょうか」
落ち着いた、品のある声だ。
「あの、音瀬奏と申します。ソフィア様に演奏の依頼があって参りました」
奏が要件を伝えると、メイドは困ったように眉を寄せた。
「お嬢様は今、作曲の佳境に入っておられまして……どなたともお会いにならないと」
「そこをなんとか! アメリさんの紹介もあるんです」
奏が食い下がると、奥からもう一人、若いメイドが顔を出した。こちらはトレイに山盛りのサンドイッチを載せているが、手つかずのまま戻ってきたようだ。
「マーサさん、ダメです。お嬢様、また食事を召し上がりません。『音が逃げるから入ってくるな』って……」
「まあ……困りましたね」
二人のメイドは顔を見合わせた。どうやら、主人の扱いにかなり手を焼いているらしい。
その時だった。
部屋の奥から、不協和音の塊が爆風のように響き渡った。
「違う! これじゃない!!」
女性のヒステリックな叫び声。
続いて、何かが床に叩きつけられる、鈍く重い衝撃音が続いた。
ミアが息を呑んで奏の背中に隠れる。
メイドのマーサが、諦めたように溜息をついた。
「……ご覧の通りでございます。今のお嬢様に近づくのは、嵐の海に出るようなものかと」
「それでも、会わせてください」
奏は引かなかった。
嵐の海なら、渡り切ってみせる。
奏の真剣な眼差しに、マーサは少し考え込み、やがてドアを大きく開けた。
「……承知いたしました。ただし、怪我をなされても責任は負いかねます」
「ありがとうございます」
奏たちは礼を言い、部屋の中へと足を踏み入れた。
そこは、外観の優雅さとは裏腹な、カオスの空間だった。
広いリビングルームの床一面に、五線紙が散乱している。書き損じの紙くずが雪のように積もり、その上をグランドピアノが鎮座していた。
カーテンは締め切られ、昼間だというのに薄暗い。
そのピアノに向かい、鬼気迫る形相で鍵盤を叩いている人物がいた。
漆黒の髪は、まるで肖像画のベートーヴェンのように情熱的に逆立ち、背中へと乱れ落ちている。
だが、その乱れ髪の隙間から覗く横顔には、隠しきれない貴族としての気品と、汗ばんだ首筋が放つ大人の色香が漂っていた。
ゆったりとしたシャツの襟元は大きく開き、鎖骨が露わになっているが、本人は気にする様子もなく鍵盤を支配している。
ソフィア・ツー・ロイス男爵令嬢だ。
彼女は奏たちが入ってきたことにも気づかず、ブツブツと独り言を呟きながら演奏を続けていた。
「レのフラット……いや、ここはシャープか? 違う、もっと鋭く、肉を抉るような……」
彼女が弾いているのは、聴いたことのない曲だ。
おそらく、彼女自身のオリジナル曲。
激しく、情熱的で、そしてどこか孤独な響き。
奏は息を呑んだ。
(すごい……)
一聴しただけで分かった。この人は、ただ者ではない。
音の粒立ち、ダイナミクス、表現力。どれを取っても一級品だ。
そして何より、その音には「飢え」があった。
世界に対する不満、満たされない渇望、そして音楽への執着。
それが黒い炎となって、音符の一つ一つに宿っている。
やがて、彼女は苛立ちを露わにし、両手で鍵盤を激しく叩きつけた。
弦が悲鳴を上げ、残響が室内の空気を震わせる。
「あああああ! 出てこない! 私の求めている音が、どこにもない!」
彼女は譜面台にあった楽譜を鷲掴みにして、背後へ放り投げた。
紙束が空中で踊り、雪崩のように床へ散らばっていく。
「……あの」
奏が声をかけると、ソフィアが勢いよく振り返った。
眼鏡の奥の瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く光る。目の下には濃い隈があり、不健康そのものだが、その眼光だけは異様にぎらついていた。
「……誰?」
低く、地を這うような声。
「マーサ! 誰も入れるなと言ったはずよ! 思考が途切れるでしょうが!」
彼女は近くにあったメトロノームを手に取った。
いつでも投げられる構えだ。
ライラが即座に奏の前に立ち塞がる。
「待て。我々は怪しい者ではない」
「帰れ」
問答無用だった。
「私は今、機嫌が悪いの。凡人の相手をしている暇はないのよ。……3秒以内に消えないと、このメトロノームが顔面に飛んでいくわよ」
本気だ。彼女は本気で投げようとしている。
奏はライラの背後から顔を出し、一歩前へ出た。
「音瀬奏と言います! あなたに、コンクールの伴奏をお願いしたくて来ました!」
「はっ! 伴奏? 私が?」
ソフィアは鼻で笑った。
シャツから覗く白い肩を揺すり、呆れたようにため息をつく。
「寝言は寝て言いなさい。このソフィア・ツー・ロイスに、誰かの引き立て役をやれって言うの? 私のピアノについてこられる人間なんて、この国にはいないわ」
彼女は吐き捨てるように言った。
「退屈な演奏に合わせるくらいなら、死んだほうがマシよ。さあ、帰った帰った」
取り付く島もない。
だが、奏は引かなかった。
彼女の演奏を聴いて、確信したからだ。
この人だ。
この激情、この飢餓感、そして圧倒的な技術。彼女となら、ベンを倒せる。いや、それ以上の音楽が作れる。
「退屈させません」
奏は真っ直ぐに彼女を見つめた。
「一度だけでいい。僕の音を聴いてください。それでダメなら、帰ります」
奏の瞳には、強い意志が宿っていた。
ソフィアは少し驚いたように眉を上げた。今までの有象無象の依頼人たちとは、少し気配が違うと感じたのかもしれない。
彼女は持っていたメトロノームをピアノの上に置き、値踏みするように奏をじろじろと見た。
「……へえ。黒いフルート……変な楽器ね」
彼女は興味なさげに言ったが、その目は笑っていなかった。
「いいわ。一曲だけ聴いてあげる。……ただし」
彼女は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「私の心を1ミリでも震わせられなかったら、二度とこの敷居は跨がせないわよ。それでもいいなら、吹きなさい」
それは、音楽家としての命を懸けたオーディションだった。
奏は静かに微笑んだ。
「望むところです」
彼はケースを開け、黒いフルートを組み立てた。
ライラとミアが、固唾を飲んで見守る。
高級アパルトマンの一室。
散乱した楽譜の山の中。
奏は深く息を吸い込んだ。
この一音に、全てを込める。
「鍵盤の魔女」への挑戦状だ。




