20話 決闘の申し込み
嵐のような演奏会から一夜明けた、ルミナス川のほとり。
そこには、昨日までの宮廷の喧騒が嘘のような、穏やかな時間が流れていた。
陽光が水面を照らし、心地よい風が柳の枝を揺らす。
奏はいつもの指定席である木陰に座り、日課のロングトーン練習を行っていた。
長く、真っ直ぐに伸びるフルートの音色。
それに呼応するように、シマリスのチップが奏の肩で尻尾を揺らし、猫のトラが足元で喉を鳴らす。
「……うん、いい感じだ」
奏は楽器を下ろし、深く息を吐いた。
昨夜のベン・フォン・ホフマンの演奏。技術を誇示するだけの音の洪水は、奏の心に重たい澱を残していた。
こうして自然の中で、自分の音を確かめるように吹くことで、乱れた調律が整っていく感覚がある。
「おはよう、カナデ!」
元気な声と共に、茂みをかき分けて少女が現れた。
ミアだ。
彼女はいつものようにバスケットを提げ、慣れた足取りで奏の隣に腰を下ろした。
「おはよう、ミア。今日も早いね」
「もちろんよ。昨日のあんな演奏を聴かされた後だもの、早くカナデの音で耳を浄化しなきゃやってられないわ」
ミアは頬を膨らませて文句を言いながらも、バスケットからポットを取り出した。手際よく紅茶を注ぎ、奏に差し出す。
「ありがとう。……昨日の演奏会、大変だったね」
奏が苦笑交じりに言うと、ミアは大きく頷いた。
「最悪だったわ。お父様なんて途中で席を立っちゃうし、会場の雰囲気はお葬式みたいだったし。……あんなのが『首席』だなんて、信じられない」
「技術はあったんだけどね……。周りの音を聴こうとしないのが、残念だったな」
奏は言葉を選んで感想を述べた。
耳障りだった、とは言わない。ただ、アンサンブルとして成立していなかったことが、音楽家として悲しかったのだ。
「カナデは優しすぎるのよ。あんなの、ただの騒音よ」
ミアが毒づいていると、頭上から声が降ってきた。
「同感だ。あれを音楽と呼ぶのは、音楽への冒涜だろう」
木の上からライラが軽やかに飛び降りてきた。
彼女もまた、いつものように警備(という名のサボり)に来ていたのだ。
「おはよう、ライラ。……厳しいね」
「事実だ。あんな指揮官がいたら、部隊は全滅する」
ライラは肩をすくめ、ミアが入れた紅茶を受け取った。
フルート吹きと公爵令嬢、そして騎士団長。
奇妙な取り合わせの「音楽同盟」による、穏やかなお茶会が始まる――はずだった。
「――見つけたぞ! 音瀬奏ぉぉぉ!!」
平和な空気を切り裂く、ヒステリックな絶叫が響いた。絶叫のせいか発音もおかしい。
動物たちが一斉に驚いて逃げ惑い、ミアがカップを取り落としそうになる。
土手の上から、一人の男が転がり落ちるように駆け下りてきた。
乱れた金髪。充血した目。そして、泥で汚れた派手な衣装。
昨夜の「主役」、ベン・フォン・ホフマンその人だった。
「……ベンさん?」
奏が目を丸くする。
昨日のステージ上の自信満々な姿とは似ても似つかない、憔悴しきった様子だ。だが、その瞳には狂気じみた闘争心が宿っている。
ベンは奏の目の前まで来ると、肩で息をしながら、食って掛かるように指を突きつけた。
「貴様……! 貴様のせいだ! 貴様が変な洗脳をしたせいで、聴衆の耳がおかしくなってしまったんだ!」
「ええと……おはようございます。何の話ですか?」
「とぼけるな! 昨日の演奏会だ! 僕の完璧な演奏が、なぜ評価されない! なぜ途中で帰る! それは貴様が、あんな貧乏くさい音を『癒やし』だなんだと流行らせたからだ!」
完全な言いがかりだった。
自分の実力不足を棚に上げ、全ての責任を奏に押し付けようとしている。その歪んだ思考回路に、ライラが不快そうに剣の柄に手をかけた。
「お前、いい加減にしろよ。自分の無能をカナデのせいにするな」
「うるさい! 野蛮な女騎士は引っ込んでろ! 僕は今、芸術の話をしているんだ!」
ベンは喚き散らし、懐から一枚の紙を取り出して奏に投げつけた。
「拾え! そして読め!」
奏は足元に落ちた紙を拾い上げた。王家の紋章が透かしに入った、厚手で上質な紙だ。
そこには『王立音楽コンクール・開催要項』と記されていた。
「……コンクール?」
「そうだ。来月行われる、若手音楽家の登竜門だ」
ベンは髪をかき上げ、歪んだ笑みを浮かべた。
「昨夜の屈辱、このままでは終わらせない。僕の実力が貴様より上であることを、公衆の面前で証明してやる。……このコンクールで、僕と勝負しろ!」
「勝負……?」
「逃げるとは言わせないぞ。もし貴様が勝てば、僕はこの国から出て行ってやる。だが、僕が勝ったら……」
ベンは目をぎらつかせ、奏の愛用する黒いフルートを指差した。
「貴様は二度と人前で楽器を吹くな。そして、その黒いフルートをへし折って川に捨てろ!」
その言葉に、奏の表情から温度が消えた。
彼は静かに立ち上がり、黒いフルートを愛おしげに撫でた。
「……楽器に罪はありませんよ」
「はん! 道具なんざ買い換えればいいんだよ。とにかく、受けるのか受けないのか、はっきりしろ!」
奏はため息をついた。
音楽で勝ち負けを決めること自体は、前世でもコンクールを目指していた身として否定はしない。
だが、こんな憎しみに満ちた勝負に意味があるのだろうか。
「断ります。僕はただ、ここで楽しく吹ければそれで――」
「受けて立ちたまえ、奏君」
威厳のある低い声が、会話に割って入った。
ベンがぎょっとして振り返る。
そこには、いつの間にか現れた黒塗りの馬車と、そこから降り立つシュタインハイム公爵ルドルフの姿があった。
背後には執事のスヴェンも控えている。
「お、お父様!?」
ミアが驚きの声を上げる。
ルドルフは娘に片手を挙げて応えると、奏の方へと歩み寄った。
「公爵様、どうしてここに……」
「なに、公務で近くまで来たついでだ。少し休憩させてもらおうと思ってな」
ルドルフはこともなげに言い、それからベンの方へ冷ややかな視線を向けた。
「だが、面白い話が聞こえてきたものでね。……ホフマン君。君は昨夜の失態を挽回するために、彼に決闘を申し込んだというわけか」
「け、決闘などと! これは神聖な音楽の……」
「結構。実に結構だ」
ルドルフは薄く笑った。だがその目は笑っていない。
「昨夜の演奏会で、我が国の宮廷楽団の評判は地に落ちた。このままでは、音楽後進国として諸外国の笑い者だ。……そこでだ」
彼は奏に向き直り、その肩に手を置いた。
「奏君。君が出てくれ」
「えっ? でも僕は……」
「実はな、先日ハインリヒ殿下とお会いしたのだ。君が宮廷楽団を去ることになった経緯も、全て聞いたよ」
ルドルフの言葉に、奏はハッとした。
第三王子であるハインリヒが、裏で動いてくれていたのだ。
「殿下は心を痛めておられた。不当な圧力で才能ある若者が潰されるなど、あってはならんことだと。……そして、私にこう仰った。『彼に、正当な実力勝負の場を与えてやってほしい』とね」
「ハインリヒ殿下が、そんなことを……」
奏の胸が熱くなる。
別れ際、手切れ金を渡して自分を逃がしてくれたハインリヒ。彼はあれで終わりにしたわけではなく、奏が再び表舞台に戻れるチャンスを探してくれていたのだ。
「殿下からの提案でもあり、私自身の願いでもある。……君の実力は私が保証する。このコンクールで優勝し、君こそが真の『宮廷楽団首席』に相応しい器であることを証明してほしいのだ」
ルドルフの言葉に、ベンが顔面蒼白になった。
公爵が、平民である奏を「首席に相応しい」と明言したのだ。それは実質、現在の首席であるベンへの解雇宣告に近い。
「な、何を仰いますか! 首席はこの僕です! 叔父上の推薦もあって……」
「黙りたまえ」
ルドルフの一喝で、ベンは口を噤んだ。
「ゲルマン伯爵の根回しなど知らん。芸術の世界にあるのは実力のみ。……もし君がこのコンクールで奏君に勝てたなら、その時は私も君の実力を認めよう。首席の座も安泰だ」
それは、ベンにとってもラストチャンスだった。
ここで奏を倒せば、公爵も認めざるを得ない。逆に負ければ、全てを失う。
「の、望むところです! やってやろうじゃありませんか!」
ベンは震える足で立ち上がり、奏を睨みつけた。
「おい、オトセ! 公爵様の前だ、逃げないよな?」
奏は困惑していた。
公爵の期待も、ハインリヒ王子の配慮もありがたい。だが、争いごとは苦手だ。それに、コンクールに出るとなれば、今の自由気ままな生活も変わってしまうかもしれない。
迷う奏の袖を、ミアがくいと引いた。
「……カナデ」
彼女は真剣な瞳で見上げていた。
「出てよ。あいつをギャフンと言わせてやって。……私、悔しいの」
その純粋な怒りと信頼。
それに、昨夜のアメリの悲痛な顔が重なる。ベンがいる限り、宮廷楽団は腐敗し、仲間たちの居場所は失われていく。
そして――。
奏の脳裏に、もう一人の少女の顔が浮かんだ。
王宮の庭園で出会い、心を通わせた王女、マリー。
『行かないで……』
別れ際に泣きじゃくっていた彼女の声が蘇る。
『必ず強くなります。誰も文句を言わせないくらい偉くなって、先生を迎えに行きます』
彼女はそう誓ってくれた。
籠の中の鳥だった彼女が、理不尽な運命に抗おうとしていた。
(……僕だけが、安全な場所で逃げ回っていていいのか?)
ハインリヒ殿下がチャンスをくれた。
マリーが再会を信じて待ってくれている。
自分がここで戦わなければ、彼女に顔向けできない。
彼女が胸を張って「私の先生だ」と言えるような音楽家でありたい。
奏は深呼吸をした。
ルミナス川の風を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
迷いは、風と共に消えた。
「……分かりました」
奏は顔を上げた。その瞳には、今までに見せたことのない強い光が宿っていた。
「受けます。その勝負」
「ほ、本当にやるんだな!?」
ベンが声を裏返らせて叫ぶ。
「ええ。ただし条件があります」
奏はベンを真っ直ぐに見据えた。
「もし僕が勝てば、僕が首席に復帰します。……そして、宮廷楽団の運営方針を改め、団員たちの意見を尊重すること。アメリさんやカール先生への不当な扱いをやめてもらいます」
「ふん、負けた時の心配でもしていろ! いいだろう、その条件飲んでやる!」
ベンは捨て台詞を残し、逃げるように走り去っていった。
その背中を見送りながら、奏は大きく息を吐いた。
「……言っちゃった」
「よく言った、カナデ!」
ライラが背中をバシッと叩いた。痛い。
「お前なら楽勝だ。あのハンペン男など、鼻息で吹き飛ばしてやれ」
「鼻息って……」
苦笑する奏に、ルドルフが満足げに頷いた。
「礼を言うよ、奏君。ハインリヒ殿下も喜ばれるだろう。君のおかげで、我が国の音楽界にも浄化の兆しが見えた」
「買いかぶりすぎですよ。……でも、やるからには全力を尽くします」
「うむ。必要な支援は惜しまない。何かあればスヴェンに言うといい」
スヴェンが一礼する。
こうして、音瀬奏の王立音楽コンクールへの出場が決まった。
しかし、ここで一つ、大きな問題が浮上した。
「……あ、待って」
奏が青ざめた顔で声を上げた。
「どうした?」
「コンクールの規定……これ、『独奏』じゃなくて『協奏』部門って書いてある」
奏が持っていた紙を指差す。
そこには確かに『課題曲及び自由曲。伴奏者を同伴すること』と明記されていた。
フルートのコンクールでは、ピアノ伴奏付きで演奏するのが一般的だ。無伴奏の曲もあるが、コンクールのような大舞台では、伴奏との調和や音楽的な広がりも審査の対象になる。
「伴奏者……ピアノか」
ライラが腕を組む。
「ミアがいるではないか。先日、素晴らしいセッションをしていたぞ」
「わ、私!?」
ミアが目を輝かせた。
「やる! 私、カナデの伴奏やりたい!」
彼女はぴょんぴょんと飛び跳ねて立候補した。
確かに、ミアとの相性は抜群だ。彼女の感性は素晴らしく、奏の音に寄り添うことができる。
だが、奏は申し訳なさそうに首を横に振った。
「ごめん、ミア。……このコンクール、年齢制限があるんだ」
「え?」
奏が指差した箇所には、『参加資格:15歳以上』と書かれていた。
ミアは現在14歳。あと1歳足りない。
「嘘……そんな……」
ミアは絶望したように膝から崩れ落ちた。
「せっかく……せっかくカナデと一緒に舞台に立てると思ったのに……!」
目から涙が溢れ出す。
その悲しみようは見ていられないほどだった。ルドルフが慌てて娘を抱き起こし、慰める。
「泣かないで、ミア。……君とのセッションは最高だよ。それは変わらない」
奏も屈み込んで、彼女の頭を撫でた。
「でも、今回はルールだから仕方ないんだ。……その代わり、僕の応援団長になってくれないかな?」
「応援……団長?」
「うん。僕がくじけそうな時、一番近くで励ましてほしいんだ。ミアの笑顔があれば、僕は百人力だから」
ミアは鼻をすすり、涙を拭った。
「……分かったわ。私が世界一の応援をしてあげる。その代わり、絶対に優勝しなきゃ許さないんだから!」
「約束するよ」
指切りを交わし、ミアはようやく笑顔を取り戻した。
しかし、問題は解決していない。
最強のパートナー候補だったミアが出られないとなると、誰か別の伴奏者を探さなければならない。
「誰か、心当たりはないか?」
ライラが尋ねる。
「うーん……アメリさんはバイオリンだし、楽団のピアニストはベンの息がかかってるだろうし……」
奏は頭を抱えた。
ただ弾けるだけではダメだ。ベンに勝つためには、圧倒的な技術と、何より奏の変幻自在な音楽についてこられる感性を持ったピアニストでなければならない。
そんな都合の良い人材が、そう簡単に見つかるはずも――。
「……一人、心当たりがございます」
控えめな声が上がった。
全員の視線が集まる。
声を上げたのは、それまで空気のように控えていた執事のスヴェンだった。
「スヴェン? 誰かいるのか?」
ルドルフが問うと、スヴェンは眼鏡の位置を直し、淡々と言った。
「はい。少々……いえ、かなり癖のある人物ではありますが、腕前だけは保証いたします」
「癖があるって、どのくらい?」
奏が恐る恐る尋ねる。
「屋敷に引きこもり、三度の飯より音楽が好きで、気に入らない相手には椅子を投げつける程度の変人です」
「……それは、かなりだね」
奏の頬が引きつる。
だが、贅沢を言っている場合ではない。
「その方の名前は?」
「ソフィア・ツー・ロイス男爵令嬢。……通称『鍵盤の魔女』と呼ばれる、若き天才作曲家兼ピアニストでございます」
その名を聞いた瞬間、ルドルフが「ああっ!」と声を上げ、頭を抱えた。
「あの引きこもり娘か! 確かに才能はずば抜けているが、性格に難がありすぎる……」
「しかし、今の奏様が求めるレベルに応えられるのは、恐らく彼女しかおりません」
スヴェンは断言した。
奏は覚悟を決めた。
ベンとの対決。楽団の未来。そして自身の誇り。
全てを守るために、その「魔女」に会いにいくしかない。
「分かりました。その人に会ってみます」
奏の言葉に、新たな冒険の幕が上がった。
目指すは最強の伴奏者。
しかしその道のりは、コンクール本番以上に険しいものになりそうだった。
川辺には、再び風が吹き抜けていった。
それは、これから始まる波乱の日々を予感させる、少しだけ冷たく、そして熱を帯びた風だった。




