19話 崩壊する協奏曲
王都の中心に位置する王宮の大ホールは、今夜、絢爛豪華な光に包まれていた。
天井からは無数のクリスタルが垂れ下がる巨大なシャンデリアが吊るされ、磨き上げられた大理石の床を照らし出している。
壁際には豪奢なドレスや燕尾服に身を包んだ貴族たちが集い、扇子を片手に優雅な談笑を交わしていた。
今夜は、宮廷楽団による定期演奏会。
国の文化水準を示す重要なイベントであり、社交界における一大行事でもある。
その客席の最前列、一段高くなった貴賓席には、この国の法務を統括する重鎮、シュタインハイム公爵ルドルフの姿があった。
そして、その隣には娘のミアだけでなく、意外な人物が二名、同席していた。
一人は、燃えるような赤髪をハーフアップにし、深い青色のドレスを凛々しく着こなした女性――王宮騎士団第三部隊長、ライラ。
そしてもう一人は、仕立ての良い黒の礼服に身を包み、少し緊張した面持ちで座る黒髪の青年――音瀬奏である。
奏は落ち着かなげに、自身の袖口を触った。
「あの、公爵様……。本当に、僕がこんな席に座っていいんでしょうか? それに、この礼服までお借りしてしまって……汚してしまわないか心配で」
奏が恐縮して小声で尋ねると、隣の席のルドルフが鷹揚に頷いた。
「気にするな。私の古い礼服だが、仕立て直させたら君にぴったりだった。よく似合っているよ」
「はあ、ありがとうございます……」
「それに、君たちは私の『友人』として招いたのだ。堂々としていればいい」
今回の来場は、二つの理由があった。
一つは、コンサートミストレスであるアメリからの招待だ。『今の楽団の惨状を、あんたの耳で確かめてほしい』という、悲痛なSOSにも似た手紙が届いたのだ。
そしてもう一つは、それを知ったルドルフからの計らいだった。『ならば私の席を用意しよう。最高の席で、真贋を見極めるがいい』と。
周囲の貴族たちが、珍しげに、しかし好意的な視線を奏に向けていた。
「あの方が、公爵閣下の新しいお気に入りか?」
「聞き及んでおりますわ。先日、閣下が直々に楽団の窮状について意見を求めたとか」
「なんでも、川辺で不思議な演奏会を開いている隠れた巨匠だそうで」
「ほう……公爵が認めるほどの腕前とは、一度聴いてみたいものだ」
ルドルフが公然と奏を隣に座らせたことで、貴族たちの間には「彼は身分こそ平民だが、公爵が認めた芸術家である」という認識が広まっていた。
侮蔑の視線はない。あるのは、新たな才能への好奇心と期待だけだ。
奏は居心地の悪さを感じつつも、背筋を伸ばした。ここで縮こまっていては、招いてくれたルドルフの顔に泥を塗ることになる。
「堂々としていろ、カナデ。お前にはその資格がある」
ライラが耳元で囁く。彼女もまた、ドレス姿でありながら騎士としての威厳を保ち、周囲を圧倒していた。
やがて、客席の照明が落とされた。
ざわめきが波が引くように収まり、静寂がホールを支配する。
舞台袖から、楽団員たちが粛々と入場してきた。
黒い礼服に身を包んだ団員たちが配置につき、最後にコンサートミストレスのアメリが現れる。
彼女は貴賓席の方を一瞬だけ見上げた。奏の姿を確認すると、微かに、本当に微かにだが、安堵したように目元を緩めた。
(見ててね、カナデ。……これから起こる惨劇を)
そんな声が聞こえた気がした。
チューニングの音が止むと、指揮者のカールが登場した。
彼は観客に一礼したが、その顔色は優れない。額には脂汗が滲んでいる。
そして、満を持してソリストが登場した。
ベン・フォン・ホフマンである。
彼はこれ見よがしに手を振り、跳ねるような足取りでステージ中央へと進み出た。
衣装は派手な金色の刺繍が入った特注品で、スポットライトを浴びてギラギラと輝いている。手にしたフルートもまた、黄金の光を放っていた。
彼は深くお辞儀をする代わりに、客席に向かって大げさな投げキッスを送った。
貴族のご婦人方が、扇子の陰で眉をひそめる。
ベンはそれに気づかず、自信満々にフルートを構えた。
その視線が、貴賓席に座る奏とぶつかった。
ベンの目が驚愕に見開かれる。
(な、なぜあいつが公爵閣下の隣に!?)
動揺が見て取れたが、すぐに鼻で笑うような表情に変わった。
(ふん、まあいい。特等席で僕の完璧な演奏を聴けることを感謝するんだな!)
ベンはニヤリと笑い、指揮者のカールに顎で合図を送った。
カールが震える手でタクトを振り上げる。
演奏が始まる。
曲目は、難易度の高さで知られるフルート協奏曲。
オーケストラによる荘厳な導入部。アメリ率いる弦楽器隊が、重厚で整ったハーモニーを奏でる。腐っても宮廷楽団、基礎レベルは高い。
しかし、その調和は、ソリストの入りとともに粉々に砕け散った。
ベンが息を吹き込む。
鋭く、突き刺さるような高音が、ホールの空気を切り裂いた。
大きい。
あまりにも音が大きすぎた。
本来ならば、オーケストラの音の波に乗って優雅に歌うべき旋律が、まるで金切り声のように響き渡る。
ベンは自分の音量に酔いしれ、体を大きくのけぞらせて吹いている。
テンポが、揺れる。
指揮者のカールは必死にタクトを振ってテンポを維持しようとしているが、ベンはそれを完全に見ているようで見ていない。
自分が気持ちよく吹ける速さで、勝手に先走っていく。
オーケストラが慌てて追いかける。だが、ベンは彼らが追いつくと、今度は急にテンポを落として溜めを作る。
伴奏のリズムが崩れ、音が濁る。
アメリが必死に弓を動かし、視線で団員たちに合図を送って立て直そうとするが、中心にいるベンが嵐のように暴れ回っているため、修復が追いつかない。
それは協奏曲ではなかった。
ただの独演会と、それに振り回される伴奏者たちの悲鳴だった。
客席の空気が凍りついていく。
最初は好意的に聴こうとしていた貴族たちも、次第に表情を曇らせ、居心地が悪そうに身じろぎを始めた。
「……なんだ、あれは」
「音が外れているわけではないようだが……ひどく耳障りだ」
「以前の首席奏者は、もっと繊細だったはずだが」
ひそひそ話が漏れ聞こえる。
ベンはそのざわめきすらも、自分への賞賛だと受け取っているようだった。彼はさらに音量を上げ、超絶技巧のパッセージを見せつけるように吹き鳴らす。
指は回っている。舌突きも速い。
技術はあるのだ。
だが、そこには「音楽」が欠落していた。
作曲家への敬意も、共演者への配慮も、聴衆への愛もない。あるのは肥大化した自己顕示欲だけ。
貴賓席で、ルドルフは目を閉じた。
耳を塞ぎたい衝動を、理性で抑え込む。
隣のミアは、露骨に不快感を露わにしていた。
彼女はドレスの裾を強く握りしめ、睨みつけるようにステージ上のベンを見ている。
「……かわいそう」
ミアがぽつりと呟いた。
「オーケストラの皆さんが、かわいそう。あんなに頑張っているのに、あの人のせいで台無しだわ」
彼女の言う通りだった。
アメリをはじめとする団員たちの顔には、疲労と諦めが滲んでいた。彼らはプロとして最後まで弾き切る義務があるが、その心はすでに死んでいた。
奏は何も言わずにステージを見つめていた。
彼には聞こえていた。
アメリのバイオリンが上げている悲鳴が。カールのタクトが空回りする音が。そして、楽曲そのものが「こんなはずじゃない」と泣いている声が。
「……ひどいな」
隣でライラが囁く。
「戦場で規律を乱す兵士がいると、部隊全体が危険に晒される。今のあれは、まさにそれだ。指揮官の命令を聞かず、単独で突っ走る愚か者……」
「そうだね」
奏は小さく頷いた。
(技術はあるんだ。……もったいない)
ベンの音には、輝きがある。磨けば光る原石のような才能は確かにあるのだ。だが、その使い方が決定的に間違っている。
彼は楽器を鳴らすことには長けているが、音楽を奏でることはできていない。
自分以外の音を聴こうとしない限り、彼の音楽は一生、独りよがりの騒音のままだろう。
長く、苦痛に満ちた時間が過ぎ、ようやく終曲の和音が鳴らされた。
最後の一音が消えるか消えないかのうちに、ベンは楽器を下ろし、勝ち誇った顔で両手を広げた。
拍手。
それは、まばらで、乾いた音だった。
熱狂的なブラボーなどない。義務的で、どこか安堵を含んだ、「やっと終わった」という拍手。
しかし、ベンにはそれが見えていないようだった。
彼は満面の笑みで何度も深々とお辞儀をし、硬直しているカールの肩を抱き寄せ、嫌がるアメリの手を取って高く掲げた。
「ありがとう! ありがとう、我が愛すべき聴衆よ!」
ベンが叫ぶ。
その滑稽な姿に、何人かの客が失笑し、席を立ち始めた。
ルドルフもまた、静かに立ち上がった。
「……行くぞ」
公爵の言葉は短かったが、絶対的な拒絶を含んでいた。
彼は一度だけステージ上のベンを冷ややかな目で見下ろし、踵を返した。
それは、この国の音楽行政を司る重鎮による、明確な「否」の意思表示だった。
周囲の貴族たちも、公爵の退席を見て慌てて後に続く。
ざわめくホール。空席が目立ち始める客席。
ステージ上で、ベンはようやく異変に気づいたようだった。
「お、おい……? 待ってくれ、アンコールは!?」
彼は呼び止めようとしたが、誰も足を止めない。
ホールの外に出た一同は、夜風に当たって大きく息を吐いた。
「……疲れたな」
ライラが肩を回す。
「戦闘よりも消耗した気分だ。悪い音というのは、毒のように精神を削るものなのだな」
「耳が腐るかと思ったわ」
ミアが忌々しげに言い、それから奏を見上げた。
「ねえカナデ。早くいい音聴かせて。上書きしないと今夜は悪夢を見そうだわ」
「はは、分かったよ。帰りに一曲吹く?」
「お願い!」
ルドルフは苦笑しながら、奏に向き直った。
「すまなかったな、奏君。君にとっても不快な時間だったろう」
「いえ。……でも、アメリさんたちが心配です」
「うむ。楽団の改革が必要だ。だが、まずはあの勘違い男に引導を渡さねばならんか」
ルドルフの目は鋭く光っていた。
そこへ、裏口から出てきた人物が駆け寄ってきた。
アメリだった。
ドレスの裾をまくって走ってきた彼女は、奏たちの前で立ち止まり、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい! あんな演奏を聴かせてしまって……!」
「頭を上げてくれ、アメリ」
奏が優しく声をかけると、アメリは泣きそうな顔を上げた。
「悔しいのよ。みんな必死に練習してきたのに、あいつ一人のせいで全部台無し。……ねえ、カナデ。どうにかできないの? このままじゃ、楽団が解散になっちゃう」
アメリの悲痛な叫び。
それは、音楽を愛する者としての心の叫びだった。
奏は静かに彼女の肩に手を置いた。
「アメリ、君は何も悪くないよ。最後までオーケストラをまとめようとしていたの、ちゃんと分かったから」
「カナデ……」
「でも、ごめん。今の僕には、どうすればいいか……すぐには思いつかないんだ」
奏は正直に答えた。
力になれない自分が歯がゆい。ベンを降ろせばいいという単純な話ではない。バックにはゲルマン伯爵がいる。政治的な力が絡んでいる以上、ただの平民である奏が手を出せる領域ではないのだ。
「でも、君たちの音が死んでいなかったことだけは、僕が保証する。……お疲れ様、アメリ。今日はゆっくり休んで」
奏の言葉に、アメリは瞳に涙を溜め、それでも気丈に頷いた。
「……ありがとう。あんたの顔を見たら、少し落ち着いたわ」
アメリは鼻をすすり、楽屋へと戻っていった。
その小さな背中を見送りながら、奏は拳を握りしめた。
ただ労うことしかできない無力さが、胸に重くのしかかっていた。
§
一方、王宮の楽屋裏では、荒れ狂う嵐が吹き荒れていた。
ガシャン!
高価な花瓶が床に叩きつけられ、粉々に砕け散る。
「なぜだ! なぜ帰るんだ! 僕の演奏は完璧だったはずだ!」
ベン・フォン・ホフマンは、鏡に向かって叫んでいた。
顔は紅潮し、目は血走っている。整えられていた金髪は振り乱され、今の彼にステージ上の「貴公子」の面影はなかった。
彼の周りには、怯えた様子の付き人が一人立っているだけだ。叔父のゲルマン伯爵でさえ、演奏の途中でこっそりと姿を消していた。
「あいつら……田舎者の貴族どもめ! 僕の高尚な芸術が理解できないのか! どいつもこいつも耳が腐ってやがる!」
ベンは自身の正当性を叫び続けたが、胸の奥底で燻る「敗北感」を消すことはできなかった。
空席だらけの客席。まばらな拍手。そして、シュタインハイム公爵の冷ややかな一瞥。
それらが、プライドの高いベンの心を容赦なく切り刻んでいた。
そして何より許せないのが――。
ベンは、楽屋に戻る途中で聞いてしまったのだ。廊下ですれ違った貴族たちの噂話を。
『今日のソリストは酷かったな。ただうるさいだけだ』
『ああ。それに引き換え、公爵様の隣にいたあの青年……』
『噂の、川辺の演奏家だろう? 公爵様があれほど目をかけているのだ、余程の腕前に違いない』
『ああ、是非とも聴いてみたいものだ。今日の騒音の口直しに、彼の本物の音楽をな』
ベンはギリ、と歯軋りをした。
貴賓席に座っていた、黒髪の男。
音瀬奏。
誰もあいつの演奏を聴いたわけではない。なのに、ただそこに座っていたというだけで、あいつは「本物」としての期待を集め、自分は「偽物」の烙印を押されたのだ。
「ふざけるな……! あんな、薄汚い平民の笛吹きが……!」
ベンにとって、奏は取るに足らない前任者のはずだった。権力で追い出し、二度と表舞台に出てこられないように踏み潰したはずの蟻。
だが、その蟻が、いつの間にか自分よりも高い場所で輝こうとしている。
自分の演奏が否定されたこの夜に、奴への期待だけが高まっている。
許せない。
絶対に、認めるわけにはいかない。
ベンは鏡の中の自分を睨みつけた。その瞳には、嫉妬と憎悪、そして強烈な対抗心が燃え上がっていた。
「いいだろう、音瀬奏。……そんなに評価されているなら、白黒つけてやる」
ベンは歪んだ笑みを浮かべた。
「貴様ごときの音楽が、この王室専属の僕に勝てるわけがないことを、公衆の面前で証明してやる。……完膚なきまでに叩き潰してやるからな!」
王都の夜空には、不穏な雲がゆっくりと広がり始めていた。




