17話 公爵の誤解
シュタインハイム公爵邸の執務室は、重厚な沈黙に包まれていた。
マホガニーの机に向かい、山積みの書類と格闘しているのは、この屋敷の主であるルドルフだ。
王国の法務を統括する重鎮であり、その厳格な仕事ぶりと氷のような冷静さから、政敵のみならず部下たちからも恐れられている男である。
しかし、今の彼の眉間に刻まれた深い皺は、国政の難問によるものではなかった。
――最近、ミアの様子がおかしい。
ルドルフはペンを置き、重い溜息をついた。
一人娘のミア。亡き妻の面影を色濃く残す、愛しい娘。
彼女はここ数日、妙に機嫌が良いのだ。
以前までの彼女は、屋敷の窮屈さに反発し、癇癪を起こしたり、ふさぎ込んだりすることが多かった。家庭教師たちも手を焼いていたし、ルドルフ自身もどう接していいか悩み、結果として厳しく接することしかできずにいた。
それが、どうだ。
夕食の席ではニコニコと笑い、出された食事を残さず食べる。あれほど嫌がっていたマナーの授業にも、文句ひとつ言わずに出席しているという。
良い変化だ。父親として喜ぶべきことだ。
だが、長年政治の世界に身を置くルドルフの直感が、警鐘を鳴らしていた。
――あまりに、不自然すぎる。
まるで、何かの後ろめたいことを隠すために、必死に「良い子」を演じているような。
「……スヴェン」
ルドルフが低い声で呼ぶと、部屋の隅に控えていた執事長が音もなく歩み寄った。
「はい、旦那様」
「ミアは今、何をしている?」
「本日は、音楽室でピアノの練習をされているはずでございます」
スヴェンは表情一つ変えずに答えた。完璧なポーカーフェイスだ。
「そうか。……少し、顔を見てくるか」
ルドルフが立ち上がろうとすると、スヴェンが僅かに、ほんの僅かにだが、眉を動かしたのをルドルフは見逃さなかった。
「旦那様、今はまだ公務の最中では? 次の来客までお時間がございませんが」
「構わん。娘のピアノを聴くくらいの時間は作れる。……それに、最近のあの子の上達ぶりを確かめたいと思ってな」
ルドルフは執務室を出て、廊下を歩き出した。
スヴェンが背後についてくるが、その足取りにいつもの滑らかさがない気がする。
音楽室の前まで来ると、中からはピアノの音が聞こえてこなかった。
静寂。
ルドルフはノックもせずに扉を開け放った。
――誰もいない。
広い音楽室には、黒いグランドピアノがぽつんと置かれているだけだ。
「……スヴェン。これはどういうことだ」
ルドルフが振り返ると、スヴェンは深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。どうやら、お部屋で休憩されているようですな。確認不足でございました」
「部屋か。なら、部屋へ行く」
「旦那様、しかし――」
スヴェンの制止を無視し、ルドルフはミアの自室へと向かった。
そして、そこも空っぽだった。
ベッドは整えられたままだが、クローゼットの扉が少し開いており、外出用の靴が一足なくなっている。
決定的だった。
ルドルフの中で、疑惑が確信へと変わる。そして、同時にどす黒い怒りが湧き上がってきた。
「スヴェン!」
雷のような怒声が廊下に響いた。
「答えろ! 娘はどこだ! お前が知らぬはずがあるまい!」
スヴェンは観念したように眼鏡を外し、懐からハンカチを取り出して丁寧に拭いた。
「……旦那様。お嬢様は今、お庭にいらっしゃいます」
「庭だと? この屋敷の庭にか?」
「いいえ。……もっと広い、外のお庭でございます」
スヴェンの口から語られたのは、驚くべき事実だった。
ミアが屋敷を抜け出し、城壁の外にある川辺へ通っていること。
そして、そこで一人の男と会っていること。
「男だと……!?」
ルドルフの顔色が朱に染まった。
「どこの馬の骨だ! 貴族か? それとも商家の息子か?」
「いえ、平民の……音楽家を名乗る男でございます」
平民の音楽家。
その言葉を聞いた瞬間、ルドルフの脳裏に最悪の想像が駆け巡った。
世間知らずの公爵令嬢をたぶらかし、金や地位を目当てに近づく卑しい男。甘い言葉と音楽で娘を誘惑し、連れ回しているに違いない。
そして、スヴェンまでもがその片棒を担いでいるとは。
「……馬車を出せ。騎士団にも連絡しろ」
ルドルフの声は、怒りを通り越して氷点下のように冷たくなっていた。
「旦那様、お待ちください。彼は決して怪しい者では――」
「黙れ! 私の娘を……大事なミアを、薄汚い男の毒牙にかかけさせてたまるか!」
ルドルフはマントを翻し、風のように屋敷を飛び出した。
脳裏に浮かぶのは、亡き妻の笑顔と、それを瓜二つに受け継いだ娘の顔。
守らなければ。
どんな手を使ってでも、あの子だけは守り抜く。それが、妻と交わした最後の約束なのだから。
§
その頃、ルミナス川のほとりは、平和そのものの空気に包まれていた。
川面を渡る風が、若草の香りを運んでくる。
「――うん、やっぱり外で弾くのは気持ちいいわ!」
ミアが、持ち運び用の小型鍵盤楽器から指を離し、満面の笑みを浮かべた。
これは以前、古い礼拝堂で見つけたものを、管理人の許可を得て借りてきたものだ。音量は小さいが、繊細で可愛らしい音が出る。
「ミア、上手になったね。指の運びが滑らかだ」
向かい側でフルートを構えていた音瀬奏が、優しく微笑む。
「当然よ! カナデに合わせてあげるために、屋敷でもこっそり練習してるんだから」
ミアは胸を張った。
嘘ではない。以前は苦痛でしかなかったピアノの練習が、今では奏とのセッションを想像するだけで楽しくて仕方がないのだ。
「熱心だな。だが、あまり根を詰めすぎて体を壊すなよ」
少し離れた場所で周囲を警戒していたライラが、苦笑交じりに声をかける。
「大丈夫よ。アンナのお茶とお菓子があれば無敵だもの」
ミアの視線の先では、侍女のアンナがバスケットから焼きたてのスコーンを取り出している。
香ばしいバターの香りが漂い、シマリスのチップやウサギのミミたちが、おこぼれを貰おうとアンナの足元に集まっていた。
「はいはい、皆様の分もございますよ」
アンナは微笑ましそうに動物たちにクッキーのかけらを配っている。
そして、その周りの木陰では、非番の騎士たちが思い思いに休息をとっていた。
鎧の一部を外し、草の上に寝転がって高いびきをかいている者。木にもたれかかり、腕を組んで目を閉じている者。
彼らはここを「特別指定保護区」として警備する名目で、激務の疲れを癒やしに代わる代わる訪れているのだ。
強面の大男たちが、小鳥やリスに囲まれて無防備に寝息を立てている光景は、どこか滑稽で、しかし平和の象徴のようでもあった。
平和だ。
何もかもが穏やかで、幸せに満ちている。
奏はフルートを下ろし、空を見上げた。
先日アメリが来て、宮廷楽団の惨状を嘆いて帰っていった時はどうなることかと思ったが、今はこうして仲間たちと笑い合えている。
ミアがいて、ライラがいて、アンナがいて、騎士たちがいて、動物たちがいる。
宮廷を追放された時は絶望したが、今のこの生活は、何物にも代えがたい宝物だ。
「……ねえ、カナデ」
ミアが紅茶のカップを両手で包みながら、少し照れくさそうに言った。
「私ね、ここに来て本当によかったって思うの」
「うん?」
「お屋敷にいた時は、毎日が灰色だったわ。お父様は厳しいし、先生たちは口うるさいし、誰も私の話なんて聞いてくれなかった」
ミアは視線を落とし、カップの中の揺れる水面を見つめた。
「でも、カナデに会って、音楽ってこんなに楽しいんだって知ったの。……私が私でいられる場所をくれて、ありがとう」
その言葉は、彼女が精一杯の感謝を込めて紡いだ、本心からの言葉だった。
奏は胸が温かくなるのを感じた。
「僕の方こそ、ありがとうだよ。ミアのピアノは元気いっぱいで、一緒に演奏すると力が湧いてくるんだ」
「……もう、調子いいんだから」
ミアは顔を赤らめ、そっぽを向いた。
その様子を見て、ライラとアンナも顔を見合わせて微笑んだ。
しかし。
その穏やかな空気は、遠くから響いてくる地響きのような音によって、唐突に引き裂かれた。
複数の馬が地面を蹴る重い音。そして、車輪が砂利を噛む音。
明らかに、ただの旅人の馬車ではない。軍馬の足音だ。
「……なんだ?」
ライラが瞬時に表情を引き締め、剣の柄に手をかけた。
騎士としての本能が、接近してくる圧力を感じ取ったのだ。
木陰で仮眠をとっていた二人の騎士も、瞬時に反応した。
一瞬前まで安らかな寝顔を見せていた彼らが、弾かれたように目を開け、眠気など微塵も感じさせない動きで立ち上がる。彼らは即座にそれぞれの武器を手に取り、奏とミアを守るようにライラの両脇へ展開した。
奏も立ち上がり、音のする方を睨んだ。
土手の上、夕日を背にして現れたのは、黒塗りの豪奢な馬車だった。
その側面には、金色の鷲の紋章――シュタインハイム公爵家の家紋が輝いている。
馬車の周囲には、完全武装した私兵団が十数名、護衛として付き従っていた。
「あ……」
ミアの顔から、さーっと血の気が引いた。
持っていたカップが手から滑り落ち、ソーサーの上で硬質な音を立てた。
「お、お父様……?」
馬車が止まる。
従僕が扉を開けると、そこから一人の男が降り立った。
漆黒のマントをまとい、白髪交じりの髪を厳格に撫でつけた初老の紳士。
ルドルフである。
その瞳は、激しい怒りに燃え上がっていた。
「……見つけたぞ」
低く、地を這うような声が響いた。
彼はステッキを地面に突き刺すように歩き出し、奏たちの元へ一直線に向かってきた。
その背後には、青ざめた顔のスヴェンと、武装した兵士たちが続く。
「旦那様、お待ちください! いきなり兵を向けるなど……!」
スヴェンが必死に止めようとするが、ルドルフは聞く耳を持たない。
彼の視線は、ミアの隣に立つ奏に釘付けになっていた。
まるで、害虫を見るような目つきで。
「貴様か。私の娘をたぶらかしている、薄汚い男というのは」
ルドルフは奏の目の前で立ち止まり、吐き捨てるように言った。
その威圧感は凄まじい。一国の宰相クラスが放つ覇気は、並の人間なら直立することすら困難なほどだ。
だが、奏は逃げなかった。
一歩も引かず、真っ直ぐにルドルフを見つめ返した。
「はじめまして、公爵様。音瀬奏と申します。……たぶらかしてなどいません。僕たちはただ、音楽を楽しんでいただけです」
「口答えをするな!」
ルドルフの怒号が飛んだ。
近くにいた小鳥たちが驚いて飛び立つ。
「音楽だと? 笑わせるな! 平民風情が、高貴な公爵令嬢に気安く近づき、下世話な遊びに引きずり込みおって! 貴様の目的はなんだ? 金か? それとも公爵家の名声か?」
「お父様、やめて!」
ミアが悲鳴のような声を上げて、奏の前に立ちはだかった。
「カナデはそんな人じゃないわ! 私の方からお願いして、ここに来てたの! カナデは何も悪くない!」
「黙りなさい、ミア!」
ルドルフは娘を一喝した。
「お前は騙されているだけだ。世の中には、甘い顔をして近づき、人を食い物にする輩がいるのだ。……この男のように!」
ルドルフはステッキの先を奏に向けた。
「連れて行け。この男は、公爵令嬢誘拐未遂の罪で衛兵に引き渡す。ミアは屋敷へ連れ戻せ!」
「はっ!」
私兵たちが一斉に動いた。
数人が奏を取り囲み、残りがミアを確保しようと手を伸ばす。
「やめて! 離して!」
ミアが抵抗するが、大人の男たちの力には敵わない。
奏の腕も、荒々しく掴まれた。
「待て!!」
鋭い声と共に、銀色の閃光が走った。
ライラが抜刀し、奏を掴んでいた兵士の槍を弾き飛ばしたのだ。
彼女は奏とミアを背に庇い、公爵と兵士たちの間に立ちはだかった。
同時に、ライラの両脇にいた二人の騎士も動いた。
彼らは無言で武器を構え、公爵の私兵たちの前に立ちはだかる。その体からは、寝起きとは思えないほどの鋭い気迫が放たれていた。彼らにとってこの場所は唯一の安息地であり、それを守る奏は恩人だ。たとえ相手が公爵家の私兵であろうと、ここを荒らす者は許さないという意志が漲っている。
王宮騎士の精鋭たちが放つ殺気に、私兵たちが怯んで足を止めた。
「王宮騎士団・第三部隊長、ライラ・フォン・ベルンシュタインである! この場所は我が部隊の管理下にある。いかなる理由があろうと、私の許可なく民間人を連行することは許さん!」
ライラの毅然とした態度に、場が凍りつく。
王宮騎士団の部隊長といえば、貴族の私兵よりも遥かに格上の存在だ。
しかし、ルドルフは眉一つ動かさなかった。
「ベルンシュタイン家の娘か。……騎士団長ともあろう者が、このような不届き者の肩を持つとはな。地に落ちたものだ」
「不届き者ではありません。彼は私の……我々の恩人です」
ライラは剣を構えたまま言い返した。
後ろに控える二人の騎士も、無言で頷く。
「公爵閣下。どうか剣を収めてください。お話を聞いていただければ、誤解だと分かります」
「誤解? 現に、私の娘がこのような薄汚い場所に連れ出され、平民の男と戯れていたではないか。これ以上の証拠が必要か?」
ルドルフの目は、確信に満ちた怒りで濁っていた。
彼は娘を愛している。愛しているがゆえに、その純潔を脅かすと思い込んでいる異物を、決して許せないのだ。
「スヴェン! 何をしている、ミアを馬車に乗せろ!」
「……っ、承知いたしました」
スヴェンは苦渋の表情で、ミアの腕を引いた。
「お嬢様、諦めてください。……こうなっては、もう」
「嫌よ! 離してスヴェン! 裏切り者!」
ミアが泣き叫びながら抵抗する。
その声が、奏の心に突き刺さった。
このままでは、ミアは連れ戻され、二度とここへは来られなくなる。彼女の心から、音楽の灯が消えてしまう。
それだけは、見過ごせない。
奏は深呼吸をした。
腕を掴もうとする兵士の手を強く振りほどき、一歩前へ出た。
「公爵様」
静かな、しかしよく通る声だった。
ルドルフが侮蔑の眼差しを向ける。
「まだ何か言い訳があるのか?」
「言い訳はありません。ただ、一つだけ」
奏は背負っていたケースから、黒いフルートを取り出した。
手早く組み立て、構える。
「聴いてください。僕たちの音を」
「は?」
「あなたが『下世話』だと断じた音が、本当に娘さんを不幸にするものなのか。……その耳で確かめてから、判断してください」
それは、音楽家としての誇りを懸けた、一世一代の賭けだった。
言葉で説得できないなら、音で語るしかない。
ルドルフは鼻で笑った。
「笑わせるな。貴様のような男の演奏など、聴く価値もない」
「聴いて!」
ミアが叫んだ。
彼女はスヴェンの手を振りほどき、奏の隣に駆け寄った。
「お父様、お願い! 一度だけでいいの。私の……私たちの音を聴いて!」
娘の必死な形相。そして、一歩も引かない奏の眼差し。
その気迫に、ルドルフは苦々しげに息を吐いた。
「……いいだろう。そこまで言うなら、聴いてやる」
彼は懐中時計を取り出し、冷酷に告げた。
「一曲だけだ。それが終わったら、即刻ミアを連れて帰る。貴様は牢屋行きだ。……心して吹くがいい」
猶予は与えられた。
奏はミアを見た。彼女の目には涙が溜まっているが、その奥には強い光が宿っていた。
「いけるかい、ミア」
「……うん。見返してやるわ、頑固親父を」
ミアは涙を拭い、小型の鍵盤楽器の前に座った。
奏はフルートを唇に当てた。
周囲を取り囲む兵士たちの剣呑な空気。公爵の冷たい視線。そして、祈るように見守るライラと二人の騎士たち。
状況は最悪だ。
だが、不思議と心は落ち着いていた。
奏は息を吸い込んだ。




