16話 アメリの訪問
ルミナス川のほとりに、今日も穏やかな風が吹いていた。
柳の枝がふわりと揺れ、水面がきらきらと陽光を跳ね返す。
そんな平和な風景の中で、優雅なティータイムが繰り広げられていた。
「アンナ、おかわり」
「はい、お嬢様。本日はダージリンのセカンドフラッシュをご用意いたしました」
柳の木陰に広げられた敷物の上で、ミアが可愛らしくカップを差し出す。
それを受け取り、手際よくポットから紅茶を注ぐのは、栗色の髪を三つ編みにした女性――アンナだった。
彼女は下級貴族の出身でありながら、ミアが生まれた時から付き従っている専属侍女だ。先日、執事のスヴェンに「自白」させられた彼女だが、今はこうしてミアの「お忍び」に同行し、甲斐甲斐しく世話を焼いている。
「ん〜! やっぱり外で、アンナが入れてくれた紅茶を飲むのが一番ね!」
ミアが感嘆の声を上げると、アンナは嬉しそうに、けれど少し困ったように微笑んだ。
「お褒めにあずかり光栄です。……ですがお嬢様、あまりお洋服を汚さないでくださいね。スヴェン様にまた小言を言われてしまいますから」
「分かってるわよ。……それにしても、今朝のマナー講義は最悪だったわ。『小指の角度が0・5度下がっています』ですって? あの先生、絶対人間じゃないわ」
ミアはクッキーを齧りながら、可愛らしく肩をすくめた。
その様子を、少し離れた場所で楽器の手入れをしていた奏が微笑ましく見守る。
「公爵令嬢も大変だね。でも、アンナさんが来てくれて助かったよ。やっぱりプロが入れる紅茶は美味しい」
「あら、カナデ様のフルートに比べれば、私のお茶など」
アンナが恐縮して頭を下げる。彼女もまた、ここ数日で奏の人柄と演奏にすっかり魅了されていた。
「平和だな」
周囲を警戒していたライラが、のんびりとした空気に毒気を抜かれたように苦笑する。
「ああ。……じゃあ、この平和な空気に合わせて、少し明るい曲でも吹こうかな」
奏がフルートを手に取り、軽く息を吸い込んだ――その時だった。
「――ちょっと! こんな所にいたのね、カナデ!」
凛とした、しかし親しげな女性の声が響いた。
ライラが即座に反応し、奏たちの前に一歩出る。
茂みの向こうから姿を現したのは、一人の女性だった。
燃えるような赤毛を顎のラインで切り揃えたボブカットにし、意志の強そうな瞳をしている。背中には長方形の楽器ケース。
「……誰だ?」
ライラが短く問う。
女性はライラの鎧姿を見て一瞬目を丸くしたが、すぐに視線を奏に戻し、呆れたように腰に手を当てた。
「もう、探したのよ? 王城を辞めてから連絡もつかないし、ずっと心配してたんだから。風の噂で『川辺に住んでる変な演奏家がいる』って聞かなきゃ、見つけられなかったわ」
「あはは……。久しぶりだね、アメリ」
奏がバツが悪そうに頭をかく。
彼女はアメリ。かつて奏が王宮で働いていた頃の同僚であり、宮廷楽団のコンサートミストレス(コンマス)を務めるヴァイオリン奏者だ。
年上の先輩であり、その姉御肌な性格もあってか、いつもこうして弟のような奏の世話を焼いていた。
「知り合いか、カナデ?」
ライラが尋ねる。
「うん。元同僚のアメリさん。……アメリ、彼女はライラ。僕の……ええと、用心棒?」
「王宮騎士団・第三部隊長のライラだ」
「騎士様を用心棒扱い!? ……はぁ。どうしたらそういうことになるのよ」
アメリはこめかみを押さえて溜息をついた。
王宮騎士の部隊長といえば、雲の上の存在だ。それを「用心棒」と紹介する奏の神経と、それを受け入れているライラの様子に、彼女は理解が追いつかないようだった。
「あんた、王宮辞めてから一体何してたのよ……」
呆れつつも、その表情には再会できた安堵が滲んでいた。
ふと、彼女の視線が柳の下に向けられる。
「あら? そっちの子は……って、ええっ!?」
アメリの目が点になった。
優雅に紅茶を飲んでいる金髪の少女。そして、その横に控えるメイド服の侍女。
王宮に出入りするアメリが、その顔を知らないはずがなかった。
「シュ、シュタインハイム公爵家の……ミアお嬢様!?」
「げっ」
ミアはビクリとして、アンナの背中に隠れようとした。
「人違いじゃないかしら? 私はただの通りすがりの美少女よ」
「お嬢様、無理がございます」
アンナが冷静にツッコミを入れる。
アメリは口をパクパクさせ、奏とミアを交互に見た。
「ちょっとカナデ! どういうこと? 騎士隊長の次は公爵令嬢!? なんでこんな野外で、しかもあんたと一緒にお茶してるのよ!」
「まあまあ、落ち着いて。色々と事情があってね。……ここでのことは、内緒にしてくれるかな?」
「事情って……はぁ。あんたの周りって、本当に謎だらけね」
アメリは諦めたように肩を落とした。
アンナがすかさず新しいカップを取り出し、アメリに差し出す。
「お客様も、どうぞ。心を落ち着けるハーブティーでございます」
「あ、ありがとう……」
アメリは恐縮しながらカップを受け取り、一口飲んでようやく人心地ついたようだった。
彼女は改めて奏に向き直った。その表情から、先程までの活気が消え、深刻な色が浮かび上がる。
「それで、アメリ。今日はどうしたの? 仕事中じゃないのか?」
奏の問いに、アメリはカップを持つ手を強く握りしめた。
「……仕事になんて、ならないわよ」
「え?」
「カナデ。あんた、ちょっと力貸してくんない? このままだと、私の精神が持たないわ」
その言葉に、その場にいた全員の空気が変わった。
アメリは悔しそうに唇を噛んだ。
「全部、新しく来たフルート奏者……ベンのせいよ」
「ベン……?」
奏が頷いた。
「ああ、彼か。以前ここで会ったよ。金色の派手なフルートを持っていて……『僕こそが貴様の後任だ』って大声で名乗っていった」
「会ったのね。……そう、あいつがあんたの後任よ」
「後任?」
アメリの言葉に、横で聞いていたライラとミアが反応した。
「おい、待て。後任とはどういうことだ?」
ライラが鋭く尋ねる。彼女たちは、奏のことを「腕はいいが職にあぶれた市井の音楽家」だと思っていたのだ。
アメリは二人に視線を向け、少し説明に困ったように言葉を選んだ。
「お二人はご存知ないかもしれませんが……カナデは元々、『王室専属音楽教師』兼『宮廷楽団首席フルート奏者』だったんです」
「えっ!? カナデが!?」
ミアが目を丸くして奏を見る。
ただの街の音楽家だと思っていた男が、実は王国の音楽家のトップにいたという事実は、彼女たちにとって初耳だった。
「でも、先月急に解任されたの。……表向きは『自己都合による退職』になってるけど、実際は違うわ」
アメリは苦々しげに言った。
「あの強欲なゲルマン伯爵が、自分の甥であるベンを宮廷楽団に入れたがったのよ。それで、邪魔だったカナデを追い出して、そのポストにベンをねじ込んだの」
「な……っ!」
ライラが絶句し、次いで激しい憤りを露わにした。
「なんだそれは! 実力ではなく、貴族のコネで宮廷音楽家の座を奪ったというのか!」
「最低! そんなのズルじゃない!」
ミアも頬を膨らませて怒る。そして二人は、ハッとしたように顔を見合わせた。
「待てよ……ということは」
ライラが奏を見る。その眼差しには、同情と納得の色が混じっていた。
「お前が職もなく、こんな川辺で悠々と練習していたのは……そういう事情だったのか」
「カナデ……追い出されちゃってたのね」
ミアも悲しげに眉を寄せる。
今まで「自由気ままな街の音楽家」だと思っていた奏が、実は理不尽な権力闘争の被害者だったと知り、彼女たちの心に衝撃が走った。これほどの才能を持つ男が、なぜ野に下っているのか。そのパズルのピースがカチリと嵌った瞬間だった。
「あはは、まあそんな大げさなことじゃないよ。僕は今の生活、気に入ってるし」
奏は困ったように笑ったが、アメリは真剣な顔を崩さなかった。
「カナデは良くても、楽団は良くないのよ! あのベンって男、性格が最悪なんだから」
アメリの話によると、ベンは自身の技術に絶対の自信を持っており、周囲の音を聴こうとしないという。
「あいつ、練習中に指揮者のカール先生の指示を聞き流すのよ。『僕のテンポが一番美しい』『君たちが僕に合わせるべきだ』って、平気な顔で言うの」
「指揮者を無視するだと? 楽団員にあるまじき態度だな」
ライラが不快感を露わにする。
「カール先生も人が良いから、強く言えなくて困ってるわ。バックにはゲルマン伯爵がいるし、『甥の才能を自由に伸ばしてやってくれ』なんて圧力をかけられてるみたいだし」
「だから私が、コンマスとして注意したのよ」
アメリは憤慨して言葉を続けた。
「『ベン、ここはアンサンブルよ。オーボエのフレーズを聴いて』って。そうしたら何て言ったと思う? 『君たちの方こそ、僕の完璧な音程を聴いてくれないか? 僕が合わせるんじゃなくて、君たちが僕のレベルまで上がってくるべきだ』ですって!」
アメリは頭を抱えた。
「もう、何を言っても暖簾に腕押し。馬の耳に念仏よ。……あいつの態度にみんなイライラしてるし、リハーサルの雰囲気は最悪。音は合ってるのに、心がバラバラで……こんなの、音楽じゃないわ」
彼女は深く、疲れた溜息をついた。
「あいつの口癖は『君の感情など雑音だ』よ。……技術だけの冷たい演奏を、毎日聴かされる身にもなってほしいわ」
「なにそれ! 信じられない!」
ミアが再び声を上げた。
「音楽は心で奏でるものでしょう? そんなの、ただの機械じゃない!」
「その通りです、お嬢様。……でも、あいつは自分が正しいと信じ込んでるから、言葉じゃ通じないの」
アメリは縋るように奏を見た。
「ねえ、カナデ。あんたがいた頃は、あんなに楽しかったじゃない。フルートの音がみんなを引っ張って、一つの大きな波になるような……あの感覚。……お願い、知恵を貸して。あの石頭に、本当の音楽を教えてやってよ」
重苦しい沈黙が流れた。
ベン・フォン・ホフマン。奏から居場所を奪い、今また楽団の調和を壊そうとしている男。
「許せないわね」
ミアが立ち上がり、アメリの肩に手を置いた。
「私、その男のことよーく知ってるわ。少し前に屋敷に来て合奏したけど、本当に最悪だったもの。カナデを追い出した上に、楽団までダメにするなんて!」
「お嬢様、ご存知でしたか」
「アメリ、私、あなたの味方よ。その自信過剰男、なんとかしてギャフンと言わせてやりたいわ!」
ミアの言葉に、アンナも静かに頷く。
そして、全員の視線が奏に向いた。
奏は、悲しそうに目を伏せていた。
「……音楽が、泣いているね」
「カナデ?」
「ベンという人は、きっと音楽の本当の楽しさを知らないんだろうな。自分一人で完璧な音を出せばいいと思っている。……誰かと音を重ねる喜びを知らないなんて、可哀想な人だ」
奏はゆっくりと立ち上がり、フルートを構えた。
「アメリ。君の心、疲れ切ってるよ。眉間のシワ、取れてない」
「……う、うるさいわね」
「まずは深呼吸。僕の音に合わせて、息を吐いて」
奏が息を吹き込むと、柔らかな旋律が流れ出した。
それは、アメリが王宮時代によく聴いていた、懐かしい音色だった。
技術を見せつけるのではなく、隣に寄り添い、共に歩むような音。
肩の力が抜け、心の奥のわだかまりが溶けていくような、不思議な感覚。
(ああ……これよ。これが、カナデの音)
アメリは目を閉じ、その音に身を委ねた。
あんなにイライラしていた心が、嘘のように静まっていく。
傍らでは、ミアもアンナも、そしてライラも、静かにその音に聴き入っている。
曲が終わると、アメリの顔からは険しい色が消えていた。
彼女はふぅ、と息を吐き、少しだけ笑った。
「……ありがと、カナデ。ちょっと楽になったわ」
「どういたしまして」
奏はニッコリと笑った。
「アメリ。来週の演奏会、公爵様が視察に来るんだろう?」
「ええ。……ベンがソリストを務める協奏曲があるわ。不安しかないけど」
「見に行くよ。僕たちも」
奏の言葉に、ミアが目を輝かせた。
「本当!? 私も行っていい?」
「うん。ミアも自分の耳で、その『後任さん』のフルートを聴いてみるといい。ある意味、勉強になるよ」
「……ふふん、そうね。ミア・フォン・シュタインハイムの名にかけて、厳しくジャッジしてあげるわ。お父様も来るなら、なおさら変な演奏は許さないんだから」
ミアが悪戯っぽく笑う。
ライラもやれやれと首を振りながらも、口元を緩めた。
「護衛として同行しよう。……それに、その不遜な男の顔も改めて見ておきたいしな」
「みんな……」
アメリは鼻をすすり、力強く頷いた。
「分かったわ。あんたたちが来てくれるなら、私、もう一回頑張ってみる。あいつの横暴に負けないで、オーケストラをまとめてみせるわ!」
彼女の背中には、コンマスとしての誇りと、少しの余裕が戻っていた。
アメリが去った後、風が少し強くなった。




