15話 秘密の同盟
ルミナス川のほとりにある古い礼拝堂での出会いから、一週間が過ぎた。
あれ以来、ミアは日課のように川辺へと足を運ぶようになっていた。
ただし、毎日ピアノを弾きに行くわけではない。屋敷を抜け出して教会まで行くのはそれなりにリスクがあるし、何より彼女は、ただここで過ごす時間を気に入っていたのだ。
「――うん、やっぱりいい音」
柳の木の下、特等席の草の上に座ったミアが、うっとりと目を閉じる。
川面を渡る風に乗せて、奏のフルートが優しく響いている。
今日は練習曲ではなく、奏が気の向くままに紡ぐ即興のメロディだ。それは小鳥のさえずりのようでもあり、川のせせらぎのようでもあった。
「そうか? いつも通りだと思うが」
少し離れた場所で、腕を組んで立っていたライラが肩をすくめる。
「ライラは分かってないわね。この『自由』な感じがいいのよ」
ミアは目を開け、呆れたようにライラを見た。
彼女の膝の上には、美しい刺繍の施されたナプキンが広げられ、その上には可愛らしいバスケットが置かれている。
「ほら、カナデ。休憩にしましょう。今日は私が『手作り』したサンドイッチを持ってきたわ」
演奏が一区切りついたところで、ミアが声をかける。
奏はフルートを下ろし、笑顔で近づいてきた。
「ありがとう、ミア。手作りって、すごいね」
「ふふん、感謝しなさいよね」
ミアが得意げにバスケットを開ける。
中には、定規で測ったように均一にカットされたパンに、最高級のローストビーフと新鮮なレタスが芸術的に挟まれたサンドイッチが並んでいた。パンの耳一つない完璧な仕上がりは、明らかにプロの仕事だ。
「……随分とプロ級の腕前だな、お前の『手作り』は」
ライラが横から口を挟むと、ミアはさっと顔を赤らめた。
「うっ……細、細かいことはいいのよ! 私が『これを持っていこう』って選んで、バスケットに詰めたんだから、これはもう手作りと同義なの!」
「なるほど、詰める作業を手作りと呼ぶわけか。勉強になる」
「もう、いちいちうるさいわね!」
頬を膨らませるミアを見て、奏は声を上げて笑った。
「いいじゃないか。気持ちがこもっていれば何でも美味しいよ。いただきまーす」
奏がサンドイッチを頬張ると、ミアは機嫌を直して嬉しそうに微笑んだ。
穏やかな時間だった。
屋敷では味わえない、肩の凝らない空気。
奏が奏でる音色は、ミアにとって「公爵令嬢」という重いドレスを脱ぎ捨てられる、唯一の魔法だったのだ。
「ねえ、カナデ。もう一曲吹いて。今度はもっと、遠くへ旅に出るような曲がいいわ」
紅茶を飲み干したミアがリクエストする。
「了解。じゃあ、草原を馬で駆けるようなイメージでいこうか」
奏が再びフルートを構え、息を吸い込んだ――その時だった。
「――歴史の授業をすっぽかして、遠くへ旅に出るおつもりですかな、ミアお嬢様」
低い、しかしよく通る声が、風の音を切り裂いた。
ビクリ、とミアの肩が跳ねる。
恐る恐る振り返った先には、黒い燕尾服を着こなした初老の男性が立っていた。
白髪を撫でつけ、銀縁の眼鏡の奥から鋭い眼光を放つその姿。
シュタインハイム家の執事、スヴェンである。
「げっ……スヴェン」
ミアの顔から血の気が引いた。
スヴェンは表情一つ変えず、静かに歩み寄ってくる。その足取りは音もなく、まるで影のようだ。
「今日は午後から歴史とマナーの講義があったはずですが、家庭教師の先生がお困りでしたぞ。『お嬢様が部屋にいらっしゃらない』とね」
「そ、それは……ちょっと気分転換に……」
「毎日毎日、随分と長い気分転換ですな」
スヴェンは眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「不思議に思って、アンナを問い詰めました。『お嬢様は最近、午後の授業をサボってどこへ行っているのだ?』と。……可哀想に、彼女は泣きながら白状しましたよ。『お嬢様が楽しそうだから、言えなかった』と」
「……私の可愛い侍女をいじめたの!?」
ミアが柳眉を逆立てて抗議する。
「いじめてなどおりません。職務を全うしただけです。……さあ、事情は分かりました」
スヴェンは視線を落とし、バスケットの中の高級サンドイッチを確認すると、ため息交じりに言った。
「そのサンドイッチも、厨房に確認いたしました。『お嬢様が庭でピクニックをするとおっしゃるので用意した』とのことでしたが……まさか庭がここまで広がっているとは思いませんでしたな」
「う……」
ミアは言葉に詰まり、視線を泳がせた。
スヴェンは眼鏡の位置を直すと、今度は奏とライラの方へ鋭い視線を向けた。
「そして、そちらの方々は? お嬢様を唆して授業をサボらせた悪友……というわけではなさそうですが」
スヴェンの視線が、奏の質素な服と、ライラの帯剣した姿を行き来する。
ただの平民と、騎士。奇妙な組み合わせだ。
ライラは一歩前に出ると、毅然とした態度で名乗った。
「王宮騎士団・第三部隊長、ライラだ。唆してなどいない。我々は彼女の……友人として、安全を見守っていただけだ」
「第三部隊長……? これは失礼いたしました」
スヴェンは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに恭しく一礼した。騎士団の部隊長といえば、それなりの身分と信頼がある。
だが、次の瞬間、彼の視線は冷ややかに奏を射抜いた。
「では、こちらの男性は?」
「僕は音瀬奏。ただの音楽家だよ」
奏がのほほんと答えると、スヴェンは眉間の皺を深くした。
公爵令嬢が、どこの馬の骨とも知れぬ平民の男と、親しげに過ごしている。これは由々しき事態だ。
「……なるほど。状況は把握いたしました」
スヴェンは冷徹な事務的な口調に戻り、ミアに手を差し出した。
「さあ、ミアお嬢様。直ちに屋敷へ戻りますよ。歴史の先生がまだお待ちです」
「嫌よ!」
ミアはその手をバシッと振り払った。
「お嬢様?」
「帰りたくない! 屋敷に帰っても、つまらない授業とお説教ばかりじゃない! 私はここで、カナデのフルートを聴いていたいの!」
ミアはスヴェンを睨みつけた。
スヴェンは困ったように眉を下げた。
「しかし、お嬢様。シュタインハイム家の令嬢として、恥ずかしくない教養を身につけていただかねばなりません。音楽のレッスンもそうです」
「あんなレッスン、大っ嫌い!」
ミアが叫んだ。
「先生たちは、私の弾き方を『雑音』だと言うわ。楽譜通りに、感情を殺して、人形みたいに弾けって! ちっとも楽しくない!」
「それはお嬢様のためを思って……」
「違う! 誰も私の音なんて聴いてないし、私が何を好きかなんてどうでもいいのよ! みんな『シュタインハイム家の娘』という飾り物が欲しいだけじゃない!」
ミアのわがままにも聞こえる悲痛な叫びが、川辺に響いた。
スヴェンは言葉に詰まった。彼女が屋敷の教育方針に不満を持っていることは知っていたが、ここまで爆発させるとは。
重苦しい沈黙が流れる中、フルートの音がふわりと響いた。
奏だ。
彼は会話に割って入るのではなく、ただ静かに、短いフレーズを吹いた。
それは、張り詰めた空気を優しく解きほぐすような、温かい音色だった。
「……何を」
スヴェンが怪訝な顔を向ける。
奏はフルートを下ろし、真っ直ぐにスヴェンを見た。
「スヴェンさん。ミアがここに来て何をしているか、知ってる?」
「……フルートを聴いているのでしょう? 授業をサボって」
「ううん。彼女は『息継ぎ』をしているんだよ」
奏は柳の木を見上げた。
「屋敷での彼女は、深い水の中にいるみたいに息苦しそうだった。でも、ここでは彼女は笑ってる。音楽を聴いて、美味しいものを食べて、ただの女の子として息をしてる」
「……」
「良い演奏をするには、良いブレス(息継ぎ)が必要なんだ。今の彼女から、この場所まで取り上げたら……彼女の心から音楽が消えちゃうよ」
奏の言葉は、静かだが確信に満ちていた。
スヴェンは、ミアの顔を見た。
ふん、と顔を背けてはいるが、その肩は小さく震えている。
無理矢理連れ戻したところで、どうせまた明日には別の手を使って抜け出すだろう。このじゃじゃ馬ぶりは、亡くなった奥様譲りだ。
「……それに、警備の面なら私が保証する」
ライラが助け舟を出した。
「私が責任を持って、彼女の身の安全を守ろう。公爵家の令嬢が市井の空気に触れることも、決して無駄な経験ではないはずだ。……どうだろうか、執事殿」
騎士団の部隊長による護衛の申し出。
スヴェンは深く、長く溜息をついた。ここで意地を張って大騒ぎをし、公爵家の醜聞になるよりは、管理下に置くほうがマシか。
彼はゆっくりと眼鏡を外して拭った。
「……やれやれ。私の負けですな」
彼はミアに向き直り、膝をついて目線を合わせた。
「ミアお嬢様。そのわがまま、今回だけは目をつぶりましょう」
「本当!?」
ミアの顔がパッと明るくなる。
「ええ。ただし、条件がございます」
スヴェンは厳めしい顔を作り、人差し指を立てた。
「一つ、必ず夕方の鐘が鳴る前には屋敷に戻ること。一つ、最低限の授業とレッスンはサボらないこと。……そして最後に、このことは旦那様には絶対に秘密にすること」
「お父様に?」
「左様でございます。厳格な旦那様が知れば、二度と外出は許されないでしょう。そして、そこの演奏家の方もただでは済みません。……これは、私とお嬢様、そしてこちらのお二方だけの『共犯』です」
それは、執事としての職務規定ギリギリの、彼なりの大人の妥協だった。
ミアは満面の笑みでスヴェンに飛びついた。
「ありがとう、スヴェン! 大好き!」
「お、お嬢様……! 人目がございます、そのような振る舞いはお控えください」
スヴェンは慌てた様子を見せつつも、やんわりとミアを諭して体を引き剥がした。
そして、咳払いを一つすると、乱れた燕尾服の襟を何事もなかったかのように手早く整えた。
その様子を見て、奏とライラも顔を見合わせて笑った。
「よかったね、ミア」
「ああ。これでお嬢様も、我々の正式な『メンバー』というわけだ」
ライラの言葉に、奏は「そうだね」と頷いた。
「じゃあ、改めてよろしくね、ミア。……それに、スヴェンさんも」
「お見知り置きを。……ただし、釘を刺しておきますが、私はあくまでお目付け役」
スヴェンは眼鏡の奥の瞳を光らせ、慇懃無礼なほどに丁寧な口調で言った。
「お嬢様の情操教育に悪影響な『下世話な音楽』を吹き込まれたと判断した時点で、即座に契約は破棄いたしますので。……その点、ゆめゆめお忘れなきよう」
彼は完璧な角度で一礼をした。
それは、彼なりの牽制であり、同時に公爵家の執事としての矜持でもあった。
こうして、ルミナス川のほとりに、奇妙な『秘密同盟』が結成された。




