14話 セッションの誘い
翌朝のルミナス川は、いつにも増して穏やかな静寂に包まれていた。
水面は朝日に照らされて煌めき、川岸の緑は朝露を含んで瑞々しい。
そんな平和な風景の中で、音瀬奏は日課の楽器の手入れをしていた。愛用のフルートを柔らかい布で磨き上げながら、昨日の出来事を反芻する。
「ミア・フォン・シュタインハイム、か」
嵐のように現れて、嵐のように去っていった不思議な少女。
ずいぶんと立派な名前だったけれど、この世界に来て日の浅い奏には、その名の重みはいまいちピンときていない。
ただ、彼女が着ていた服が上質だったことや、血相を変えた執事が迎えに来ていたことから、「どこかの良家のお嬢様なんだろうな」くらいに考えていた。
「また来るって言ってたけど……本当に来るのかな」
「誰が来るのだ?」
背後から声をかけられ、奏は振り返った。
そこには、朝の見回りを終えたばかりの王宮騎士団・第三部隊長、ライラが立っていた。銀色の鎧が朝日に反射して眩しいが、その表情は非番の時のように穏やかだ。
「おはよう、ライラ。いや、昨日ちょっと面白い子が来てさ。一緒に演奏したんだ」
「ほう、お前がそこまで言うとは珍しいな。近所の子供か?」
「うーん、それがちょっと違うみたいなんだ。なんて言ったかな……そうそう、『ミア・フォン・シュタインハイム』って名乗ってたよ」
奏が何気なくその名を口にした瞬間、ライラの動きが凍りついた。
「……は? 今、なんと?」
「え? だから、ミア・フォン・シュタインハイム」
「シュタインハイム……」
ライラは呆気にとられた顔をし、それから小さく吹き出した。
「ふっ、あはは! それはまた大きく出たな。その子はよほど物語が好きなのか、それともお前をからかったのか」
「え? やっぱり、ありえない話?」
「常識で考えてみろ。この国でも一、二を争う名門公爵家の令嬢が、護衛もつけずにこんな泥臭い川辺に来るわけがないだろう」
ライラは可笑しそうに首を振った。
「貴族の名を騙る家出娘か、あるいはただの空想好きのお姫様ごっこだろう。……まあ、子供のつく嘘だ。あまり真に受けるなよ」
「そっか……。そうだよね」
奏は妙に納得して頷いた。
きっと、裕福な商家の娘か何かが、憧れの貴族の名前を借りて冒険ごっこをしていたのだろう。
「うん、ライラの言う通りかもね」
「……まあ、もしまた現れるようなら私が確認してやる。迷子なら家に帰してやらんとな」
ライラがそう結論づけた、その時だった。
茂みの奥から、草を分ける足音が聞こえてきた。
二人が視線を向けると、そこには昨日の少女――ミアが立っていた。
ただし、今日の彼女は昨日とは少々様子が違っていた。
頭には農家の女性が被るような大きなつばの麦わら帽子を目深に被り、口元は地味な色のスカーフで覆って顔を隠している。手にはなぜか、空のバスケットが提げられていた。
「……おや?」
ライラは剣に手をかけることもなく、むしろ膝を折って目線の高さを合わせた。相手が小さな女の子だと見て、声音を優しくする。
「おはよう、お嬢ちゃん。こんなところで何をしているんだ? お母さんとはぐれてしまったのか?」
ライラの態度は、完全に「迷子を心配する親切な騎士」のそれだった。
「子供扱いしないでちょうだい!」
少女は間髪入れずにスカーフを引き下げ、ライラを睨みつけた。
「私は迷子じゃないわ! 私よ、私!」
麦わら帽子の下から金色の髪がふわりと覗き、不機嫌そうな紫色の瞳が露わになる。
その剣幕に、ライラは少し驚いて目を瞬かせた。
「あー……ライラ。彼女が昨日話した子だよ。……ね、ミアちゃん」
奏が苦笑しながら紹介すると、ミアは満足げに頷き、スカーフを首元に戻した。
「おはよう、カナデ。……ふふん、どう? 完璧な変装でしょう? これなら誰にも気づかれないわ」
「おはよう。変装、よく似合ってるよ」
奏は笑顔で応じたが、ライラは複雑な表情で彼女を観察していた。
麦わら帽子で庶民を装っているつもりなのだろうが、スカーフの下から現れた顔立ちの気品と、堂々たる態度は隠しようがない。
それに、ワンピースの裾から覗く靴は泥一つついていない高級革靴だ。
(……ただの町娘ではないな。どこかの商家の娘か、あるいは……)
ライラの中に、少しの疑問が芽生える。だが、先ほど奏に「公爵令嬢なわけがない」と断言した手前、そして現実的に考えても、やはり「お金持ちの家出娘」という線が妥当に思えた。
「お世辞はいいわよ。……それより、そちらの騎士様は?」
ミアはライラをじろりと見た。
「ここは特別指定保護区でしょ? 私はカナデの『音楽仲間』として来たのだけれど、邪魔しないでいただける?」
「お、音楽仲間だと……?」
小さな体で精一杯の虚勢を張る姿に、ライラは毒気を抜かれたように目を丸くした。
生意気だが、どこか憎めない。
ライラは苦笑して立ち上がった。
「悪かったな、お嬢さん。私はここを警備している第三部隊長のライラだ。怪しい者ではない」
「ふん、ならいいけど」
ミアは興味なさげにライラから視線を外すと、バスケットを地面に置き、真剣な眼差しを奏に向けた。
「カナデ、今日はピアノよ」
「ピアノ?」
「そう。昨日の歌も楽しかったけど、やっぱり私はピアノで合わせたいの。私の指で、あなたの音と会話がしたい」
ミアは自分の白い指を見つめ、ギュッと握りしめた。
昨日のセッションで感じた高揚感。それを、自分が一番得意な楽器で再現したい。その渇望が、彼女を再び屋敷から抜け出させたのだ。
「でも、ここにはピアノがないよ」
奏が周囲を見回す。あるのは柳の木と草花、そして川だけだ。
「分かってるわ。だから……場所を変えましょう」
ミアはニヤリと笑った。
「私がいつも使っている、とっておきの場所があるの。街外れにある古い教会なんだけど、そこならピアノも置いてあるわ」
「へえ、教会か。いいね、響きが良さそうだ。行こうか」
奏は二つ返事で頷き、楽器ケースを手に取った。
その迷いのない行動力に、ライラは呆れつつも小さく溜息をついた。
「……はぁ。仕方ない」
ライラは歩き出した二人の背中に声をかけた。
「私も同行する。子供二人だけで街を歩かせるわけにはいかんからな」
「あら、お目付け役がついてくるの? まあいいわ、荷物持ちくらいにはなるでしょうし」
「……私の扱いが雑すぎないか?」
ミアの憎まれ口にライラが苦笑する。
こうして、フルート吹きと女騎士、そして変装したお嬢様という奇妙な一行は、街へと繰り出すことになった。
§
ミアが案内したのは、王都の下町に近いエリアにある、古びた礼拝堂だった。
かつては孤児院として使われていた建物らしく、今は管理人が一人いるだけで、礼拝に訪れる人もほとんどいないという。
ここはミアが屋敷を抜け出した際、頻繁に訪れている「秘密基地」の一つだった。
ミアは重い木製の扉の前で立ち止まると、こぶしで扉を軽く叩いた。
しばらくして、重たい音を立てて扉が開き、腰の曲がった老人が顔を出した。
「おや……これはこれは」
老人はミアの姿を認めると、目尻を下げて微笑んだ。
「こんにちは、管理人さん。突然お邪魔してごめんなさい」
ミアは帽子を取り、スカートの裾を少し摘んで、優雅に一礼した。
その所作は完璧で、先ほどまでの生意気な子供の姿とは別人のようだった。
「今日はお友達を連れてきたの。少しだけ、ピアノをお借りしてもよろしいかしら?」
「ええ、ええ、もちろんですとも。ピアノもきっと喜びますよ。さあ、どうぞ中へ」
「ありがとう」
ミアはニッコリと微笑むと、奏たちを振り返り「行きましょう」と促した。
その一連のやり取りを見ていたライラは、驚きを隠せずにいた。
(……今の挨拶。使用人に対する労りと、自然な品格。やはり、この子は……)
ただの裕福な家の娘というだけでは説明がつかない洗練されたマナー。
ライラの疑念は深まったが、今は何も言わずに彼女の後を追うことにした。
中に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
ステンドグラスから差し込む光が、舞い上がる塵を美しく照らしている。
礼拝堂の奥、祭壇の脇に、そのピアノはあった。
黒塗りのアップライトピアノだ。塗装は所々剥げ、譜面台には傷がついているが、大切に使われてきた気配がある。
「用意周到だね」
奏は微笑みながら、フルートのケースを開けた。楽器を組み立て、軽く息を吹き込む。
礼拝堂の高い天井に、澄んだ音が吸い込まれていく。
「響きは悪くない。……で、何を弾く?」
奏が尋ねると、ミアは少し考え込んでから言った。
「この国の人なら誰でも知っている曲にするわ。『風の丘』……あなた、知ってる?」
それは、田舎の風景を歌った素朴な民謡だった。
以前、酒場で吟遊詩人が歌っているのを奏も聴いたことがあった。
「うん、知ってるよ。いい曲だよね」
「じゃあ、いくわよ」
ミアの表情が変わる。
幼い少女の顔から、一人の演奏家の顔へ。
彼女が深呼吸し、鍵盤に指を落とした。
静かな和音が一つ、鳴り響く。
その瞬間、奏は少し驚いた。
古いピアノとは思えないほど、深みのある、優しい音だったからだ。
いや、違う。ミアのタッチが優しいのだ。
昨日のアカペラで感じた「素直さ」が、指先を通して音に変換されている。
奏は目を閉じ、彼女のイントロに耳を傾けた。
丁寧で、慎重だけれど、その奥には「早く遊びたい」というワクワクした心が透けて見える。
広い屋敷で窮屈な思いをしていた彼女が、やっと見つけた遊び場。
(オーケー。思いっきり遊ぼうか!)
奏は心の中で笑いかけると、フルートを唇に当てた。
鋭く息を吸う。
そのブレスの音が合図となり、空気が変わった。
奏のフルートが、ミアのピアノに飛び込んだ。
それは彼女の音をかき消すものではなく、彼女が奏でるメロディの周りを駆け回るような、軽やかで楽しげな旋律だった。
ミアの目が輝いた。
ピアノの音が、弾む。
ベンとの演奏の時は、常に「邪魔をされる」不快感があった。自分の音が押し潰され、命令されているような息苦しさがあった。
でも、今は違う。
奏の音は、ミアを誘っている。
「こっちへおいで」「次はどうする?」と、音符の一つ一つが笑いかけてくるようだ。
(何これ、すごい!)
ミアの指が踊る。
教本通りの堅苦しい演奏ではない。リズムに身を任せ、感情のままに鍵盤を叩く。
奏がトリルで煽れば、ミアもグリッサンドで応える。
まるで子供たちが丘の上を駆けっこしているような、純粋で無邪気な「会話」。
礼拝堂の空気そのものが振動し、光の粒子が踊っているかのような錯覚を覚える。
壁際で腕を組んで見ていたライラもまた、思わず口元を緩めていた。
難しいことは分からないが、見ているだけで楽しくなってくる。
身分も年齢も違う二人が、音というおもちゃを使って、本気で遊んでいるのだ。
曲がクライマックスに入り、テンポが上がる。
ミアが満面の笑みで鍵盤を叩き、フォルテの和音を響かせる。
それに応えるように、奏のフルートが高らかに歌い上げ、最後は二人で呼吸を合わせて――フィニッシュ。
音が止まった瞬間、礼拝堂には心地よい余韻が広がった。
静寂を破ったのは、控えめな拍手の音だった。
振り返ると、管理人の老人が目を細め、皺だらけの手をゆっくりと叩いている。
「素晴らしい演奏でしたぞ、お嬢様」
その横で、ライラも組んでいた腕をほどき、感心したように短く手を叩いた。
「悪くない。……いや、見事なものだな」
二人の大人たちからの、静かだが心のこもった賞賛。
それに背中を押されたように、ミアは椅子から飛び上がると、奏に向かって振り返った。
その顔は紅潮し、瞳は興奮で輝いている。
「すごい! すっごく楽しい!」
彼女は奏に駆け寄り、その手を取って大きく振った。
「ねえ、会話できたわよね!? 私のピアノとカナデのフルート、いま、すっごくお喋りしてたわよね!」
「あはは、うん。最高のお喋りだったよ」
奏も楽しそうに笑った。
「ミアのピアノは元気いっぱいで、一緒に走ってるみたいだった。……いいピアニストだね」
「えへへ……!」
ミアは褒められて、とびきりの笑顔を見せた。
最高の遊び相手を見つけた喜びと、音楽が生み出した爽快感が滲み出ている。
ライラはその光景を見つめながら、満足そうに頷いた。
この子が誰であろうと、今は関係ない。
ただの少女が、心から笑っている。それだけで十分だ。
古い礼拝堂に、三人の穏やかな笑い声がいつまでも響いていた。




