13話 公爵令嬢の散歩
シュタインハイム公爵邸の朝は早い。
無数の使用人たちが無言で廊下を行き交い、磨き上げられた床には塵一つ落ちていない。
すべてが完璧で、規律正しく、そして――息が詰まるほど退屈だった。
「……はあ」
ミア・フォン・シュタインハイムは、天蓋付きの広々としたベッドの上で、深く重たい溜息をついた。
最高級の絹のシーツは滑らかな肌触りだが、今の彼女にはその心地よさすら億劫だった。
窓の外は快晴。昨日の雨が幻だったかのように晴れ渡っている。
小鳥のさえずりが聞こえるが、それさえもどこか余所行きの、上品ぶった音に聞こえてしまう。
ミアはベッドから滑り降りると、着替えもそこそこに部屋を出て、長い廊下を歩いた。
向かった先は、屋敷の東棟にある音楽室だ。
重厚な扉を開けると、朝日が差し込む広い空間の中央に、グランドピアノが鎮座していた。
昨日、あの不快なフルート奏者――ベン・フォン・ホフマンとかいう男――と合奏をした楽器だ。
貴族の娘として、教養の一環でピアノを習っているミアにとって、誰かと一緒に演奏するのは数少ない楽しみの一つになるはずだった。
それなのに。
「あのおじ様、私のことなんて一度も見ようとしなかった」
ミアは唇を尖らせて、立ったままピアノの鍵盤を人差し指で叩いた。
乾いた音が一つ、広い部屋に寂しく響く。
昨日の彼は、ミアが一生懸命弾いているのを無視して、一人で勝手に吹き鳴らしていた。まるでミアのピアノなど、あってもなくても同じだと言わんばかりに。
合奏とは、もっとこう、お互いに言葉を交わすように楽しいものではないのか。
「つまらないわ。どこかにいないのかしら。私に合わせて、楽しく遊んでくれる人は」
ミアは音楽室の窓に駆け寄り、外の世界を見下ろした。
高い塀の向こうには、どこまでも続く青い空と、活気に満ちた街が広がっている。
父は公務で忙殺されているし、家庭教師の先生は作法に厳しいだけ。昨日の金色のフルート男は論外。
「……お散歩、行ってしまおうかしら」
ミアの紫色の瞳に、悪戯な光が宿る。
思い立ったら即行動。それが彼女の美徳であり、周囲の大人たちを常にハラハラさせる最大の要因でもあった。
彼女は自室に戻るとクローゼットを開け放ち、中から一番「地味」に見える服を選び出した。
濃紺のワンピースに、茶色のフード付きケープ。
これならきっと、街の人たちに紛れ込んでも正体は露見しないはずだ。
……もっとも、そのワンピースが最高級のシルク製で、ボタンが本物の真珠であることに、箱入り娘の彼女は気づいていなかったが。
「お父様は会議中だし、執事のスヴェンは庭の反対側にいるし……よし」
ミアは鏡の前でくるりと回ると、満足げに微笑んだ。
「これより、ミア・フォン・シュタインハイムの極秘お散歩任務を開始します!」
彼女は窓を開け、庭木を伝って慎重に地面へと降り立った。
目指すあてはないけれど、とりあえず風が吹いてくる方へ行ってみよう。
§
王都の大通りは、朝から活気に満ちていた。
市場には焼きたてのパンや色とりどりの果物が並び、商人たちの張り上げた声が幾重にも重なって響き渡っている。
いつもは豪奢な馬車の窓越しにしか見たことのない景色の中を、ミアは一人で歩いていた。
「うわぁ……人がいっぱい」
彼女はフードを目深に被り、誰かと肩がぶつからないように慎重に歩みを進めた。
石畳の凸凹とした硬い感触が、靴の底を通してダイレクトに伝わってくる。
香ばしい匂いや、得体の知れない香辛料の匂いが混ざり合って鼻孔をくすぐる。
屋敷の中とは何もかもが違う。少しの恐怖心はあるものの、それ以上に心臓が高鳴り、まるで物語の冒険者になったような気分だった。
しばらく街を彷徨い、人混みの熱気に少し疲れてきた頃。
ミアは城門を抜け、ルミナス川のほとりへと辿り着いた。
「ふぅ……ここは静かでいい感じ」
整備された遊歩道には人影もまばらだ。
川面を渡る風が、高揚して火照った頬を優しく撫でていく。
ミアが大きく深呼吸をしようとした、その時だった。
風に乗って、どこからか柔らかい旋律が流れてきた。
フルートの音だ。
けれど、昨日ベンが吹いていたような、鼓膜を突き刺す鋭い音とはまるで違う。
優しく、温かく、まるで母親の子守唄のように、空気そのものに溶け込んでいる響き。
「……きれいな音」
ミアはその音色に吸い寄せられるように、川沿いの茂みの方へと歩き出した。
音楽の理論や技術なんて難しいことは分からない。
ただ、その音を聴いていると、胸の奥がじんわりと温かくなる気がしたのだ。
青々とした茂みをそっとかき分けると、そこには絵本の一ページのような光景が広がっていた。
大きな柳の木の下、木漏れ日が降り注ぐ場所に一人の青年が座っている。
黒髪に黒い瞳。どこにでもいそうな、優しげな顔立ちの若者だ。
彼が銀色の横笛を唇に当て、目を閉じて心地よさそうに旋律を紡いでいる。
そして、その周囲には――。
彼の肩にはシマリスがちょこんと座り、膝の上では茶トラの猫が丸くなって寝息を立てている。
足元には白いウサギが身を投げ出し、川面には水鳥たちが流れに身を任せて漂っていた。
まるで、彼を中心に世界が調和し、穏やかな午睡を楽しんでいるかのようだった。
「(な、なんなの、あれ……?)」
ミアは目を丸くした。
警戒心の強い動物たちが、人間に対してあんなに無防備に甘えている姿など見たことがない。
しかも、その場所には立て看板があり、『特別指定保護区』という文字が見える。
フルートの音が、静寂の中に溶けるように消えていった。
最後の余韻が風にさらわれるまで、誰も身動き一つしなかった。
「……ふぅ」
青年――音瀬奏が目を開け、相好を崩した。
「今日はいい天気だね、みんな」
彼が話しかけると、肩のシマリスが嬉しそうに声を上げ、膝の猫が大きく欠伸をした。
「……すごーい」
思わず、感嘆の声が漏れてしまった。
ミアはハッとして口元を手で覆ったが、もう遅かった。
突然の侵入者の気配に、動物たちが一斉に反応した。
猫のトラが全身の毛を逆立て、ウサギのミミが後ろ足で地面を強く踏み鳴らす。水鳥のスイは翼を大きく広げて威嚇の姿勢を取った。
「わっ、待って待って! 大丈夫だよ!」
奏が慌てて動物たちをなだめる。
不思議なことに、彼が優しく声をかけると、動物たちの殺気立った空気は瞬く間に霧散した。
奏は驚いた顔で、茂みから出てきた小さな少女を見つめた。
「えっと……君は?」
ミアは観念して、フードを背中へと払った。
太陽の光を浴びて、金色の巻き毛が眩く輝く。
彼女は胸を張り、精一杯、大人っぽく振る舞って名乗った。
「通りすがりの、音楽愛好家よ!」
「……はあ」
奏は瞬きをした。
どう見ても「ただの愛好家」には見えない。
上等な仕立ての服、丁寧に手入れされた髪、そして何より、全身から滲み出る育ちの良さ。
どこかのお嬢様が、冒険ごっこでもしているのだろうか。奏はそう推測した。
「愛好家のお嬢さんが、こんなところで何をしてるの? ここはあまり子供だけで来ていい場所じゃないよ」
「子供扱いしないでよ! ……お散歩してたの。そうしたら、すっごく綺麗な音が聞こえたから」
ミアは少し照れくさそうに言った。
「お兄さんのフルート、素敵だった。動物たちが集まるのも分かる気がする」
「ありがとう。最高の褒め言葉だよ」
奏は嬉しそうに微笑んだ。
その飾らない笑顔に、ミアの心臓が少しだけ速く脈打つ。
屋敷に来る大人たちは、ミアのことを「公爵家の娘」という肩書きでしか見ない。機嫌を取ったり、あるいは礼儀作法を説いたり。
でも、この人はミアをただの一人の女の子として見てくれている気がした。
「私ね、昨日とっても嫌な演奏を聴いたの」
ミアは誰かに聞いてほしくて、つい愚痴をこぼしていた。
「金色のフルートを持った男の人だったんだけど、すごくうるさくて、自分勝手なの。私がピアノを弾いても全然合わせてくれなくて、無視されたみたいな気分だった」
「金色のフルート……?」
奏は少し驚いたように眉を上げた。
金製のフルートといえば、プロでも憧れる最高級品だ。あるいは裕福な貴族の持ち物だろうか。
「金色のフルートか。それはまた、随分といい楽器を使っているね。金ならではの華やかな音色は、僕も憧れるよ」
奏は純粋に楽器への敬意を表した。プロとして、良い道具を使っていること自体は評価すべきことだ。
「でも、演奏が自分勝手だったの?」
「そうなの! 私が弾いてるのに、それをかき消すみたいに大きな音で吹くんだもん」
「それは……もったいないな。せっかくの名器も、心が伴わなければ台無しだ。合奏は会話と同じだから、一方的に喋り続けられたら嫌になってしまうのは当然だよ」
「そうなの! 会話!」
ミアは大きく頷いた。
そう、まさにそれが言いたかったのだ。
「私、ピアノ習ってるんだけど、誰かと一緒に弾くのが大好きなの。でも、昨日はちっとも楽しくなかったんだもん」
ミアは不満げに口を尖らせ、上目遣いに奏を見た。
「ねえ、お兄さん。フルート吹けるんでしょ?」
「うん、一応ね」
「じゃあ、私と合わせてみてよ」
「え? 今? でも、ここにはピアノがないよ」
「ピアノがなくても平気よ。私がメロディを歌うから、それに合わせて伴奏して!」
唐突な提案。
だが、奏は困惑するどころか、楽しそうに瞳を輝かせた。
「いいね、面白そう。……で、どんな曲にする?」
「練習曲のワルツよ。これくらいなら、お兄さんも知ってるでしょ?」
ミアは得意げに言ったが、奏は正直に首を横に振った。
「ごめん、僕はずっと遠いところに住んでいたから……こっちの曲はあまり詳しくないんだ」
「ええ? 有名な曲なのに?」
ミアは不満そうに頬を膨らませたが、すぐに気を取り直した。
「……まあ、いいわ。単純な曲だもの。私が歌うから、お兄さんはそれに合わせて即興でついてきて。できる?」
それは無茶な要求だった。
初めて聴く曲、しかも子供の気まぐれなアカペラに伴奏をつけるなど、普通の奏者なら断るだろう。
だが、奏はフルートを構え、穏やかに微笑んだ。
「分かった。君の声をよく聴いて、追いかけるよ。さあ、歌ってみて」
ミアは咳払いを一つすると、地面の草の上にちょこんと座った。
そして、小さな声で歌い始めた。
三拍子の、軽やかなワルツの旋律。
ミアの歌声は、可愛らしく、そして真っ直ぐな響きを持っていた。
奏は目を閉じ、耳を澄ませた。
(初めて聴くメロディだ。でも……)
音の運び、息継ぎの間隔、そして彼女が次の音をどう歌いたいかという微かな意志。
それらが手にとるように分かる。
まるで、見えない糸で彼女の歌声と繋がっているような感覚。
奏は軽く息を吸い、銀色の音色をそっと重ねた。
それは彼女の歌声をなぞるのではなく、半歩後ろから支え、時に和音のように響き合う絶妙なオブリガートだった。
その瞬間、ミアの目が見開かれた。
(え……? 知らない曲って、言ったのに……?)
すごかった。
知らないはずなのに、奏はまるで最初から譜面を知っていたかのように、完璧に寄り添ってくる。
ミアが息継ぎをするタイミングで優しく間を取り、サビで声を大きくしたい時は、それを予期していたかのように一緒に音量を上げて盛り上げてくれる。
先読みされている? いいえ、違う。
彼は私の声を「聴いて」くれているんだわ。全身で、心を込めて。
まるで、見えない手で背中を支えられ、空へと持ち上げられているようだった。
いつもなら「ここ、息が続かないな」と思う箇所も、彼がリードしてくれるおかげで、何の苦もなく歌えてしまう。
(楽しい……っ!)
ミアの胸の奥から、昨日感じられなかった高揚感が込み上げてきた。
これだ。私がやりたかったのは、これなんだ。
音が重なって、溶け合って、一つになる感覚。心が繋がる喜び。
ほんの短い一曲が終わった時、ミアは満面の笑みを浮かべていた。
「……っ!」
彼女は弾かれたように立ち上がり、両手を叩いた。
「すごい! お兄さん、魔法使いなの!? 初めてなのに完璧だった!」
「あはは、魔法じゃないよ。君の歌が素直だから、次の音がどこへ行きたいか分かっただけさ」
奏も楽しそうに笑った。
「君、リズム感がいいね。とっても素直な歌声で、伴奏してて楽しかったよ」
「素直……?」
いつも「公爵令嬢らしくお行儀よくしなさい」と矯正され続けてきた自分を、「素直」だと褒めてくれた。
それが、ミアには何より嬉しかった。
「名前! お兄さん、名前はなんて言うの?」
ミアは目を輝かせて詰め寄った。
「僕はカナデ。音瀬奏だよ」
「カナデ……。私はミアよ!」
彼女は胸を張り、とびきりの笑顔を見せた。
「ミア・フォン・シュタインハイム!」
「へえ、シュタインハイム? なんだか立派な名前だね」
奏は感心したように頷いた。
現代日本から来た彼にとって、その名がこの国でどれほどの重みを持つかなど知る由もない。ただ、響きがかっこいいな、と思っただけだ。
「……ふふん、そうでしょうとも!」
ミアは奏の反応に拍子抜けしつつも、悪い気はしなかった。
この人は、本当に肩書きなんて気にしないのだ。
「ねえ、カナデ。私、明日もここに来ていい?」
ミアが次の約束を取り付けようとした、その時だった。
「――お嬢様ァァ! どちらですか、ミアお嬢様ァァ!!」
遠くから、聞き覚えのある焦燥しきった声が聞こえてきた。
執事のスヴェンだ。それに、複数の使用人たちの足音も混じっている。
どうやら、家出がバレて捜索隊が出されたらしい。
「げっ、スヴェンだわ」
ミアは舌を出して、いたずらっぽく笑った。
捕まって連れ戻されるなんて、まっぴらごめんだ。今日のお散歩はここまでにして、自ら華麗に撤退するのが上策というもの。
「カナデ、私もう行かなくちゃ!」
「え? 誰か呼んでるみたいだけど……」
「ただのうるさい人よ! 今日は楽しかったわ、ありがとう!」
ミアはフードを被り直し、くるりと背を向けた。
「また明日、絶対に遊びに来るから! 待ってなさいよー!」
言い捨てると、ミアは脱兎のごとく駆け出した。
その足取りは軽く、迷いがない。
スヴェンたちの声がする方向とは逆へ、茂みを器用にすり抜けていく。
「あ、ちょっと……行っちゃった」
奏は手を伸ばしかけて、苦笑いを浮かべた。
嵐のように現れて、嵐のように去っていった不思議な少女。
でも、その嵐は決して不快なものではなかった。
遠くで「お嬢様ァァ……」と嘆くスヴェンの声が空しく響く中、奏はフルートをケースにしまいながら、明日の訪問者のことを考えて少しだけ楽しみになっている自分に気づいた。




