開聞(ひらきき)の御池(みいけ)
まぁ、という、嬉しそうな声がした。
「何という素晴らしいカルデラ湖。大噴火で大陥没を作って、涙で神の御池を御創りになるとは、流石ですねぇ」
でも、そろそろ泣き止まれては?と、優しい声が言った。
「そんなに、此処を出たいのですか?」
湖の上に浮かぶ相手に対して、早佐は、湖の縁に座って泣きながら、言った。
「そういう訳では有りません。…此の儘で宜しいです」
山津縁坂は、すっかり様相が変わってしまった。
如何やら、早佐が、涙で、大きな湖を作ってしまったらしいのだが、何時から泣いているのか、自分でも分からないのだ。
重蔵が、呆然として、湖の縁に立っている。
早佐の隣に立っている様なのだが、距離感が掴めない。
「池田湖には…湖底火山が眠っていたのか」
薩摩富士が見える、と、言う重蔵の声が聞こえたが、早佐には、何の事か分からなかった。
如何して泣いていらっしゃるの、と、柔らかの声の主が、湖の上から尋ねてきた。
「照れて求婚してこないような御方に、そんなに会いたいですか?」
「え?」
―求婚。
「そうだわ。…私、求婚されたのだったわ」
「まぁ、そうですか?何と?」
「…確定申告をしたり、書類を書いたりしてくれ、と…」
其れは業務委託では?と、困った様に相手が言うので、早佐は思わず、泣きながらも、吹き出した。
「そうかもしれませんけれど。私は、頼ってもらえたようで、嬉しかったのです」
左様で御座いますか、という、おっとりとした声がした。
「御好きでいらっしゃるのね。御会いになりたいでしょう」
「いいえ…。一緒に居ても、あの人に、良い事が無い気がするのです。…あの人の邪魔になるくらいなら、ずっと此処で、こうしていても良いかもしれません」
「…ずっと、此処で泣いていらっしゃる御心算ですの?」
「涙は仕方が有りません。勝手に出るのです」
「ちゃんと求婚してもらえたら、涙が止まるのかしら?」
―ちゃんと?
「…いえ。相手に、何かをしていただきたかった訳では無いのです。…ただ好きだったのに、巻き込んでしまった。酷い方法で…」
「増えたかったのだから、仕方が有りません。命の短い存在程、増える事に貪欲なのは、世の常です」
依り代として、私は評価しますよ、と、相手は、訳の分からない事を言った。
「増えたかった?私が?」
「ええ。少なくとも、生きる事に対して、貴女は正直でした。とても生き物らしかった。私は其れを、重蔵さんよりは評価しております」
重蔵が、複雑そうな顔をして、穏やかな声の主の方を見た。
其の様子が少し可笑しかったので、早佐は、笑いを堪えたが、依然、涙は止まらなかった。
「そうですねぇ、此の儘でも、池尾大明神は御喜びになるかも分かりませんし、其処の重蔵さんも、三十年くらいは話し相手になってくれるでしょうから、寂しくは無いでしょう。重蔵さんも別に、意地悪な方ではないですよ。他人の子を取るだけあって、子供好きなのです。貴女みたいな十六歳の少女と話が弾むか否かは分かりませんが、遊んでくれない事もないでしょう。貴女が楽しいかは別として」
重蔵が、どうせ明るい性格ではない、と呟いたので、早佐は、笑いを更に堪える羽目になった。
―確かに明るくはないけれど。止めて。こんな場所で笑わせないで。
「…あの人の邪魔にならず、嫌な兄の鳴き声を聞かないで済むなら、此処で、こうしているのも、良いのでしょうね」
ああ、澱の子ですね、と、美しい笑みで、相手は言った。
澱?と早佐は尋ねた。
ええ、と優しい声が言った。
「穢れの塊です。真っ黒でしょう?…そう、貴女にも問題が有りますね」
「問題?」
「相手の幸せに、貴女が関係無いと思っている。いえ、自分が居ない方が、相手が幸せになれる、というくらいに思っている。だから、相手に会いたくて、地形を変えて、湖を作る程泣いているのに、此の儘でも構わない、と、本気で言えるのです。…其れでは、伝わりません。貴女の気持ちが」
「伝わらなくても構いません。…健康で、生きていてくださるだけで構わなかったのに。寿命を分けさせるなんて、大それたことをさせてしまった…。…あの人が好きだから、此の儘で良いのです。此れ以上、犠牲を強いたくはないのです」
「…相手がしたかった贈り物を、犠牲、と言い切ってしまう。相手は相手で、照れて求婚してこない。…九州最大の湖が誕生する程の擦れ違いなんて、驚いてしまいますねぇ。肉体があると不便です事…」
柔らかの声の主は、不思議そうに、続けた。
「此の儘で良いと仰るなら、其れも良いのでしょう。其のうち、何億年も、何十億年も愛し合えますからね…」
―何の事かしら…。
羨ましい、と重蔵が呟いた。
「…随分悩んだが…如何しても、女児に生まれる事だけは、承服出来ない…。儂には、そんな相手は居らぬようだし、縞にも其の気が無いなら、他の者と一緒になるから。男児にならせてはもらえまいか。以前の様に、縞の兄として。今度は、血の繋がった、本当の兄として生まれたい。家族に愛され、儂も家族を愛し、仲良く、賑やかに暮らしたい。だが…美しい女児に生まれて、写真を沢山撮られては…。其れを儂は、自分だと、自認出来そうにない。自分を女児だと、多分、思えない。男児にしてはもらえまいか…」
「まぁ…。随分御悩みでしたのに、そんな事を仰るようになったのですね」
「儂は、どのくらい悩んでおったのか…時間の感覚も無いが」
「大正三年からですから…八十二年くらいでしょうか?」
「結構前だな?!」
「明治四十二年よりは比較的最近だと思いますが…」
「何の話だ?そりゃ、修が生まれたくらいではないか。…待てよ、修も、生きて居れば八十七?…儂は、そんな長い間…。つい先刻、御褒美の選択を迫られた気がしたのだが?」
あら、と、おっとりとした声が言った。
「八十二年を短く感じられたのなら、良かったではありませんか。抑、時間という概念も、人間が作ったものですが。此処は、青い場所と同じく、全ての時間が同時に存在するのです。時間の流れもバラバラですからね。池田湖が誕生したのだって、五千七百年くらい前ですし。開聞岳の誕生は、更に其の後です」
重蔵は、ポカーンとして、はぁ、と言った。
突然、湖の水面に、大きな水紋が一つ立った。
まぁ、と、優しい声が言った。
湖の上に、髪を高く結い上げた、白い衣の、美しい女性が登場した。
「寝ておったところを孫に起こされた!全く、毎度毎度、石を投げてきおって。雑なんじゃ、あやつは」
「…奏様?ではないですね?よく似ておいでですが」
そりゃ孫だ、と、眉を顰めながら、女性は言った。
「上がる準備に寝ておると、度々、石を投げて起こしてきよる。可愛いから話を聞いてしまうが。雑にも程が有る。力が有るから手順を踏まん」
「まぁ、聞様」
「依。御前の子は未だ寝ておるぞ」
「寝かし付けてくださって助かりますわ。片割れが来るまで待っていると言うのですもの」
聞と呼ばれた人は、湖を見て、派手だなぁ、と言った。
「我は、山津縁坂の崖の縁にて、聞き切る神なり。開聞と呼んでも構わぬぞ」
泣いている理由を聞き切ってやるから申せ、と、美しい項が覗く首元を傾けながら、聞は、早佐に向かって、そう言った。




