天慶陰陽物語 第三
陰陽師賀茂保憲、下総国豊田郡の社へ参る語 第三
一
菅原道真は、大宰府まで訪ねてきた二男の景行に対し、自分亡き後、遺骨を背負って諸国を遍歴し、遺骨が自ずから重くなったところを墓所とするよう頼んだという。景行は言われたことを実行し、延長四年、常陸介として常陸国に赴任した際、真壁郡は真壁郷羽鳥村で遺骨が重くなったので、そこに墓所を築いた。その折、景行に協力したのが、当時の常陸大掾源護と羽鳥村に服織営所を持つ平良兼だったという。しかし三年後の延長七年、景行は弟達とともに遺骨を下総国豊田郡大生郷に埋葬し直し、御廟天神社を建てたらしい。景勝地たる飯沼の島に移したのだと聞くが、そこは将門の本拠地たる鎌輪営所に極近い。延長八年までは将門の父、良将も存命であり、その辺りの繋がりも勘繰れてしまう。そんなことも語りながら、保憲は三十六禽を急がせた。未の時になったので、現れた時刻の魔物は羊、雁、鷹の三体だが、羊には姿を消させ、保憲と晴明は鷹に乗り、茂樹は雁に乗せて、空を飛んでいる。すぐ後ろに乗っている晴明は、保憲を守るように周囲を警戒している気配だ。
(頼もしくて危うくて可愛いおまえの魅力を、どう表現したらいいんだろうな……)
正直、晴明の口吸いの相手が他にもいたら、自分は心穏やかではいられないだろう。できることなら、傍にいたい。傍にいてほしい。
(でも、まだこの地におまえを留める訳にはいかない)
葛葉――紫苑の真意や、国栖の意図を知らなければ、晴明を危険に晒すことになりかねない――。
「おまえ、平将門と会ったことはあるのか」
不意に背後から晴明が問うてきた。間近から耳元へ響いた声は緊張を帯びている。
「残念ながら、まだだ」
保憲は小さく首を横に振った。会えるものなら会おうと機会を探ってきたが、常陸介藤原維幾が将門とは距離を置いている様子で、保憲を含む常陸国司の官人達を関わらせようとしないのだ。昨年十一月五日に良兼らに対する追捕官符が下された後も、維幾は将門からの共闘の誘いを躱し続けている。
「話に聞く限りじゃ、情に厚く戦術に優れた武夫らしいけれどね」
収集してきた評判を告げた保憲に、隣を飛ぶ雁の背で茂樹が肩を竦めた。
「その情の厚さと戦術の高さを、平真樹と源護の領地争いに大いに利用されたとしか見えませんね」
「将門自身も叔父達と領地争いをしてる」
保憲は注釈を加える。
「良将から将門へ相続されるべき領地や利権を、良正達が横取りしようとしたらしい」
「都人だろうが武夫だろうが、親族で相争うのは同じなんですね」
呆れ顔をした茂樹に、晴明が低い声で言った。
「結局、何を、誰を、命に換えても守りたいかというだけの話だ」
「おまえに掛かれば、物事は何でも単純になっていいな」
茂樹は冷ややかに返す。
「少なくとも、おれは自分の命が一番大事だけどな」
この二人は仲が悪いのだろうか。保憲は咳払いをして自分の見解を述べた。
「都人は命を奪うところまではしない。穢れを嫌うからね。けれど武夫にとっては、命の奪い合いも暮らしの中にある。そこが大きく違うところだろうな」
とりあえず二人とも黙った。保憲は鷹の首を軽く叩き、雁にも目で合図を送る。冬景色の眼下に飯沼が迫ってきていた。
◇
飯沼は下総国の豊田郡と猿島郡の郡境にあり、衣川に注ぎ込む大きく細長い沼だ。蛇が多いことで知られ、大蛇が棲むとの言い伝えもあり、蛇沼とも呼ばれている。御廟天神社は、その東、豊田郡側の畔近く、岸とは僅かな浅瀬で隔てられた小さな島にある。大部分が木々に覆われた島で、北北東に尾を向けた勾玉の形をしているが、南の丸い頭の部分の上は平らにならされて、真ん中に本社と幣殿が建てられている。島全体が神域らしく、鳥居が設けられているのは浅瀬の波打ち際だ。
(平将門の二つの本拠地の丁度真ん中とも言えるこの地に何故、と伺えるかな……?)
保憲は菅原道真の気配を探りつつ、二体の魔物を舞い降りさせていった。
島に人影は見当たらない。けれど荒れた様子はなく、本社と幣殿周りの落ち葉も掃き清められている形跡がある。まだ気配の感じられない中、茂樹は口も利かず、神経を尖らせている。晴明も同様だが、茂樹よりもっと広範囲を警戒しているようだ。平将門の勢力地だという意識もしているのだろう。
「とにかく御挨拶申し上げようか」
保憲は失礼にならないよう、鳥居近くの浅瀬に鷹を着地させて、羽毛に沿って背を滑り下り、雁もすぐ傍にばしゃりと着地させた。
「魔物は残しておいてくれ」
晴明が鷹から下りながら囁いてきた。保憲はいつも、必要ない魔物に姿を消させるが、残しておけということだ。魔物は戦力になるが、反面、襲撃を受けて消されると保憲の力を大きく奪い去ってしまう諸刃の剣。そこまで知っている上での晴明の助言である。
「分かった」
保憲は頷いて魔物二体を待機させ、島に上がって鳥居を潜ると、木々の間を通り抜け、ならされた部分に入った。晴明、茂樹も続いてくる。
「……いらっしゃる」
保憲は小さく呟いた。重々しくも穏やかな気配が本社のほうから感じられる。ちらと振り向けば茂樹が強張った顔をしている。晴明のほうは、もう何度も菅原朝臣と会っているせいか、厳しい顔つきながらも落ち着いているので安心だ。
「お久し振りでございます」
保憲は幣殿前で御廟の主へ拝礼した。
「一年振りか」
木々の間を吹き渡る風に紛れて声は聞こえたが、姿は見えない。昼間から現れるほどのことでもないという意向らしい。晴明が「一年振り」という言葉に鋭く反応したが無視して、保憲は菅原朝臣に応じた。
「御存知でいらっしゃいましたか。昨年は常陸国に陰陽師として赴任致しましたので、御挨拶に伺ったのですが、お声も聞けず、味気なく思っておりました」
「そうそう話しかけていては、有り難みがなかろうて」
怨霊は好々爺のように軽口を叩いた。
「では、こたびは何故お声をお聞かせ下さいましたか」
保憲が尋ねると、低い笑いが島中に響いた。
「狙い通りであろうに敢えて問うか。ならば答えよう。今上、そして忠平にわが意を知らせるためよ。そこな天文生らを通じてな」
「都で直にお伝えになれるでしょうに、何故わざわざこちらで?」
「わしが現れては、それだけで怪異となる。今上は弱過ぎるゆえ、摂政として仕える忠平の苦労が増そう。今はそれを避けたいのだ」
やはり、菅原道真は藤原忠平に対して寛大だ。
「では、どのような意であるか、お教え頂きたく。平将門と、何か関わりがあるのでしょうか」
恭しく問うた保憲に、島中の木々が葉をざわめかせた。
「分からぬか? この地におれば、日々感じておろう!」
怨霊の声は先ほどまでと打って変わって低く重く響き渡る。
「以前にも言うたはず! 東国の動きに気をつけ、西国にも気を配れと! 朝廷の威を以て国々を正しく治めさせよ! わが意はそれに尽きる!」
轟と風が吹き荒んで一瞬後、怨霊の気配は消えた。
「……叱られてしまったな」
ふうと息をついた保憲に、晴明が怒った顔で迫ってきた。
「一年前、独りでここへ来たのか」
「御挨拶は大切だろう。礼を失するほうが恐ろしいと、おれは思うが」
当然の理を保憲が説いても、晴明は納得しない。両目を吊り上げたまま、両手で保憲の領元を掴み、腹の底から絞り出すような声で訴えてきた。
「頼むから、そういう無謀はするな。頼むから」
(別に、おれにとっては無謀でも何でもないんだけれど)
反論を口には出さず、優しい言葉を探そうとした保憲は、魔物達から伝わってきた気配に、背後を振り向いた。ほぼ同時に、晴明が保憲の領元から両手を離し、逆に背に庇うように、そこへ立っている。その肩越しに、保憲は鳥居がある側を凝視した。人が一人、木々の間を登ってくる足音が、研ぎ澄ました耳に聞こえる。魔物二体は、神域に入る新たな存在に対して、毛を逆立てる気配をさせた。二体の魔物と目を合わせながら、つまり彼らが見えながら、怖じることなく傍を通って鳥居を潜ってきた者。
「玉を呼んでも?」
茂樹が小声で問うてきたが、保憲は首を横に振った。ここは菅原朝臣の神域。物怪や魔物に侵させる無礼は許されない。そして、そこまで恐れるべき相手でもなさそうだ。
「この足音、恐らく武夫だ」
保憲は晴明と茂樹に囁いた。田夫などとは異なる、しっかりと土を踏み締める半靴の足音。半靴は騎乗用に靴を簡略化した沓だ。微かに、毛抜形太刀が鞘の中で鳴る音、複数の矢が胡簶の中で鳴る音も耳に拾える。物怪でも怨霊でも鬼でもない、たった一人の直人なら、自分や晴明の敵ではないーー。
「おや、先客か」
明るい声とともに、武夫は木の間から現れた。狩衣を纏っており、若々しさと落ち着きを兼ね備えた物腰から、三十代半ばほどに見える。眉は濃く、目つきは鋭いが、笑顔には愛嬌があり、所作には気品も感じられる。ふと、どこかで見た顔のような気がしたが、知り合いの都人にこんな風貌の男はいない。それよりも、この武夫の姿が示唆することは。
(まさか……)
狩衣は、晴明や茂樹が着ている布衣と同じ作りだが、麻や葛から作られた布ではなく、蚕の繭から作られた絹で仕立てられ、紋が織り込まれ、裏地もある点が異なる。即ち、この武夫は財力があるのだ。
(延喜三年、菅原朝臣が没したその同じ年に生まれたと聞くが)
そうだとすれば、今年三十六歳。
「わたしは常陸国司の陰陽師賀茂保憲」
保憲は名乗り、確かめる。
「あなたはもしや、相馬小二郎殿でいらっしゃいますか」
武夫は複雑そうに笑った。
「都人であれば、瀧口小二郎と呼ばれるかと思ったが」
清涼殿の庭を警衛するため、その東北の御溝水の落ち口ーー瀧口近くの渡殿に詰める武者は、やはり瀧口と呼ばれ、詰め所は瀧口陣と呼び習わされている。瀧口は蔵人所に属し、定員は十人。帝の御船に供奉したり、御使の御用をしたり、お庭に木を植えたりといった仕事もする。その瀧口として仕えつつ、衛門佐や衛門大尉、衛門少尉に任じられることを望んだが叶わなかったと噂されている、平将門。
「まあ、おれとしては相馬と呼ばれるほうが好みだから、あんたはよく分かっているよ」
将門は気さくに言い、歩を進めてきた。下総国の相馬郡は将門の母親の郷。彼はそこで育ったため、仮名として用いられるのだ。
保憲は警戒を解かない晴明の肩に手を置いて、前に出た。
「こちらへは、よくいらっしゃるのですか?」
問えば、将門は保憲達の傍を通り過ぎて幣殿へ向かいつつ頷いた。
「ああ。菅原景行朝臣や菅原兼茂朝臣とは懇意にさせて頂いていたからな」
「菅原兼茂朝臣とは、今だに交流を?」
保憲が重ねた問いに、すぐには答えず、将門は幣殿と、その奥の本社に向かって拝礼した。そよ風が吹き、島に生えた松や杉、椿や梛、柊、樟、楪などが穏やかに葉を鳴らす。拝礼を終えた将門は、保憲達を振り向いて告げた。
「菅原兼茂朝臣からは、この御廟天神社や三郎天神社をお守りするよう、頼まれているな」
「三郎天神社とは?」
初耳の社について保憲は尋ねた。
「知りたいなら、ついて来な」
将門は気軽に誘ってくる。
「まあ、ここほど立派にはできておらんから、拍子抜けするかもしれんがな」
後は勝手にしろとばかり、将門はさっさと木々の間を下っていく。保憲は晴明、茂樹と視線を交わし、その後について行った。
鳥居を出た将門は、二体の魔物を笑顔で見遣りながら浅瀬を渡り、岸辺の松に繋いでいた馬に跨る。その轡を取ったのち、自らも繋いでいた馬を解いて跨った水干姿の従者が一人と、騎乗したまま待っていた狩衣姿の武夫が一人。二人とも、鳥居を出る保憲達を鋭い眼差しで見てきた。
「気にするな、四郎、経明」
将門は鷹揚に二人を宥める。
「常陸国司の陰陽師殿と従者達だ」
「陰陽師殿! 成るほど、それで」
四郎と呼ばれた武夫が、若い声で感嘆しながら二体の魔物を見遣った。彼にも見えているのだ。
「常陸国司の陰陽師が何ゆえ、ここに?」
経明と呼ばれた従者は依然、険しい顔を向けてくる。四郎が将門の弟の平将平、仮名を大葦原四郎、経明が栗栖院常羽御厩別当多治経明と見て間違いないだろう。
「菅原朝臣に御挨拶に参りました。賀茂保憲と申します。以後お見知りおきを」
微笑んで名乗ると、将平がまた感心した様子で声を上げた。
「やはり、かの賀茂氏の! 賀茂忠行朝臣のお噂はかねがね! 先帝に射覆をせよと命じられて、八角形の箱の内に朱の紐で括られている水晶の数珠があることを見事当てて御覧に入れられたとか」
「忠行はわが父です」
保憲は誇らしく告げた。その話は、忠行自身から聞いたことがある。父は陰陽寮の権威を高めるために行なったと語っていた。
「やはり、そうでしたか!」
嬉しげな将平の隣で、多治経明が冷ややかに言った。
「確かに、常陸介様が国司の陰陽師に賀茂氏を得たと吹聴されていましたね」
(吹聴されてたのか)
げんなりとしつつ、保憲は浅瀬を歩いて魔物の鷹に乗った。多治経明には、空中に浮いたように見えるのだろう。御厩別当は、細い両眼を瞠って保憲を凝視した。その視線を見返しながら、晴明が保憲の後ろに乗ってくる。茂樹も隣の雁に乗った。
「相馬小二郎殿の御厚意に甘えて、三郎天神社まで同道させて頂きます」
保憲が伝えると、将平も経明も、将門を振り向いた。
「別にいいだろう?」
将門は肩を竦める。
「菅原朝臣道真公とは、知らぬ仲でもなさそうだからな」
「御霊とお知り合いとは、さすが陰陽師殿!」
爽やかに応じたのは将平。対して経明は眉をひそめた。
「常陸国司の官人に、この下総国を歩き回らせるのですか?」
「構わんだろう。次は下総国司の陰陽師になるかもしれんものなあ?」
将門に笑いかけられて、保憲は苦笑いを返すに留めた。
二
「三郎天神社は、わたしが通っていた菅原景行様の学問所跡に建てられているのです」
下馬した将平の説明を聞きながら、保憲は鷹から下りた。御廟天神社から三郎天神社までは十町ほど。魔物の鷹と雁にとっては、舞い上がって舞い降りるだけの近さだった。将門達の馬にとっても、僅かに駆けただけで着く道のりだ。そして、将門が断っていた通り、三郎天神社は、御廟天神社に比べると、ひどく質素な社だった。田と林が連なる中に鳥居があり、社殿があるのみだ。
「祭っておられるのは、やはり菅原朝臣ですか?」
保憲が尋ねると、将平は自分の馬を手近な檜に繋ぎながら首を横に振った。
「いえ、景行様です」
「あれ、おれはここも菅原朝臣を祭る社だと父上から聞いたが」
口を挟んできたのは同じく下馬した将門だ。馬の手綱を、既に下馬している経明に渡しつつ、片眉を上げて弟を見た。
「え? でも、ここには確かに景行様がおられます……」
将平が驚きながらも主張した。御霊となった景行を見たことがあるのだろう。
「菅原景行朝臣は、しかし、二男でいらっしゃいましたね。三男は菅原兼茂朝臣と記憶しております」
保憲は事実のみ指摘しておく。
「菅原朝臣は三男でいらっしゃいましたので、三郎天神社という社名に合いますが」
「でも、ここでわたしがお祭りしてきたのは、景行様なのですが……」
将平が悲しげに呟いた。
「なら、祭神は菅原景行朝臣でいいだろう」
軽い口調で将門が言う。
「菅原朝臣道真公は闊達でおられようから、社が一つくらい御子息のものになろうとも、お怒りにはならんだろうさ」
「むしろ歓迎なさるでしょう。一族思いの方ですから」
保憲は口を添えて、将平に微笑みかけた。
「そうですよね!」
将平は歯を見せ、素直に喜ぶ。三十歳くらいのはずだが、随分と純朴に見える。
「わたしはてっきり、景行様が菅原朝臣の三郎君なのだとばかり思い込んでおりました」
頭を掻いた将平の向こうで、二頭の馬を同じ樫に繋ぎ終えた経明が、顔をしかめて将門に問うた。
「社名はこのままでよいのですか?」
「父上がお決めになられた社名だからなあ」
将門はのんびりと答える。
「このままでいいのではないか? 景行様にお尋ねしてみてくれ、四郎」
「はい。お会いできた時にお伺いします」
将平は深く頷いた。将門は笑顔で保憲達を振り向いてくる。
「まあ、そういう訳で、こちらの祭神は菅原景行朝臣となったんだが、それでも詣でるか?」
「はい、是非とも」
保憲は、魔物から下りた天文生二人を引き連れて、将門達に続いた。
菅原道真には、複数の妻がいて、二十人以上の子があったと聞く。それゆえ、何番目の子なのか、あやふやになり易かったのだろう。京官として官暦を終えた長男の高視や五男の淳茂は有名だが、地方官から京官に復すことのなかった子息達は、徐々に歴史に埋もれつつある。常陸介であった景行然り、武蔵介であった旧風然りだ。存命の兼茂も、京官に復すことがなければ、同じ定めだろう。
「わたしは、景行様から、紀伝、詩文、明経、明法、算道の他に、弓馬も習ったのです」
将平は、鳥居を潜って社殿へ歩く道すがら、しみじみと語る。学者として知られる菅原朝臣は乗馬も好み、武芸にも秀でていたと聞くので、息子達もそうだったのだろう。
「そう言えば、四郎殿は、何故、御廟天神社には参られなかったのですか?」
保憲は気になっていたことを問うてみた。将門の伴類たる多治経明が、馬達の見張りをするため参拝を遠慮するのは分からなくもないが、弟たる将平まで鳥居の外で待っていたことが不可解だったのだ。
「正直に申し上げれば」
将平は神妙な顔になる。
「わたしは、あのお方が恐ろしいのです」
「御霊に会われたことがあるのですね?」
「はい、景行様に連れられて初めて天神塚の社に参った際に。ただただ恐ろしく、震えておりました。以来、どうにも御廟天神社にはお参りできずにおります」
「そう恐ろしいお方ではないがなあ」
前を行く将門が首を捻った。
(同じように見鬼の力を持ってる兄弟でも、この二人は全然違うな)
保憲は興味深く二人を見比べる。自分にも姉、妹、弟達がいるが、性格はそれぞれ異なる。兄弟姉妹とは、そういうものなのだろうーー。
「菅原朝臣は偉大なお方です」
多治経明が不意に会話に入ってきた。従者らしく振る舞ってはいるものの、将門の伴類なので、そこまで遜ってはいないようだ。
「おまえは筋金入りの菅原朝臣贔屓だな」
将門が、ちらと振り向いて苦笑した。
「本当に」
将平が同意する。
「今日も員経が腹を下したと聞くや否や、兄上の日参のお供を買って出ていましたものね」
員経とは、将門の内竪ーー小姓として聞こえる伊和員経のことだろうか。
「その癖、御廟の神域には入らんのだものなあ」
将門に揶揄されて、経明は色白の顔を赤らめた。
「それは、今日は、奇っ怪なる魔物どもが鳥居の外にいると小二郎様も四郎殿も仰るので、警戒のために」
「おまえは見えんのに怖がりだなあ」
笑った将門に、経明は頬を膨らませて言った。
「見えないからこそ、畏れ敬うのです。そして、そのお力に縋りたく思うのです」
「それも正解だろうさ。さて、神前だ」
将門が空気を変える声音で告げた。
社殿は小さく、その辺りにある祠と大差ない。その前で、将門は恭しく拝礼した。将平も経明もそれに倣う。保憲は、それとなく周りを見回したが菅原景行らしき姿は見えなかった。ただ、気配は微かにある。景行は、静かに自分達を見守っている。
(少なくとも敵意は感じられない)
保憲は将門達に続いて拝礼した。茂樹も拝礼したが、晴明は拝礼するつもりがないらしい。ただ周囲を警戒している。晴明にとっては人も霊も大して違わないのだろう。
ゆったりとした足取りで鳥居へ戻っていく将門に、保憲は尋ねた。
「先ほど、四郎殿が『日参』と仰っていましたが、御廟天神社と、この三郎天神社に毎日詣でておられるのですか?」
「もう一社、一言主神社にも日々詣でているぞ」
将門の返事に、保憲は足を止めそうになった。どこかで見た顔だと思ったのだ。そう、自分は、この武夫の前生を知っている。かの女神の心の奥底で見た。
「兄上は毎日、一言主神社、御廟天神社、三郎天神社の順で、お参りされているのですよ」
将平が明るく説明する。
「一言主様は、兄上のことを大層お気に入りのようで」
それはそうだろう。一言主は、ずっとずっと待っているのだから。
「兄上が石井営所を築く前に、あの地を見て回っておられた時、湧き水でもないものかと呟かれたら、御老人が現れて、一言、水と仰ったのです。途端に水が湧いて出て。一言主大神様でした」
一言主は平将門が役小角だと気づいている。気づいて助けている。
(役小角様、何故、再び人として、この世に……?)
保憲は、前を行く将門の背を複雑な思いで見つめた。山伏だった役小角と武夫たる平将門。纏う雰囲気は似ているようで異なる。何より、神となるはずの役小角が、聖でもない人に転生しているとは予想外だーー。
鳥居を出たところで、将門が将平を振り返った。
「景行様は、お姿を見せては下さらなかったな。おれが、ここを菅原朝臣のお社だと思っていたから不快に思っておられるか? おれはここで景行様にお会いしたことがないからなあ」
「そんなことはないと思います」
将平は首を小さく横に振り、真摯に答える。
「ただ、兄上が、ここを菅原朝臣をお祭りするお社だと思っておられたので、少し遠慮なさっているのかもしれません」
「そうか。またお会いできたら嬉しいのだが」
将門は鳥居の外から再度、社殿に向き直って拝礼すると、己の馬に歩み寄っていった。経明が急いで走って将門の馬を樫から解き、その轡を取る。騎乗した将門は、保憲達を見下ろして言った。
「では、おれは営所に戻る。縁があればまた会おう」
「はい。いずれ、また」
保憲は確信を持って答えた。
三
「寄りたいところが二つある」
保憲が告げると、晴明が硬い面持ちで応じた。
「一つは一言主神社だな?」
「ああ」
頷いて、保憲は魔物の鷹に乗る。晴明も後ろに乗ってきながら問うてきた。
「もう一つはどこだ」
「足尾山だ」
答えた保憲に、隣の雁に乗った茂樹が怪訝そうな顔を向けてきた。
「足尾山とは、先帝が改称させた、筑波山の東南の山ですよね?」
「そう。元は葦穂山と呼ばれてた山だ」
先帝ーー醍醐天皇は夢で見た葦穂山の神社に祈願して足の病が治ったため、[日本最初足尾神社]の勅額を下賜したという。以後、葦穂山は足尾山に名を改めたのだ。
「何で、その山に行く?」
晴明も眉をひそめて訊いてきた。
「ちょっと確かめたいことがあってね」
保憲は返事を濁して鷹の首を軽く叩く。
「まあ、まずは一言主様だ」
二体の魔物は、一言主神社のある西南の方向へ飛び立った。
◇
大同四年十一月十三日、今の一言主神社の社殿がある辺りに、忽然と筍が生え、三岐の竹になったという。雪が降りしきる冬にあまりに不思議なことだったので、祓を行ない、占ったところ、託宣があった。曰く。
ーー「われはこれ大和国葛城山の東、高宮の丘におる一言主大神なり。今ここに来たれり。われが住むところをば人々な御嶽と唱え崇む。われが本縁を示し、一度の参拝を空しうせず。一言の祈願をもただに過ぐすべからず。普く利益を垂れて東国万民の禍を救わむと思えり。この三岐の竹を以て永く契りとせよ」
人々は驚き畏み、三岐の竹が生えたところを神域として社を建てたという。
(大同四年は、今から百二十九年前。一言主様が役小角様の咒の真事を知る百二十四年前か)
五年前に役小角への誤解を解いた一言主。一体何を考えて、そんなにも昔に、この下総国豊田郡へ自分の社を造らせたのだろう。人に転生し、武夫となっている役小角ーー平将門のことをどう捉えているのだろう。
(お会いしてお伺いしなければ)
保憲は東国で広く信仰を集めている一言主神社の前へ、二体の魔物を舞い降りさせた。
鳥居が建つ場所も、その奥の社殿へ続く参道も、湿気を帯びて苔生している。さすが一言主の社だ。かの女神の正体は実体のない山気。しかも谷に住まう神だ。湿地帯である飯沼周辺には馴染み易いのだろう。
「茂樹、悪いが鳥居の前で見張っててくれ。相馬殿という最強の同行者がいないから、怪しまれる可能性がある」
保憲は鷹から滑り下りながら、雁から下りようとする青年に声を掛け、鳥居を潜った。晴明もぴたりとついて来る。一言主にも五年前に随分な目に遭わされたので、最大限警戒しているらしい。
(一言主様が、おれ達を害そうとする可能性はあるだろうか)
一言主はあくまで役小角の味方であろうとするだろう。保憲達が平将門に敵対すれば、一言主をも敵に回すことになるかもしれない。
(そうなれば、勝ち目はないな)
ーー「われは悪事も一言、善事も一言、言い離つ神、葛城の一言主大神」
そう名乗る一言主の力は、悪事も善事も一言の言霊で解決するという凄まじいものだ。平将平が語ったように、水の一言で湧き水をもたらし、役小角を恨んだ時は、都の人に憑いて悪評を流すことで島流しにさせたという、強力な言霊の力を持つ神なのだ。
(とにかく、まずは話をしよう)
五年前、役小角の咒を解き明かした保憲に対しては、今はまだ友好的に振る舞ってくれるはずだ。
社殿の前に至り、保憲は拝礼して拍手した。静けさの満ちた神域に、拍手が響き渡る。その余韻が消えない内に、気配が辺りに満ちた。
「おぬしとは、やはり浅からぬ縁のようだ」
「畏れ多いことです」
保憲は応じて山気を探る。敵意は感じられない。保憲は端的に切り出した。
「一言主様、平将門の前生は役小角様ですね?」
「漸く気づいたか」
女神の声は深い憂いを孕んでいた。この転生を喜んではいないのだ。保憲は尋ねてみた。
「何故、役小角様が再び人に転生し、しかも武夫になっておられるのか、わたしには分からないのですが、一言主様は御存知ですか?」
「はきとは分からぬ」
山気が重くたゆたう。
「ただ、将門の弟、将平は、韓国広足の生まれ変わりだ。そのことと関わりがあるように思えてならぬ」
「韓国広足……! 役小角様の弟子で典薬頭だったという、あの韓国広足様ですか」
保憲は考え込んだ。事態は予想以上に複雑らしい。韓国広足は役小角の弟子というだけでなく、讒言して役小角を伊豆島へ左遷させたと続日本紀に記されている人だ。
(将平殿は、将門殿に心酔してるように見えたが……)
しかも、韓国氏は物部韓国氏ともいう大陸の文化を学ぶ伝統のある血筋で、広足は咒禁の名人であったと伝わっている。咒禁は咒や太刀、杖刀を用いて病や禍を防ぐ術で、陰陽道にその地位を取って代わられた歴史がある。典薬寮には、百年ほど前までは、咒禁博士や咒禁師といった役があり、咒禁生もいたというが、彼らの活躍の場は陰陽寮に奪われ、咒禁を扱う制度自体が消滅したのだ。
保憲は問うた。
「将門殿や将平殿は、前生の記憶をお持ちなのですか?」
「おぬし自身も前生のことは忘れておろう。人は普通、前生のことなど覚えておらぬ」
一言主は不機嫌な口調で答えた。
(そうか、おれにも前生がある訳か)
気づかされつつ、保憲は述べた。
「わたしは以前、前生の記憶のある者と出会ったことがあります。稀ではあっても、前生を覚えている人はいると言えます」
「人は生死の境を彷徨うた時、前生を思い出すことがある。だが少なくとも将門は、われのことを忘れておる」
沈んだ声音で一言主は告げた。恋する女神として当然のことながら、一言主は将門に小角の記憶があるか確かめたのだ。しかし一言主の傷心に付き合っていても仕方ない。保憲はやんわりと話を進めた。
「では、将平殿については、まだ不明なのですね?」
「確かめようとはした。だが、われが韓国広足について知っておることは多くはないゆえな。記憶がない振りをされておる可能性はある」
一言主は、広足について随分と含みのある言い方をする。保憲は眉をひそめた。
「韓国広足様にはーー将平殿には何か企みがあるかもしれないということですか?」
「われはそう感じておる。あやつは、小角に対して複雑な感情を持っておるからの」
「韓国広足様は役小角様について讒言をなさったのですよね?」
保憲は確認した。当時のことは記録と伝説でしか知る術がない。けれど、神たる一言主は見聞きしていたはずだ。或いは、伝説の通りーー。
「われが、あやつに讒言させたのだ」
一言主は、保憲の推測通りのことを告白した。
(記録と伝説を繋ぎ合わせれば、恐らく、そういうことだと思ったが、的中したか)
「われは、『ここで、おれを待っていてくれ』と言うた小角の言葉を忘れ、ただただ咒で谷底に縛られたと恨んでおった。ゆえに」
一言主は悔いる口調で語る。
「広足と親しい、もう一人の小角の弟子に憑いて小角の悪評を流した。小角は朝廷に対して謀反を企てておる、広足とも共謀しようとしておる、と。広足は家族を守るため、小角について讒言するしかなかったのだ。広足は天皇に進言して小角の母親も人質に取った。年老いた母親が小角とともに都を追われることのなきよう、そういう方法を用いたのだ。そして小角は、全てを知っておった」
くすり、と一言主が笑い声を漏らす。
「全てを知っておったから、大人しく伊豆島に流され、昼は伊豆島で謹慎し、夜は海を渡って富士山で修行していた。あやつの奔放さを奪うことは何人にも不可能であった」
「あなた様が、ここに社を造らせたのは、もしや富士山や伊豆島が近いからですか?」
富士山は駿河国、伊豆島は伊豆国にあり、下総国から近いということもないが、晴れていれば、富士山も伊豆島も遠望できる。神にとっては近いのかもしれない。
「小角は、伊豆島も富士山も気に入っておったからの、少々興味があった」
一言主は、ぼそぼそと言う。
「この坂東には国栖の民も住み、水も豊かで馴染み易く思うたし、朝廷により、神と仏が同じと見做されるようになって、神が土地に縛られず他所にも社を構えられるようになったからのう」
役行者が天上ヶ岳で入寂したと伝わるのが大宝元年六月七日。一言主神社創建は、その百八年後の大同四年十一月十三日。一言主の託宣を受けてから人々が神社を建て終えるまでの期間を考えれば、役小角の没後間もなくだと感じられる。結局、一言主は役小角に心底惚れているのだ。恨んでいた間も、小角の足跡を辿らずにはいられなかったのである。
「成るほど」
保憲は微笑んで頷いた。本地垂迹の理屈まで利用して恋人の影を追った女神の思いには、頭が下がる。
(わたしにはきっと耐えられない)
保憲は、傍らに立つ晴明を、ちらと見遣った。この少年がいない世など、考えたくもない。怪訝そうに見返してきた晴明の眼差しは、やはり頼もしさと危うさを合わせ持っていて可愛い。愛おしい。
(おまえを危険には晒さない)
晴明を守ることこそが、陰陽寮に引き込んだ自分の責任だ。
(例え、おれの身を削っても。例え、おれの命を懸けても)
晴明は、保憲が危機に陥ることを最も嫌う。だからこそ、やはり都に戻らせねばならない。坂東の騒乱に、国栖の思惑に、晴明を巻き込む訳にはいかない。
「将平に気をつけよ」
一言主は口調を改めて警告する。
「あやつは、広足の記憶を持っておるやもしれぬ。即ち、咒禁を使えるやもしれぬ」
「将平殿は、前生に続いて再び将門殿と対立すると思われますか」
「それが分からぬ。或いは、今生こそ、将門に諫言しようと考えておるやもしれぬ。将門ーー小角は、自由過ぎるゆえ」
一言主は将平に前生の記憶がある前提で話している。確証はなくとも相当に疑っているのだろう。
「では、わたしが常陸国司の陰陽師として将門殿と敵対した際には、将平殿、そしてあなた様とも、敵対することになりますか」
敢えて保憲が尋ねると、神域の空気が揺らいだ。
「それも分からぬ」
一言主の返答は苦しげだ。
「平将門としての生が、小角が神となる道にどう繋がるか、見定めねばならぬ」
「神となる道に繋がらないのならば、将門殿に助勢することはない、と?」
「そうだ。小角が神となることこそが、われとあやつの悲願ゆえ」
一言主の力を以てしても、人を神と成すことは容易ではないらしい。
「分かりました」
保憲は恭しく拝礼する。
「あなた様と敵対せずに済みますよう、心より願っております」
「われも、そう望んでおる」
一言主は深い谷底で水音が静かに響くような声音で応じると、気配を薄れさせた。今日は、ここまでということだ。
「随分とややこしい話になってきたな」
晴明が眉間に皺を刻んでぼやいた。全く同感だ。
「有益な情報を手に入れることはできた。一言主様に感謝だ」
保憲は応じて踵を返す。と、薄れた山気が微かに囁いてきた。
「……神祖尊にも気をつけよ。あれは、わが父神なれば。国栖が祭る神なれば……」
「ーーありがとうございます……!」
保憲は足を止め、山気に心からの礼を述べた。そっと教えられた情報は貴重だ。晴明もその重要性に目を瞠っている。
(一言主は、事代主神と同じ神とされてる)
その事代主神の父神といえば、大国主神だ。豊葦原中国、即ち日本の国土を拓いた国造りの神であり、天津神に国譲りをした国津神の長である。その大国主神の代わりに国譲りを承諾したとも伝わっているのが事代主神だ。当時から託宣の神として絶大な力を有していたらしい。
(常陸国風土記に記された神祖尊の正体は未知だったが、それが大国主神だとは)
大国主神は禁厭や医薬の神ともされている。禁厭とは日本の咒術、謂わゆるまじないだ。
(確かに、常陸国真壁郡には、大国主神と同一視される大国玉神を祭る大国玉神社がある)
「ますます複雑になってきたな」
呟いて、保憲は参道を戻り、鳥居を潜って神域を出た。雁の背に乗ったまま鷹とともに待っていた茂樹が、ほっとしたような表情を浮かべる。
「さて、次は足尾山だ」
保憲は晴明とともに鷹の背に乗った。




