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雲と風  作者: 広海智


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天慶陰陽物語 第二

  天文生(てんもんしょう)安倍晴明(あべのはれあきら)天文生(てんもんしょう)平野茂樹(ひらののしげき)とともに常陸国(ひたちのくに)(おもむ)(ものがたり) 第二


          一


(たま)、この先に宿にできそうなところがないか、見てこい」

 茂樹の命令に、大きな黒い猫股は、逢坂山(おうさかやま)の夕暮れの中へ駆け去っていった。猫股の名は射干玉だが、茂樹は普段、玉とのみ呼ぶのだ。

「おい」

 晴明は抗議する。

「おれは休むつもりはない。休むなら、置いていく」

「まあ、待て」

 茂樹は年上らしい声を出す。

「おまえ、ただ保憲殿に会いに行くためだけに常陸国まで行くと思ってるんじゃないだろうな?」

 図星だったので、晴明は黙った。

「やっぱりか」

 茂樹は、溜め息をつくように言うと、急に晴明の肩を強く掴んで引き止めた。その手を振りほどきながら、憤然と振り向いた晴明に、茂樹は厳しい表情で告げた。

「おれ達は天文生だ。仕事で行くんだ。勿論、保憲殿にも会う。だが、それは、朝廷に有益な情報を持ち帰るためだ。今夜は、逢坂関(おうさかのせき)は越えない。常陸国へどう入って何を中心に探るか、保憲殿とはどの程度の接触にするか、方針を決める」

 茂樹が言うことは尤もだ。晴明も、最早子供ではない。心は逸って仕方ないが――。

「分かった」

 渋々と晴明が頷いたところへ、夜風のように猫股が戻ってきた。

「少シ先ニ、空キ家ガアル。多少ノ雨漏リハスルカモシレンガ、今夜ハ晴レダ。内密ノ話ヲスルニハイイジャロウ」

「ああ、助かる」

 茂樹が応じて、猫股は先に立って走り出す。膨らんだ上弦の月が照らす道を、天文生二人は、黒い猫股の後に黙々とついていった。

 やがて行きついた家は、屋根や壁に穴の開いた板屋だった。

「まあ、何もないよりは、風も雪も防げるだろう」

 茂樹が猫股に続いて中へ入り、晴明も土間へ足を踏み入れた。奥は板間になっている。その板間へ、茂樹はさっさと腰掛けた。大きな猫股は、板間の奥へ寝そべり、二股の尾をぱたりぱたりと揺らしている。晴明は、茂樹に倣って板間へ腰を下ろした。

「明日、逢坂関を越えて、東山道(とうせんどう)を下る」

 口火を切った茂樹の横顔を、晴明は睨んだ。

「道をそのまま行くと、平将門にも、おれ達のことが伝わる可能性が高くなるぞ?」

「だが、こちらも道沿いのほうが、行き合う人達から情報収集がし易くなる」

 茂樹は言い、にやりと笑う。

「だから、『道沿い』だ。道から少し離れたところを走る。走りながら、道を通る人に注意を払っておいて、必要そうなら情報収集する。どっちみち、おまえは全力で走りたいんだろう? そんな走り方をしたら、嫌でも目立つ」

「――分かった。だが、それなら、夜の内に逢坂関を越えてもいいだろう?」

 反論した晴明に、茂樹は肩を竦めて答えた。

(せき)は普通に通っておきたいんだ。行き来する人の様子も見たいし、おれ達は朝廷に属する者。この先何かあった時、関を通ってないと、面倒事になるかもしれないからな」

「面倒だな」

「それが、官人だ」

 茂樹は皮肉げに笑ってから真顔になる。

「平将門と関わってる朝廷の権力構造も頭に入れておけ。まず、将門自身は、太政大臣藤原忠平様と繋がりがある」

「それは知ってる。保憲から聞いたことがある」

「そうか。なら、将門の従兄、貞盛(さだもり)が誰と繋がってるか知ってるか?」

「いや……」

「参議藤原師輔様だ。先日七日の叙位(じょい)従四位上(じゅしいのじょう)になられたばかりだな。貞盛とその弟の繁盛(しげもり)は、師輔様と繋がりがある。貞盛も国香が殺される三年前までは京にいて、左馬少允(さめのしょうじょう)まで務めたから、その時にできた縁だろうな」

 左馬少允とは、左馬寮(さめりょう)の官で、(かみ)(すけ)大允(だいじょう)に次ぎ、従七位上(じゅしちいのじょう)に相当する。貞盛は更に位を上げて正七位下常陸大掾に任じられていたが、彼らに対する追捕官符が出されて以降、官位は剥奪されている状態だ。

「待て」

 晴明は首を捻る。

「忠平と師輔は親子じゃなかったか?」

「忠平様と師輔様、な」

 顔をしかめて窘めてから、茂樹は話を続ける。

「ああ。師輔様は、忠平様の二郎君だ」

「なら、何の問題もないんじゃないか?」

「だったらいいが、将門は、忠平様の四郎君(しろうぎみ)正五位下(しょうごいのげ)左近衛少将(さこんえのしょうしょう)師氏(もろうぢ)様とも繋がりがある」

「将門と貞盛の争いは、師氏と師輔の兄弟間の権力争いに繋がるかもしれないということか」

「そういうことだ」

 溜め息をつく口調で、茂樹は肯定した。確かに、面倒な話だ。

「その辺りのことをきちんと頭に入れておかないと、保憲殿を逆に邪魔してしまうかもしれない」

「それで、保憲とはどう接触するんだ」

 不機嫌に問うた晴明に、茂樹は至極当然といった様子で答えた。

「玉に呼びに行かせる。物怪が出たとあれば、陰陽師を自然に釣り出せるだろう?」

 確かにそうだ。納得した晴明に、茂樹は更に告げる。

「そうして呼び出して、おれ達で手伝えることはないか訊く。接触はできるだけ短く。回数もできるだけ少なく。おれ達の必要性がないと分かれば、おれが忠行様から命じられてることだけ調べて帰る。それでいいな?」

「ああ」

 頷いた晴明に、茂樹は笑みを浮かべると、ごろりと横になった。

「じゃあな、おやすみ。おれを置いていったりするなよ? 玉が見張ってるからな」

「分かってる」

 晴明は不承不承、茂樹に倣い、蓑を纏ったまま横になった。走り通そうと思えば、恐らく自分は、常陸国まで走れるだろう。が、その先どうするか。自分一人では、恐らく「官人」としての保憲に迷惑を掛けてしまう。それは、避けたい。

(保憲……)

 思いを募らせながら、晴明は無理矢理目を閉じた。


            ◇


 間一髪、戻ってきて保憲へと変じた白君の上で、藤原為憲がゆっくりと動いている。保憲を模した白君の体を弄りながら、低い声で話している。

「最近、土蜘蛛(つちぐも)の奴らの動きがおかしい」

 単衣の襟から衣の下へ入り込んできた武骨な手が、肌を這う。

「将門に味方しているかと思えば、ふと手を抜いて静観していることもある。将門は、そのようなこと気づいてもおらぬだろうが」

(土蜘蛛――)

 前栽の茂みの中で、保憲は眉をひそめた。土蜘蛛は蔑称。都では、国巣(くにす)が訛り、国栖(くず)と呼ばれる土着の一族だ。大和国に住む人々が有名で、古より同化政策も進められているが、常陸国では彼らの多くが古い習俗を守り、穴で暮らしていると聞く。

(そうか。桔梗達は、国栖の民。だから、「葛葉」か)

 葛葉は、国栖に因んだ呼び名だったのだ。

「まあ、奴らがどう動こうが、大勢には影響ない。結局のところ、生き残るのは、朝廷の権力を味方につけたほうだ」

 為憲は、くつくつと笑う。

「今、将門は追捕官符に従っている状態だが、その内、力が大きくなり過ぎれば、必ず朝廷から敵視されるようになる。その時こそ、常陸介の子であり高望王の孫でもある、わたしの出番だ――」

 白君の肌を嬲る為憲の両手に、力が籠もる。為憲の母親は、高望王の娘だ。つまりは、桓武天皇の血を引いており、将門や貞盛とは従弟の間柄なのだ。為憲の大言壮語は、その血筋の自信からも来るものだろう。

(だからこその、傲慢)

 保憲は、前栽の中、歯を食い縛り、浅い雪の上で両膝を抱え込んだ。為憲の動きが例の如く激しくなっていく。

(晴明……)

 白君が、入れ替わる刹那、晴明がこちらへ向かっていると告げてきた。しかし今の自分が、一体どんな顔をして会えばいいのだろう。

「……あぁっ、為憲さ……ま……」

 格子と簾の奥から、白君の(なま)めかしい声が聞こえた。


            ◇ 


 晴明……。

 呼ばれた気がして、晴明は、はっと目を開けた。夜半を過ぎて上弦の月は沈んだのか、辺りは真っ暗だ。茂樹が、傍らで静かな寝息を立てている。射干玉の気配は、すぐ近くにあって、晴明の様子を窺っている。

(夢、か……?)

 それにしては、現実的な――保憲の声だった。

(あいつが、呼んでるのか……?)

 立ち上がりかけた晴明に、射干玉が翡翠色の双眸を光らせ、微かに毛を逆立てた。

(分かってる。先に行ったりはしない)

 晴明は息を吐いて、再び横になり、屋根の穴から見える星空を見上げた。

――「わたしが飛び込むべき火は、この地に立つ、ということか」

 保憲の声が脳裏に蘇る。五年前、あの雁という青年を助けるために、出羽国まで遠出をした帰り、東国の上空で保憲が、葛葉の歌の謎解きをした。父が、晴明を守るため、母の歌を変えて伝えたのだ、と。その際、保憲は、白君の中から見つけた紙縒りに書かれていた歌として、他に二つの歌を挙げ、あの言葉を言ったのだ。

(紙縒りを仕込んだのは、保憲の母親のあやめ。あやめと葛葉。二人の母が、おれ達の定めを作ったのか)

 あの時、確か、保憲と二人して、内海を見下ろした。あれは香取海。あそこになら、海岸が湾曲して入り組んだ地形――浦回(うらみ)がある。


  こひしくはたづねても問へ常陸なる信太の郡のうらみくずのは

  〔恋しく思ったならば捜してでも訪ねてきなさい、常陸国にある信太郡の裏見の――心残りの葛の葉です〕


 歌を詠む練習を重ねてきたので、今なら分かる。母の歌にあった「うらみ」には、葛葉と縁語の「裏見」に掛けた「恨み」の他に、「浦回」も掛けてあったのだ。

(母上も、あそこにいる……)

 最早、恋しいという気持ちはない。今の晴明にとっては、保憲が全てだ。だからこそ、その傍に葛葉がいるかもしれないことに、漠然とした不安がある。晴明は、ただじっと冬空の星々を見つめ続けた。


            ◇


 西脇殿の己の曹司へ帰った保憲は、結燈台の油坏(あぶらつき)を持って出て近くの篝火から火を貰って戻り、火桶の炭にも火を点けて、一息ついた。今夜は桔梗は来ていない。

(毎夜のように来られても困るが、どこかで暗躍されてても厄介だな)

 円座に座り、保憲は白君から渡された文二つを懐から取り出した。一つは父からで、春の除目(ぢもく)とも呼ばれる県召除目(あがためしのぢもく)について案じる内容だった。年末に父宛に書いた文で、藤原為憲から聞いたこととして、常陸介藤原維幾が常陸大掾に藤原玄茂(ふぢわらのはるもち)なる土着の者を推挙したらしいことを報せたので、それに関連してだ。国司の任免が決まるのは正月十一日だが、既に噂が飛び交っているという。特に注目されているのはやはり坂東諸国の国司で、追捕官符によって事実上、官位を剥奪された上総介平良兼と常陸大掾平貞盛の代わりに誰が任命されるのか、都でもさまざまな人の名が取り沙汰されているとのことだった。

百済王貞連(くだらのこにきしさだつら)様や興世王(おきよおう)様が忠平様にすり寄ってる、か……。忠平様は賢明な方だが、(まつりごと)を行なう上で、非情な手段を選ばれることもある方だ)

 百済王貞連は、その名の通り百済(くだら)の王族の血筋である。興世王も、その名の通り天皇家の血筋で臣籍降下もしていない。父の懸念は、彼らが将門らの祖父高望王のように、坂東に下って高貴な血筋を餌に土着の豪族と婚姻関係を結び、一大勢力を築こうと企図しているかもしれないというものだった。高望王は(たいら)(うぢ)を与えられて臣籍降下し、平高望(たいらのたかもち)となったのち上総介として赴任したが、父が懸念する二人は(おう)の名も有している。

(彼らの野心を、忠平様が利用しようとなされたら……)

 平将門を子飼いとしている忠平だ。可能性としては充分あり得る。更に父は、菅原氏についても懸念する旨を記していた。前常陸介(さきのひたちのすけ)菅原兼茂(すがわらのかねもち)勘解由使勘判(かげゆしかんぱん)が下され、彼の仕事について特に問題はなかったとのことだったが、彼や菅原朝臣の他の子孫が坂東の国司に新たに任じられる可能性も排除できない。菅原朝臣自らの関与も念頭に置いておき、平野茂樹と晴明にも菅原氏について掴んだことを伝えるようにと結ばれていた。

(あの菅原朝臣が関わってくれば、坂東の混沌は弥増すな……)

 溜め息をついて、保憲はもう一つの文を開いた。紙の中から転がり出たのは乾燥させた草の根が二本。

(これは……葛根と桔梗根(きちこうこん)か)

 体を温めて汗を出す作用のある葛根と、咳を鎮めたり痰を出したり膿を出したりする作用のある桔梗根は、どちらも嬉しい生薬だ。しかも、姉に報せている葛葉と桔梗に合わせてあることが面白い。そうして保憲が少し笑えることまで、姉は計算してくれている。先の文に包んであった生薑と艾葉もそれぞれ、体を温めて汗を出す作用、体を温めたり血を止めたり胃腸を整えたりする作用があり、重宝している。

(ありがとうございます、姉上。大切に使います)

 保憲は二本の根をそっと胸に押し擁いた。


            ◇


「将門は、われらのための力になるやもしれぬ。まだ静観、ということだ」

 夜半を過ぎて訪ねてきた母は、重々しく告げた。母の言葉に、(しとね)から体を起こした桔梗は頬を膨らませた。

「いつまでもいつまでも、引き伸ばすんだな」

「仕方あるまい」

 母は硬い声で言う。

「われらを土蜘蛛と蔑む輩どもより、将門を勝たせ、覇権を握らせたほうがよいという意見が根強いのだ」

竜胆(りうたむ)様辺りの意見か」

 一族の中でも一番の強硬派の女の名を挙げると、母は苦笑し、そのまま音もなく対屋を出ていった。この石井営所の警備も、あの母に掛かれば何ということもない。葛葉とはただの仮名(けみょう)で、母が名乗っている(あざな)は、紫苑(しをに)紫苑(のし)とも、鬼醜草(おにのしこぐさ)とも呼ばれる、根が咳鎮めや痰出しの生薬となる草の名だ。鬼を従える力を持つがゆえの名である。対して竜胆は、疫草(えやみぐさ)とも呼ばれる草の名だ。(わらわやみ)の生薬となるその根が、苦い熊の胆よりも苦いため竜胆と言われるようになったらしい。その名を名乗る竜胆も、付き合うには苦い顔にならざるを得ない性格の持ち主だ。国栖は女系の一族で、そんな女達に仕切られている。

「全く」

 溜め息混じりに呟き、桔梗は再び褥に横になって衾を被った。褥を敷いて寝るなど、京の都でも随分と上級の貴族でなければできないことだ。将門は、そんな贅沢をさせてくれる。

「あたしは、別にどっちでもいいけど」

 平将門は、この地を荒らす者か、国栖を助ける者か。果たしてどれほどの使い道がある者か。

(でも、あんたを殺したくはないなあ……)

 今夜は寝殿の良子の許で寝ている将門を思って、桔梗は目を閉じた。


          二


 逢坂関にある有名な走井(はしりい)で水を飲んだ後、晴明と茂樹は、近江国(おうみのくに)へ入った。ほぼ正面から、眩しい朝日が昇ってくる。東山道を少し外れた林の中を暫く走っていくと、きらきらと輝く広大な湖が見えた。

鳰海(におのうみ)だ。淡海(おうみ)ともいう」

 前を走る茂樹が口を開く。

「この後、美濃国(みののくに)を通って尾張国(おわりのくに)を掠める。美濃国に再び入って暫く行った辺りで今日は休む」

「分かった」

 晴明は素直に了承した。自分一人なら、恐らくもっと先まで行ける。道筋は頭に入っている。美濃国の次は、信濃国(しなののくに)を通り、そして、碓氷坂(うすいのさか)にある碓氷関(うすいのせき)を越えて坂東の上野国に入り、下野国を通り、そこから先は東山道を外れて、東隣の常陸国へ入ればいい。だが、茂樹と二人で常陸国へ行くと決めたのだ。ゆえに、茂樹の後について、彼の速度に合わせて走っている――。

「そうだ、おれが何を忠行様から命じられてるか、言ってなかったな」

 茂樹が走りながら、話を続ける。

「陰陽寮に属する者として、知っておけ。坂東は、菅原氏とも関わりのある土地だ。菅原道真公が失脚した際、息子達の何人かが坂東にも左遷されたからな。特に菅公(かんこう)三郎君(さぶろうぎみ)、前常陸介菅原兼茂様は、今でも影響力を持ってる可能性が高い」

「菅原道真――」

 晴明は眉間に皺を寄せた。菅公と呼び習わされる、あの怨霊とは、因縁がある。

「あいつが出てくると、面倒だ」

「会ったことあるのか」

「ああ」

 渋面で、晴明は答えた。望んでもいないのに、二回も話した。

「そうか。あの方も、ただ怨霊というには、少し変わってるからな」

 苦笑する口調で、茂樹は言う。

「自分が作った詩の読み方を、わざわざ学者の夢枕に立って教えたりするらしいし」

「何だ、それ」

 晴明には、理解し難い怨霊だ。

「今中務卿宮様は」

 茂樹は、声を低める。

「菅公の坂東への影響を警戒するよう、陰陽頭様に指示を下された。それを受ける形で、忠行様は、現地で菅公の影響を調べてくるよう、おれに命じられた。それが、おれ達の任務の一つだ」

「了解」

 晴明は、両目を眇めて応じた。


            ◇


 正月九日、十日、十一日の三夜に渡り、例年、県召除目が行なわれる。この承平八年の正月も、それは粛々と行なわれ、三日目たる十一日の今夜も、清涼殿には上達部或いは公卿(くぎょう)と呼ばれる面々が詰めていた。従四位下(じゅしいのげ)左近衛権中将(さこんえのごんのちゅうじょう)兼蔵人頭であり播磨守(はりまのかみ)でもある藤原敦忠が、除目の案を読み上げ、公卿達の考えを問うてくる。従四位上参議で伊予権守(いよのごんのかみ)でもある藤原師輔は控えめな口調で口火を切った。

「坂東が少々気になります。上総介が百済王貞連殿となっておりますが、平良兼らへの追捕官符に平将門しか応じぬ状況が続く板東には、今少し、かの地に詳しい方を任じたほうが宜しいかと」

「今、坂東に必要なのは、平高望殿の権威を超える権威。百済王貞連殿ならば適任」

 即座に応じたのは、従三位(じゅさんみ)中納言(ちゅうなごん)兼左衛門督藤原実頼。師輔の兄である。

「問題なかろう」

 斬って捨てるように言われて、師輔は一礼して引き下がった。師輔と実頼(さねより)の父で摂政(せっしょう)たる従一位太政大臣藤原忠平も何も言わない。

(やはり父上が決めたことか。裏目に出なければいいが)

 師輔は、ひっそりと溜め息をついた。


            ◇


「白君様の代わりに返事をお届けしましょうか」

 音もなく現れた式神の言葉に、早起きして父宛と姉宛の文をしたためていた保憲は苦笑いした。

「ありがたいが、そんなことをすると白君が気を悪くするのでね」

「それは困りますわね。白君様とは仲良くありたいものです」

 鵜と鷺が描かれた袿の袖を口元に当て、式神は嫣然と微笑む。保憲の同輩、弓削時人の式神、翅鳥だ。

「わが主は木石や物具に恋われる性。ゆえに、わたくし、木石や物具達に妬まれ易うございますので」

 保憲の懐で、天児に戻っている白君が不機嫌そうに、ふるりと震えた。白君の機嫌は損ねたくない。保憲は硯に筆を置き、翅鳥を見上げた。

「それで、陰陽寮一速いおまえが遣わされたということは、除目の速報か」

「仰せの通りですわ」

 翅鳥は懐から文を取り出し、優雅に手渡してきた。開けば、父、忠行の走り書きがある。順次書き出されていく大間書(おおまがき)と呼ばれる目録の一部を書き写したのだろう。

従五位下(じゅごいのげ)上総介に百済王貞連、正七位下常陸大掾に藤原玄茂か)

 情報収集した甲斐あって想定内だ。後は、事態がよいほうへ転がるよう、できることをするのみである。

「助かった。早く知れば早く動ける」

 礼を述べて保憲は文机から離れた。曹司の隅に置いている厨子(づし)の扉を開けて匂袋を一つ取り出し、翅鳥に放って渡す。両手で受け取った翅鳥は顔を綻ばせた。

「これは、(くす)ですわね」

「ああ。生薬としても(こう)としても使えるが、木材が腐るのも防ぐ」

「まるで、わたくしのためにあるような。ありがたく頂戴致します」

 碁盤の式神たる翅鳥は素直に喜んで、匂袋を懐へ入れる。

「晴明様のためにも、お体大切にお過ごし下されませ」

 お節介な一言を残して、翅鳥は黒白の袿を翻し、姿を消した。

 

            ◇


 晴明と茂樹が中務省から発行された通行許可証たる過所(かしょ)を見せて碓氷関を越え、上野国に入ったのは、京を出発して五日目の昼前だった。

「どことなく物々しいな」

 小雪が舞う曇天の下、関を振り向いて呟いた茂樹に、晴明は鋭い目を向ける。碓氷坂に設けられた関に詰める在庁官人達や(つわもの)達の面持ちが険しいことには、晴明も気づいていた。何かが起きている。

「今日中に常陸国に入れるか?」

「無茶を言うな。下野国までだ」

 茂樹は晴明の願望を言下に否定した。

「おれは常人の三倍の速さで進んでるんだぞ。それに、そんな状態のおまえを単独行動させられる訳ないだろう」

 「そんな状態」と言われる自覚はある。坂東の不穏な空気を肌で感じれば感じるほど、気が急いて仕方ない。早く保憲に会いたい。

「これまで通り、行き合う人達から情報収集しながら行くぞ」

 茂樹は、さっさと走り始める。晴明は顔をしかめたまま従った。茂樹の式神射干玉は冬枯れの林の中を走っているらしく、気配はすれど姿は見えない。

 東山道は下野国へと続いている。その真っ直ぐな駅路(えきろ)から少し離れ、東笹(あづまざさ)の中を茂樹は駆けていく。その速度を生温いと感じて追いながら、晴明は通過してきた信濃国の国府で聞いた話を思い返していた。

 石井営所にいた平将門に夜襲をかけ、撃退された平良兼は、将門の叔父であると同時に上総介でもある。ゆえに将門も、撃退して追撃する際に、良兼の上兵(じょうへい)即ち側近であった多治良利(たぢのよしとし)ら四十人ほどを弓で射殺した以上のことはせず、自重していたらしい。だが今は、良兼勢に加わっていた従兄の平貞盛が上京しようしていると聞きつけ、断固阻止せんと息巻いているとのことだった。貞盛は師輔との繋がりを持っている。将門としては、京で自分に不利な証言をされまいと必死なのだろう。その緊迫感が坂東中に広がって、碓氷関を守る者達の態度にも現れていたのだ。

「あれは荷夫(かふ)だな」

 茂樹の囁きに、晴明は東笹を透かして、気配のするほうを見た。東山道を荷車が進んでいる。蓑帽子(みのぼうし)背蓑(せみの)で体を覆った田夫(でんぷ)のような身形(みなり)の男が引いて歩いている。筵で覆って束ねた積み方からすると、荷台に積まれたものは炭のようだ。炭焼きは、農村に住む田夫達が農閑期の冬場によく従事する仕事だが、そうしてできた炭を売りに行く途中なのだろう。

「営所は、水運が利用し易いよう、川の近くに設けることが多いと聞いたことがあるが、ああして駅路を使う場合もある訳だ」

 茂樹は晴明に説明しつつ、東笹から出て東山道の側溝を越え、荷車の後ろから荷夫へ近づいていった。

「やあ、生憎の雪だねえ。これは炭かい?」

 馴れ馴れしく声をかけた茂樹を振り向き、荷夫は蓑帽子の陰でぼそぼそと応じた。

「ああ。最近どこの営所でも大量に買って下さるからな」

 営所とは、常に兵が駐屯していて、武具置き場、寝所、馬場などが設けられた軍事拠点で、且つ農業拠点の側面も持つ施設である。当然、炭も多く消費する訳だが、「最近」という荷夫の言いようは気になった。茂樹も晴明と同じことを感じたらしく、突っ込んで問うた。

「冬に炭が売れるのは当然じゃないのか?」

「いやいや。いつも以上だって話さ」

 荷夫は僅かに警戒心を解いた様子で語る。

「平氏の方々が内輪揉めを続けているからな。合戦準備で炭も多く要るんだろうさ。ただ、わしら荷夫を束ねていた丈部(はせつかべ)様が、あんなことになったから、今は田夫や荷夫がそれぞれ勝手に炭や鉄を運んでいるのさ」

 丈部とは、将門の駆使だった丈部小春丸のことだろう。良兼に唆されて将門を裏切った挙句、殺された小春丸は、この辺りの荷夫達の総元締めだったようだ。

「それじゃあ、炭を持っていっても、誰かが売りに行ったすぐ後で、買って貰えないなんてことがないかい?」

 茂樹は更に探りを入れる。荷夫は、にやりと黄色い歯を見せて笑った。

「いや、それが、どこの営所でも買い溜めに走っているらしくてな、幾らでも、持ち込んだ分だけ米や東絹(あづまぎぬ)を支払って下さるのさ」

「そりゃ、ありがたいな。いい稼ぎじゃないか。羨ましい限りだ!」

 適当に相槌を打って、手を振り、茂樹は荷車を追い抜いていった。晴明もその背に続く。やがて、用でも足すかのように、茂樹は側溝を越えて茂みに入った。晴明も同様に駅路を外れる。茂樹は再び東笹の薮を蹴立てていく。その東笹が起きてくる前に足を踏み入れて通り過ぎる走りで、晴明は茂樹に肉薄追従していった。


            ◇


――「小丸が天文生平野茂樹とともに下野国へ入った」

 密かに報せた白君は、またも保憲の姿で藤原為憲に組み敷かれている。このところ毎晩だ。国庁正殿前殿の簀子の下に隠れた保憲は、歯を食い縛った。為憲が執拗に白君の胸を嬲っている。胸に巻いている布を解かれていく感触がまざまざと伝わってくる。

「この傷が惜しい」

 為憲が保憲の肩口から胸にかけて残る、僅かに盛り上がった筋を太い指でなぞっている。龍の八に憑かれた小丸が斬った跡だ。

「白絹のような肌に、このような傷を付けたは、やはり物怪か」

 強い力が胸を嬲る。

「っあ、あぁ、為憲さ……ま」

 白君の艶かしい喘ぎが、保憲の呻きを隠してくれた。

「陰陽師など辞めて、わたしの妻となれば、二度と傷を負うことのなきよう、守ってやるぞ」

(おれを――わたしを守れるのは、ただ一人だ。おまえじゃない)

 保憲は胸中で言い返して、苦鳴が為憲に届かぬよう、簀子の下から前栽の陰へ、眩い月明かりを避けて移動した。

(明日は望月か)

 真円に近い小望月(こもちづき)に、懐かしい面影が重なる。

(葛葉殿は、晴明をこの地へ呼び寄せようとなさってる。おれも、あいつを呼び寄せる餌にされてる可能性が高い)

 国栖が暗躍する地に陰陽師として赴任させるなら、必定、見鬼の力の強い保憲が選ばれる。そこまで読まれていた気がしてならない――。

「貞盛め、京に(のぼ)るため、信濃国の郡司を代々務めている他田(おさだ)氏に渡りをつけているらしい」

 為憲が白君の指貫と下袴の腰紐を解きながら囁いている。国司が国の政を担う地方官達であるのと同様、郡司とは(こおり)の政を担う地方官達だ。但し、国司が朝廷から任命される一方で、郡司は国司によって上申されたのち、京で式部省試(しきぶしょうし)に及第して初めて任命される。国司が郡司に対して優位を保てるようになっている訳だが、詰まるところ朝廷の権威は絶対なのだ。

「将門に知られたら必ず阻止されるだろうがな。将門と貞盛の言い分を比べれば、貞盛のほうに道理があろうから、将門は朝廷に訴えられたくないのだ」

 貞盛とも将門とも同じ高望王の孫として従兄弟関係にある男は、薄く笑うと、顕にした白君の肌を無骨な手で撫で回した。

「ん、んんぁ、為憲様ぁ、あ」

 白君が甘い声で為憲を昂らせている。為憲を骨抜きにするために、白君も随分と淫らになったものだ。

「やれやれ、将門が抱える土蜘蛛の女も相当よい声で啼くというが、そなたほどではあるまいて」

 苦笑した為憲の息遣いが荒々しくなっていき――。

 不愉快極まりない感覚を、いつものように歯を食い縛ってやり過ごし、保憲は薄く積もった雪を素足で踏んで西脇殿へ帰った。己の曹司に入ろうとすれば、またも気配がある。

「おまえ、暇なのか」

 保憲は眉をひそめて、白君から渡され握っていた二つの文を懐に入れ、遣戸を開けた。

「あたしらは将門に付く」

 円座に勝手に胡座を掻いていた桔梗は、暗がりの中、勝ち誇るような声音で言う。

「邪魔するなら、小丸が世話になってるあんたでも容赦しない。今宵はそれだけ言いに来た」

「おれは、朝廷の命に従うだけだ」

 短く答えた保憲を尻目に、桔梗は月明かりの中へ出ていった。その後ろ姿が身軽に築地を跳び越えるのを見届けてから、保憲はいつものように結燈台の油坏に篝火の火を移し、曹司へ戻る。火桶にも火を移して、保憲は懐から二つの文を出した。姉の文には、いつも通り二種の生薬が包まれていた。一つは乾薑(かんきょう)だ。生姜を乾かしたものである。先日貰った生のものは体の表面を温めて汗を出させるが、乾かしたものは体の深部を温める。ありがたい。そしてもう一つは――。

(これは(みち)か)

 くすんだ黄色の塊は、小さな欠片を取って舐めれば芳醇な甘さで舌を楽しませてくれる。正殿前殿で簡単に夕食は済ませてきたが、甘く滋養のある蜂蜜(ほうみち)は嬉しい。高価なものだが、蜂の巣さえ見つければ、蜂を燻して追いやり、手に入れられるものである。晴明が見つけて取ったものを、姉が丁寧に乾燥させてくれたに違いない。

(晴明に、この礼は言わないとな)

 保憲は微笑んで、蜜をもう一欠片口に入れた。


          三


 翌日正午過ぎ、保憲は常陸介藤原維幾に呼び出された。

「下総国との国境近く、新治郡に猫股が出たと報せが来た。被害は大して出ておらぬようだが、放ってもおけぬ。土蜘蛛――国栖との関わりも分からぬゆえ、調べて参れ」

 新治郡が接しているのは下総国の結城郡(ゆうきのこおり)と豊田郡。豊田郡はその西隣の猿島郡とともに平将門の本拠地だ。藤原維幾も、平将門と国栖との関係を案じているのだろう。

「鎮めずともよいのですね?」

「今、国栖と下手に争う訳にはいかぬ。まずは探れ」

「承りました」

 一礼して、保憲は維幾の執務室を辞した。国庁正殿の後殿(こうでん)にあるその部屋から、透渡廊を通って正殿の前殿へ戻る。前殿の西の端の曹司が陰陽師の仕事場として割り当てられているのだ。そこで毎日夜まで命じられるままに諸々の吉凶を判断して報告し、合間に国栖のことを調査している。それゆえ好色な藤原為憲に目を付けられてしまったが、弱味を握られている振りをして(たぶら)かし、情報源とした。

(国栖は、この坂東を、朝廷から切り離し、古いままに保とうと躍起だ)

 そうして、自分や晴明をこの地へ来させ、何かをさせようと動いている。

(だから、晴明をここに留める訳にはいかない。今、国栖を利するのは下策だ。十中八九、将門を勢いづけてしまう)

 現れた猫股は平野茂樹の式神に違いない。保憲を誘い出して接触を図るつもりだろう。

(これを使おう)

 保憲は曹司の二階厨子から算木を六個全て取り出した。陰陽道を知る者同士で遣り取りするには便利な道具なのだ。次いで、床に敷物として敷いていた狐の皮衣を袍の上へ羽織って簀子へ出ると、三十六禽を呼び出した。魔物は見鬼の力がない者には見ることができないので、騒ぎになる心配はない。午の時なので、鹿と馬と獐が現れた。魔物ゆえ大きいそれらの内、最も乗り心地のましな馬を選んで跨り、残り二体には姿を消させて、保憲は国庁の庭を突っ切り、築地塀を跳び越えた。常人からは保憲が不可思議な力で飛んでいるように見えるだろうが、坂東の人々はあまり怪異に驚かない。昼間から動き回る国栖に慣れているせいだろう。

 飛ぶように駆ける魔物の馬の背から、保憲は広がる沃野を眺めた。常陸国風土記(ひたちのくにふどき)には、国広く、山も遥かに、広野(ひろの)の拓けたよい国で、海山の(さち)にも恵まれ、とある。朝方は雪が散らついていたが、今は晴れ渡って大空が青い。

(古から国栖が暮らしてきた豊かな地に、朝廷の国司が入ってきて、一方的に支配を始めた)

 気配を感じる。視線を感じる。

(葛葉殿にも見られてるかな)

 晴明の母は、国栖の民として葛葉と名乗っていた。堂々と己の素性を明らかにしていたのだ。

(誇り高い(たみ)だ。そして力ある民だ)

 常陸国風土記には、国栖の話が多く記されている。遮る者の意味で佐伯(さえき)とも呼ばれ、討たれたり、従えられたり、住んでいた者の名が地名の由来とされていたりする。まつろわぬ民――それが国栖だ。

(仲よく付き合えたら何よりなんだが、朝廷にその気がなければな)

 軽く溜め息をついて、保憲は行く手を見据える。常陸国の国府がある茨城郡(うばらきのこおり)は、東南に広がる香取海へ注ぎ込む多くの川が流れる湿地帯だ。保憲は国府のすぐ西南を流れる信筑川(しづくがわ)に沿って西北に進み、弓袋山(ゆぶくろやま)を越え、筑波山を左に見つつ真壁郡に入って桜川(さくらがわ)を渡り、新治郡に入った。新治郡家(にいばりのぐんげ)は、ほぼ真っ直ぐ進んだその先だ。魔物の馬は、平将門が親類縁者と合戦してきた地を、山だろうが川だろうが力強く駆けていく。

(猫股は十中八九、茂樹の射干玉だろうが、郡家(ぐんげ)で聞き取りをすれば、他の情報も得られるかもしれない)

 国司が働く政庁は国庁、官庁街は国衙(こくが)と呼ばれ、それを含む市街は国府と呼ばれるが、郡司が働く政庁は郡庁(ぐんちょう)、官庁街は郡家と呼ばれる。見えてきた新治郡家は邸や倉が五十棟ほども建ち並ぶ立派なものだった。

「白君」

 保憲は式神を呼ぶ。

「先触れを頼む。できるだけ、おれが話を聞き出し易いようにな」

「難しい注文をする」

 同じ顔をした式神は仏頂面をすると、素早く新治郡家の郡庁へ飛んでいった。近頃は藤原為憲の相手をさせることが増えたので、幾ら綺麗に洗ってやっても不機嫌だ。

(だが、為憲からの情報は有用だ)

 保憲が常陸国に赴任した昨年の二月には、前常陸介菅原兼茂は既に京へ戻っていたので、直に会うことは叶わなかった。その為人や振る舞いについて、多くの官人達からそれとなく聞き取ってきたが、最も多くを語ったのは藤原為憲だ。また、保憲が疎い土着の人々についても、為憲は熟知している。藤原維幾が常陸大掾に推挙したという藤原玄茂についても、玄明(はるあきら)という、常陸国の香取海沿岸に大私営田を領有する兄がいることまで、聞きもしないのに教えてきた。

――「親父殿は玄茂(はるもち)を手懐けることで、租税を一切納めない玄明に言うことを聞かせたい訳だが、果たしてそううまくいくものか、わたしとしては疑問だ」

 為憲の愚痴も含めて全て貴重な情報として、保憲は年末の文で父の忠行に報せている。

(さて、とにかく情報収集だ)

 保憲は魔物の馬を新治郡家へ乗り入れた。


            ◇


 郡司の長官たる大領は、転がるようにして郡庁の南門から出てきて保憲を出迎えた。白君が随分と脅したようだ。

(在庁官人は、京から来た官人を侮るか持て囃すか、どっちかだと聞くし、常陸国府でも概ねそうだが)

 例えば、平将門の祖父、高望王は、臣籍降下して平高望になったとはいえ、その高貴な血筋と人柄で在庁官人達や土着民達に大いに歓迎されて勢力を築いた。例えば、常陸介藤原維幾は、承平六年には武蔵守(むさしのかみ)に任じられたが、在庁官人の一人、武蔵国司(むさしのこくし)判官代(ほうがんだい)足立郡司(あだちのぐんじ)の大領でもある武蔵武芝(むさしのたけしば)に大いに反抗されて他の在庁官人達も賛同したため、承平七年には常陸介に任じられた。つまり、藤原維幾には武蔵守は務まらないと朝廷に判断されたのだ。現在、武蔵守に任じられているのは今扶王(いますけおう)。宇多天皇の兄宮(あにみや)であった是忠親王(これただしんのう)五郎君(ごろうぎみ)だ。血筋としては充分だが、目代(もくだい)を派遣したのみで、自身は武蔵国に赴任すらせず、朝廷の期待に応えていないと聞く。

 魔物の馬から下りた保憲に、小太りで中背、初老に見える大領は、背を屈め、上目遣いに確かめてきた。

「常陸国司の陰陽師賀茂保憲殿とお見受け致す。猫股の件で早速お越し下さったとか」

「はい。どの辺りに出たか、他の怪異はなかったか、目撃者はどなたか、被害は如何ほどか、知り得る限りを教えて頂きたく罷り越しました」

 保憲は丁寧に答えた。

「分かり申した」

 大領は頷き、南門の中を示す。

「正殿でお話し致そう。先触れを頂いて、少領(しょうりょう)主政(しゅせい)らも控えさせており申す」

 少領は郡司の次官、主政は郡司の実務を仕切る官だ。新治郡は十二の(ごう)を有する上郡なので、主政は二人いるのだろう。

「お願いします」

 保憲は大領に従って南門を通り抜けた。白君が音もなく空から降りてきて後ろからついて来た。

 正殿の南廂で大領、少領、主政二人が代わる代わる話したところによれば、件の猫股は新治郡の新治郷(にいばりごう)川曲村に出たという。

(川曲村を敢えて選んだのか)

 承平五年十月二十一日に平将門と平良正が合戦した場所だ。衣川(きぬがわ)沿いにあり、将門の本拠地の一つである下総国豊田郡ともかなり近い。この新治郡家からは西南の方角に当たり、常陸国府から新治郡家ほどではないにせよ相当離れている。新治郡はかなり広いのだ。

「被害はと言えば、田夫が二人、逃げる途中で怪我を負ったと聞いており申す」

「猫股が出たのは朝方だったのですが、凍った水溜まりで滑って転んだとかで」

「――朝に出る物怪とは珍しい」

 保憲は溜め息交じりに相槌を打った。夕方であれば水溜まりも凍っておらず怪我人も出なかったかもしれない。何故、茂樹は朝方を選んだのか。

(晴明が急かしたんだろうな……)

 苛立つ晴明を抑え切れなくなった平野茂樹が容易に思い浮かぶ。

「猫股はその後どちらへ?」

 保憲の問いに、主政の一人が広げられていた新治郡の地図上へ手を伸ばした。

「そこから東南へ、大宝沼(だいほうぬま)の北を通り、鳥羽淡海(とばのおうみ)の岸沿いに野本営所のほうへ向かったと聞いております」

「野本営所とは、前々常陸介の?」

 確認した保憲に、大領が頷いた。

「はい。前々常陸介は追捕官符を受けたのち病を得たと聞き及んでおり申す。野本営所も再建半ばといったところでござる」

 前々常陸介とは源護のことだ。追捕官符が下されているので敬称は用いない。

「猫股が出た以外には、特に怪異はなかったのですね?」

 保憲が念押しすると、主政のもう一人が首を傾げながら言った。

「全く違う場所ではあるのですが、怪異と言えば今朝方、足尾山(あしおやま)で地鳴りがした、と」

(足尾山)

 新治郡と真壁郡の郡境(こおりざかい)にあり、筑波山や弓袋山と連なる山だ。常陸国風土記には、葦穂山(あしほやま)と記され、油置売命(あぶらおきめのみこと)という山姥(やまうば)が眠っていると書かれている。醍醐天皇によって足尾山と名を変えられたと言い伝えられているが、山姥、即ち山を守る女神は、未だおわす可能性が高い。

(ここへ来る途中、弓袋山を越えた時には何も感じなかったが)

 自分は神に愛でられる性だ。お陰で、これまで葛城山の一言主や賀茂玉依姫、貴布禰山の高龗神など、神々の世話にもなってきた。しかし今回、神は自分に反応したのではないようだ。

(あいつが行動を起こした時に地鳴りがしたのなら)

 安倍晴明もまた、神に愛でられる性だ。

(神はあいつに何か思うところがあるのか)

 山神は総じて女神だ。

(まさか、あいつ、惚れられたんじゃないだろうな)

 保憲は円座から立ち上がった。

「まずは、野本営所へ行って猫股の行方を探ってきます。その後、足尾山の様子も見てみましょう」

「お願い致す」

 大領以下四人も立ち上がった。保憲が白君を従え、南廂から簀子に出て階を下りるところまで、慄きながら見送ってくる。保憲は振り向いて断った。

「急ぎますので、ここにて御容赦を」

 控えさせていた魔物の馬に跨ると、大領と主政達は、ぎょっとしたように目を瞠った。常人に魔物は見えないので、保憲が宙に浮いたように見えるのだろう。しかしただ一人、無口だった少領だけが両目を眇めた。

「それは、馬でござりまするか。何と大きな。常羽御厩(いくわのみまや)でも、これほどの馬は見たことがありませぬ」

 常羽御厩とは、将門の伴類の多治経明(たぢのつねあきら)別当(べっとう)を務めている栗栖院常羽御厩(くるすゐんいくわのみまや)のことだろう。下総国豊田郡にあるが、昨年の承平七年八月六日、子飼渡の合戦で将門が敗れた同じ日に、良兼に焼き討ちされた。官営の御厩(みまや)を焼き払ってしまったことが、良兼らに追捕官符が出された理由の一つと言われている。

「見鬼の力をお持ちですか」

 微笑んだ保憲に、小柄で顔に深い皺を刻んだ少領は頷いた。

「微かに見える程度ではありまするが、夜刀神(やつのかみ)を見たことがありまする」

 夜刀神とは、(つの)のある蛇神(へびがみ)だ。(わざわい)から逃げる際に振り向いてその姿を見てしまうと家が滅ぶと言われる。「谷津(やつ)の神」という意味で、水のあるところに住まう神である。常陸国風土記には、行方郡(なめかたのこおり)の郡家近くに多くの夜刀神が住んでいたことや、鹿島郡(かしまのこおり)の浜で角のある蛇が海を目指したことが記されている。また、那珂郡(なかのこおり)に蛇神がいたことも伝えている。常陸国は、国栖とともに蛇神が住まう地でもあるのだ。

(八の遠縁かもしれないな)

 可愛らしい龍を思い、保憲は苦笑しつつ郡司の四人に馬上から軽く頭を下げた。

「そのお話も含めて、またいろいろと伺いに参るかと思いますが、本日はこれにて」

 白君も、一際はっきりと白い汗衫姿を現して、四人に優雅に会釈する。気を飲まれたように会釈を返した四人を尻目に、保憲は魔物の馬を駆けさせ、郡庁の南門を出た。野本営所は、新治郡家からは、ほぼ真南だ。


            ◇


「初めましてだなあ、兄様(あにさま)

 鳥羽淡海の岸辺に生えた木の上から声を掛けられて、晴明はその袿姿の少女を睨んだ。先ほどから気配も顕に誘ってきた相手だ。木の枝に腰掛け、紅色の張袴や紅梅(こうばい)色の袿の裾を垂らしている格好が何とも異様である。晴明の傍らで、茂樹が全身を緊張させながらも、余裕のある声音で応えた。

「生憎、わたしにも、この同輩にも妹はいない。人違いではないか?」

「あんたに用はないよ、都の優男」

 少女は嘲るように返すと、ひたと晴明を見据えてくる。

「あたしは桔梗。小丸、あんたの妹だ。父親は違うけどな」

 童名で呼ばれたのは久し振りだった。

「おれを知ってるのは、本当らしいな」

 晴明は一跳びで少女の隣に立つ。木の枝が重さに耐えかねて、みしりと音を立てた。

「さすが兄様!」

 少女は、笑顔で張袴の中の両足をばたばた揺らす。ばきりと派手な音を響かせて枝が折れた。垂れ下がる枝から飛び降りた少女へ、岸辺の枯れ葦の中に隠れていた射干玉が飛びかかる。しかし少女は、その爪の先から茂樹の傍らへ移動していた。その手に握られた小刀が、茂樹の首に突き付けられる。

「あたしはちょっと話がしたいだけだよ、小丸」

 桔梗と名乗った少女は、背後に回っていた晴明をゆっくりと振り向いた。

「何の話だ」

 とりあえず、晴明は少女を突き飛ばす手を止めた。


          四


 子飼川は新治郡を流れ下り、新治郡と真壁郡の郡境に広がる鳥羽淡海に注ぎ込み、そこからまた流れ下っていく。野本営所は、その鳥羽淡海の東の畔、即ち真壁郡側に構えられている。

 営所とは広大な施設だ。寝殿と対屋を中心に、垣根や築地で囲まれ、東、西、南にはそれぞれ陣が設けられており、垣根に沿って檜皮葺きの倉が並び、政所(まんどころ)もある。その周りには御厩、牛屋、大炊屋(おおいや)御炊(みかしぎ)御厨子所(みづしどころ)酒殿(さかどの)贄殿(にえどの)作物所(つくもどころ)鋳物師所(いもじどころ)鍛冶屋(かぢや)織物所(おりものどころ)染殿(そめどの)打物所(うちものどころ)張物所(はりものどころ)縫物所(ぬいものどころ)糸所(いとどころ)があり、更にその周りには田が広がって田屋(たや)などもあることが普通だ。しかし、魔物の馬の背から保憲が遠く望んだ野本営所は、未だ殆どが焼け跡だった。

(源護は、もうここには住んでないな)

 平将門の本拠地に近い営所では、安心して再建することもままならないのだろう。同じ真壁郡内でも東北のほうにある取木営所は、もう少し再建が進んでいると聞いている。

(さて、あいつらはどこにいるんだ?)

 保憲がぐるりと辺りを見回した刹那、気配とともに姿が現れた。

「保憲!」

 袍の領と狐の皮衣を一緒くたに両手で掴まれて、保憲は危うく魔物の馬から落ちそうになる。その保憲の肩と腰に力強い腕を回して、晴明はそっと地面に下ろしてくれた。

「随分な登場だな」

 ぼやいてから、保憲は改めて晴明を見る。布衣の上に蓑を纏った少年は、保憲の目の高さより僅かに上になった両眼で強く見つめ返してくる。

「やっぱり、おれより背が伸びたか」

「保憲、おまえ」

 晴明は保憲の両肩を左右の手で掴んで、それどころではないという形相だ。保憲は目を瞬いた。

「何かあったのか?」

「おまえ、おまえ、毎晩……!」

 それ以上言えなくなった晴明を凝視して、保憲は合点した。

「桔梗と会ったのか」

 想定すべき事態だった。保憲は内心歯噛みしながら言った。

「あいつの言うことは真に受けるな。人をからかう癖があるんだ」

「晴明! 保憲殿!」

 布衣姿の平野茂樹が鳥羽淡海の岸沿いを走ってきた。射干玉の気配は岸辺の枯れ葦の中にある。晴明に置いていかれて追いついた、といったところだろう。保憲は溜め息をつき、晴明に重ねて言った。

「ここは目立つ。きちんと説明するから、筑波山へ行こう。冬でも雪を被らない山だ」

「おまえ……」

 晴明は保憲の両肩を離さない。その両手を振りほどくことは、最早できないだろう。感じる力は既に晴明のほうが上だ。安倍晴明は、背丈だけでなく、力でも自分を完全に上回った。そうなると分かっていたことだ。

 保憲は黙って全力で晴明へ一歩近づいた。晴明は驚いた様子で両手の力を緩める。これだから、幾ら力が強くても危ういのだ。保憲は更にもう一歩距離を詰め、両腕で晴明を抱き寄せた。

「保憲……?」

 戸惑う晴明の耳元へ、保憲は囁いた。

「わたしはまだ生娘(きむすめ)だ。おまえが知りたいのは、そういうことか?」

 晴明は大きく呼吸し、保憲を強く抱き締め返してきた。全身が小さく震えている。懐かしい匂いだ。

「……おまえが無事なら、それでいいんだ。おまえさえ無事なら」

 呟いた少年の背をぽんぽんと叩いて、保憲は少しずつ体を離した。晴明は真っ赤になった両眼で見つめてくる。まだ案じているらしい。桔梗の話を聞けば、そうもなるだろう。

「まずは乗れ。茂樹も」

 保憲は二人のために魔物の鹿と獐を呼び出して、自分も魔物の馬に跨り直した。


            ◇


 常陸国風土記によれば、神祖尊(みおやのみこと)が宿を請うた際、富士の神は断り、筑波の神はもてなしたので、神祖尊は、富士山は冬も夏も雪や霜に覆われるように呪い、筑波山は人が集まって神とともに宴を催すように寿いだという。以来、富士山は雪に覆われても、筑波山は雪を纏わないのだ。

「あの日当たりのいい尾根にしよう」

 保憲は天文生二人に声を掛けて、三体の魔物を筑波山の低めの尾根へ進めた。晴れているので日差しが暖かい。

 猫股には乗れないのか、大人しく魔物の獐に跨ってきた茂樹は、尾根に着くなり遠慮がちに申し出てきた。

「おれは聞かないほうがいい話なら、離れてますが」

「そうだな、白君に呼びに行かせるまで、ちょっと離れててくれ」

 保憲は一つ年下の青年に遠慮なく命じて魔物の馬から下り、同じく魔物の鹿から下りた晴明に向き直った。

「言い忘れる前に言っておく。蜜をありがとう。大切に食べさせて貰ってる」

 晴明は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐに思い至ったのか、小さく頷いた。

「ああ、あの蜜をひぐらしが白君に託したんだな。釣殿の床下に蜂が巣を作ったから、大きくなるのを待って、煙で燻して取ったんだ。おまえの役に立ってよかった」

「おまえがしてくれることは、何でも大いにおれの助けになってる。おれはおまえを頼りにしてるんだ。だから、ちゃんと話を聞いてくれ」

 保憲は晴明を手招きし、並んで尾根の岩の一つに腰掛けた。眼前では、なだらかで雄大な筑波山の峰々が午後の日差しを受けて、弓袋山、足尾山へと連なっている。

「端的に言えば、藤原為憲と寝てるのは白君だ。あいつはおれの身代わりになることが存在意義の天児だから」

 保憲が告げると、俯いた晴明は岩の尖りをぎゅっと握って確かめてきた。

「おまえ自身は大丈夫なのか?」

「まあ、ちょっと不快ではあるけれど、大丈夫は大丈夫だな。それに、為憲からの情報は有用だ。何しろ、おれはこの坂東に疎いからな」

「桔梗とは、どう知り合ったんだ」

「おれが常陸国府に赴任した三日後に、向こうから会いに来て、葛葉の娘だって名乗ったんだ。驚いたよ」

「何で、おれに桔梗のことを報せなかった」

「ごめん。うまく伝えられる気がしなかったんだ」

 保憲は素直に詫びた。正直、晴明が葛葉のことを今どう思っているのか掴みかねているのだーー。

「白君は、おまえがひぐらしに報せてることと報せてないことがあると言った」

 晴明は低い声で質してくる。

「何を報せて何を報せてないんだ」

 白君は、隠し事はしても嘘はつかない性格だ。それが完全に裏目に出たらしい。

「姉上には、桔梗のことは伝えたが、さすがに為憲のことは伝えてない」

 正直に告げた保憲に、晴明は眉間に刻んだ皺を深くした。

「おれも、ひぐらしには、おまえが言うまで黙っておく。桔梗が言うには」

 晴明は少し口調を変えて語る。

「葛葉は仮名で、字は紫苑というらしい。自分達は国栖の民。だから、おれの父には葛葉と名乗ったんだろうって」

「おれも国栖について知る中で、そうだろうと思った」

 頷いた保憲に、晴明はまだ赤い両眼を向けてきた。

「桔梗は、平将門に味方すると言った。つまり、おまえに敵対してくる。あいつは危険だ」

「おれにも直接言いに来たよ、将門につく、とね。あの子のそういうところは可愛らしいんだけれどな」

「おれはここに残る」

 晴明は思い詰めた顔で言い張った。予想通りだが認める訳にはいかない。保憲は一呼吸置いてから言い聞かせた。

「それは駄目だ。葛葉――紫苑様の思惑通りになってしまう」

「どういうことだ?」

 晴明は怪訝そうだ。保憲にも、紫苑の意図するところは分からない。だが、確信はある。

「おまえのお母上は、おまえをこの地へ呼び寄せようとしてる。おまえの家を出た時から――あの歌を残した時からな」

「おれに何の用がある? 自分から出ていって」

 拗ねた声を出した晴明に、保憲は苦笑した。頼もしさは増しても、やはりまだ少年だ。しかし、紫苑の――国栖の考えは、そう情のあるものではないだろう。

「おまえに会いたいとかじゃなく、おまえの力を利用しようとしてるんだと、おれは思う。すまない、冷たい言い方になってしまうが」

「構わない」

 晴明は自嘲するように笑む。

「母上には昔から期待してない」

 切れ長の両眼が、保憲を見据える。

「おれにとっては、おまえが全てだ。おまえこそが、おれの世界だ。だから、おまえの傍にいて助けたい。おまえが傷つかないように、力の限り守りたい。離れてると、時々、おまえのことが心配で気が狂いそうになる。おれは、おまえが何と言おうと今度こそ、おまえの傍にいる」

「――おまえが傍にいたら、おれは安全なのか?」

 保憲は試す声音で問いかけた。できれば口にしたくなかった問いだ。けれど、晴明を都へ帰らせるには、こう言うしかない。晴明の古傷を抉るしかない。案の定、晴明は絶句して保憲を凝視した。六年前と同じ失敗をする訳にはいかない。保憲は肩を竦めて見せて、慎重に言葉を選んだ。

「そこは、安全だと言い切れ。自信もないのに強情を張るな」

 晴明は目を伏せ、眉間に苦しげに皺を刻んで答えた。

「安全だと言い切れる自分になりたい。ただ、おれには前科がある。だから、おれの命に換えてもおまえを守れるように、咒か何かでおれ自身を縛る。二度と、おまえを傷つけたりはしない」

「命に換えられたら困るんだよ」

 保憲は溜め息交じりに言うと、両手で晴明の顔を挟んで、しっかりと自分のほうを向かせた。依然、苦しげな表情をしている少年の口に、そっと自分の口を重ねて目を閉じ、少しだけ吸う。この少年は、誰かと口吸いをしたことがあるだろうか。

 ちゅっ、と微かな音が響いてしまった。平野茂樹に、何をしたのか悟られてしまうかもしれない。ゆっくりと口を離して目を開くと、晴明は切れ長の両眼を大きく大きく見開いて、呆然と保憲を見つめていた。くすりと笑って、保憲は晴明の顔から両手を引き、告げる。

「おれもおまえが大切なんだ。前にも言っただろう? だから、咒で縛ったりしなくても大丈夫になってから、おれを守りに来い。それに、おれは、そもそもやわじゃないし、坂東のこともかなり分かってきたから、そう心配するな」

「……おまえは、ここに、おれの母親や妹がいるから、おれを遠ざけようとしてるのか?」

 晴明は、口吸いなどに惑わされず、核心を突いてきた。保憲が誤魔化すやり方を学んでしまったのだろう。

(酒を飲ませたり、いろいろしてきたからなあ)

「そうだな、それもある。おまえは、おれのためなら、お母上だろうと妹だろうと犠牲にしかねない」

 真顔で指摘すれば、晴明は当然といった表情で頷いた。

「おれにとっては、おまえが全てだ。母上やあの桔梗がおまえを傷つけようとするなら、容赦はしない」

「駄目だよ、晴明」

 保憲は言下に晴明の覚悟を否定した。即座に反論しようとしてきた晴明の先を制して、保憲は強く言う。

「それは、明るい道じゃない。晴明という名に相応しい生き方をしてくれ、頼む、おれのために」

「おれは、おまえを守りたいんだ」

 血を吐くように、晴明は訴えてきた。

「分かってる。だから、これを預けておく」

 保憲は微笑んで、懐から六個の算木を取り出した。黒漆と赤漆で塗られた立派なものだ。その内の三個を、保憲は晴明に手渡す。

「三個はおれが常に持ち歩く。残り三個はおまえが持っててくれ。おれに何か起こりそうなら、白君より早く、この算木達がおまえに異変を知らせる。だから、心配せずに都で修行を積め。そして、おれや肉親を怪我させる恐れが全くないくらい強くなってから、この坂東にもう一度来てくれ。それまで、おれはのらりくらり、うまくやってるさ」

「ーー絶対に、おれのいないところで傷を負ったりしないな?」

 晴明は鋭い眼差しで保憲を睨んできた。

「ああ。絶対に、おまえのいないところで傷を負ったり命を危うくしたりしない」

 保憲は言霊を紡いで頷いた。直後、晴明がすっと動き――。

「分かった。おまえを信じる。これはおまえとおれの契りだ」

 囁いてきた晴明の声を、保憲は力強い両腕に抱き竦められて聞いた。

(さすが、おれより強いだけのことはあるーー)

 抗う間もない。一呼吸後、晴明は、そうっと腕を緩めると、今度は保憲の後頭部と肩に手を添えてきた。まるで猛禽のような顔をした少年を、保憲は静かに目を閉じて受け入れる。形相(ぎょうそう)とは裏腹に、晴明の口吸いは、淡雪のように優しかった。


            ◇


 随分と待たせてしまった平野茂樹を白君に呼ばせて、保憲は父に頼まれていた菅原朝臣関係のことを話し始めた。

「菅原兼茂様は、おれが常陸国に赴任した時にはもう京へ戻られてたから、直接お会いすることは叶わなかったが、温厚で博識、しかも弓馬もよくする方だと、下人から史生(ししょう)少目(しょうさかん)大目(だいさかん)少掾(しょうじょう)(すけ)や彼らの家族達に至るまで皆、口を揃えて言う」

 「介や彼らの家族達」と言った瞬間、晴明が表情を強張らせたが、保憲は敢えて無視して話を続ける。

「兼茂様は、時平様達の讒言による昌泰の変で左遷される前は、正七位上(しょうしちいのじょう)右衛門少尉(うえもんのしょうじょう)であったというから、この坂東でその腕前を披露して、好感を持たれてらしたようだ」

「成るほど、左遷されて飛騨権掾(ひだのごんのじょう)として飛騨国に住まわれていた折も、地元民に親しまれていたという話を聞きました」

 茂樹が深く頷いた。彼も情報収集してきたのだろう。保憲は頷き返してから教えた。

「ただ、兼茂様は、御兄弟の中で一番、菅原道真様の御霊と多く話をされてるという噂だ。そのせいか、平将門が兼茂様から好んで道真様の話を聞いてたらしい。常陸国府を訪ねてきたり、自分の営所に招いたりして、それは熱心に道真様の話を聞いてたそうだ」

「『平らげ、まさに帝たらんとする者』が菅公と繋がろうとしてる……?」

 茂樹が呟いた。陰陽寮内では、鬼となった秦河勝が「平らげ、まさに帝たらんとする者」について告げた話は誰もが知るところだ。保憲は再度頷いた。

「菅原朝臣が、もし、平将門に力を貸すようなことをなさったら、まずいことになる。兼茂様は、そこまで意図なさってるかは分からないが、将門は、そのつもりかもしれない」

「菅公は、先帝のお血筋を目の(かたき)になさってますからね」

 茂樹は顎に手を当て、憂慮する面持ちで指摘する。

「延長五年八月には、当時、大和守(やまとのかみ)だった兼茂様に、朝廷に大事がある、大和国(やまとのくに)で起こると告げられたそうですが、その翌月の九月に、先帝の第八皇子の時明親王(ときあきらのみこ)と第一皇子の克明親王(かつあきらのみこ)が相次いで薨去されたんですよ。大和国で起こったことじゃないだろうって意見もありますが、そもそも、この日本のことを古には(やまと)と呼んでましたから、おれは日本の朝廷で、という意味だと思うんです」

 無品(むほん)の時明親王は十八歳、三品(さんぽん)兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)であった克明親王は二十五歳の若さだった。

(克明親王は時平様の娘を妻にしてたから、それもあるんだろう)

 保憲は小さく嘆息してから言った。

「今上も先帝の皇子だから危ういと言えば危ういが、菅原朝臣は基本、自分とともに失脚した御家族のために怨霊として力を振るってらっしゃる感じがあるから、忠平様が摂政をなさってる限りは御無事なんじゃないかと、おれは思ってる。忠平様は菅原朝臣の御子息達をよく取り立ててらっしゃるし、菅原朝臣に倣った政をされてるからね」

「菅原朝臣はそうかもしれないが」

 晴明が、ぼそりと口を挟んでくる。

「兼茂という奴は強かだ。父親の怨霊の噂を都中に流しては、兄弟達が栄達する足がかりにしてるんだからな」

 兼茂自身は国司を転々としているだけだが、兄の高視(たかみ)大学頭(だいがくのかみ)に復官し、弟の淳茂(あつもち)も京官を歴任して正五位下(しょうごいのげ)式部権大輔(しきぶのごんのたいふ)に至った。但し、高視は延喜十三年七月二十一日に、淳茂は延長四年正月十一日に世を去って、二人とも故人だ。

「逆に兼茂様が菅原朝臣を焚き付ける可能性もある、か」

 茂樹も鋭く分析した。

「菅原朝臣御自身にお伺いしてみるか?」

 保憲は微苦笑して提案する。

「下総国豊田郡の大生郷(おおのごう)に、菅原朝臣の墓所と言える天神塚(てんじんづか)がある。おれや晴明は菅原朝臣と顔見知りだから、行けば現れてくれるかもしれない」

菅原景行(すがわらのかげつら)様が建立されたという御廟天神社(ごびょうてんじんしゃ)ですね」

 茂樹が複雑そうに保憲を見てきた。菅原景行もまた菅原道真の息子だ。昌泰の変で、正六位下(しょうろくいのげ)式部大丞(しきぶのだいじょう)から従六位上(じゅろくいのじょう)駿河権介(するがのごんのすけ)に左遷されたのち、延長年間には、下総介、次いで常陸介に任じられている。高視や淳茂同様、既に故人だが、弟の兼茂、景茂(かげもち)とともに天神塚を建立したと伝わっているので、平将門にまで影響を与えた可能性は高い。

「お会いできるなら、それに越したことはないかもしれませんが、怒らせてしまう危険性はないですか?」

 茂樹は不安そうだ。無理もない。菅原朝臣は名だたる怨霊だ。しかし、自分達の言動程度で何かを変えるような御霊ではないと思える。同じことを思ったのか、晴明がぶっきらぼうに言った。

「おれ達の言動なんかで、どうこうする怨霊じゃない。一人より三人で行くほうが安全だ。行くなら今だ」

 保憲を案じた発言であることは明らかだ。保憲は微笑んで岩から立ち上がった。

「よし、なら、今から行こう」

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