Enchanted wind brings
翌朝の土曜、いつもよりも少し遅い時間に起きたジェニーは、眠っているあいだにみた夢の内容をさっぱり覚えていなかった。ただなんとなく、変な夢だったような、疲れる夢だったような気がする、と感じただけだ。
朝の十時になり、町にある図書館に本を返すついでにランチ・ブレッド・カフェで昼食を調達しようと決めた彼女は、玄関ホール脇にあるシューズ・クロークで、自分用の靴が並んだスペースを見つめた。今日着ているのは、グレーのミニワンピースに黒いヒップレングスのジャケット。濃いブルーの七部丈ジーンズだ。ミュールにしようかとも考えたが、外の気温と日差ししだでは、外の芝生で新しく借りた本を読んでもいい。そんなことを考えたので、昨日と同じ“ボロボロのスニーカー”を手に取った。
秋はジェニーが一番好きな季節だ。特に十月は自身の誕生月ということもあり、最も好んでいる。雲ひとつない晴天でもそれほど上がらない気温。少し冷たい風が、夏の色を失った木の葉を揺らす音。枯れ落ちた葉を踏んだときの、キュートな音。
この時期はいつも、自分の気持ちを明るくしてくれる。といっても、どちらかと言えば一年中明るいタイプだが。
約五分間バスに揺られ、彼女は目的地へ着いた。
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市内で最大のその図書館は、今年で創立百年を迎えていた。災害による倒壊や、いわゆる“お国事情”による閉館、何度かの移設のあと、今の場所に落ち着いたという。正面入り口を進むと大きな噴水があり、正面にある本館の両側に別館、三つの建物を囲むように人工芝がある。通りを挟んだ向かい側にある駐車場を含めればおそらく、彼女の通うミュニシパル・ハイスクールと同等か、それ以上の面積だろう。
緊急時以外、本館のある敷地内への、正面からの自動車や自転車等の乗り入れや、幼い子供が乗るおもちゃのような乗り物以外を一切許可しないということもあり、図書館に用がなくても、犬の散歩や運動目的、子供たちが遊ぶ場所として、休日は特に人気だった。
赤レンガ造りの西洋風の本館へ向かい、返却と貸し出しを終えたジェニーは、読書目的の人たちがまばらに散らばった別館の裏のほうへ出た。お気に入りのイチョウの木の下に座ると、バッグを右側に置き、借りたばかりの本を膝の上に広げた。
通りに近い場所ではあるものの、車のエンジン音が聞こえるくらいのほうが、彼女にはちょうどよかった。ほとんどの読書家は一切の雑音をシャットダウンしたがるらしいが、彼女はそうではない。一度集中すると、他の音はまるで気にならなくなる。それなりの音があったほうが、ふとした瞬間にそれまで入り込んでいた物語の世界を抜け、現実に戻り、時刻を確認できるのだ。
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突然強い風が吹いて、ジェニーは思わず目を閉じた。
木がざわつき、芝生のところどころに落ちていた落ち葉たちが、背中を押されて走り出すように一斉に転がった。
「ジェニー!」
聞き覚えのある声がした。だが正面を見ても、左側、建物のほうを見ても、見知った顔は──期待した声の主はいない。
「こっちだよ、右側!」
また聞こえたその声に従って右側を見ると、一メートルほど離れたところにある、敷地外の目隠しをするように等間隔で植えられた背の低い木々と、その外側にある黒いアイアンのフェンスの隙間から、ジャックがこちらを見ていた。
当然のように、彼女は驚いた。「ジャック? なにしてるの?」
「ちょっとね。気づいてくれて嬉しいよ。時間ある? まだ食べてないなら、一緒にランチでもどう?」
夢のようだ。現実なのだろうが、まだ信じられない。だがそんな表情を表に出すわけにいかず、彼女はすぐに返事をした。
「いいわ、三分待って、すぐに行くから」
「僕も正面玄関のほうに行くから、二分もかからないよ」
「競争なんてしないからね」
そう言うと急いで本をバッグにしまって立ち上がり、ジェニーは正面入り口のほうへと走った。
この一年半のあいだに、学校の外で偶然会うということがなかったわけではない。だがいつも友人が一緒だった。この町で会うこともはじめてだ。友人を含めて何人かで出かけたことはあっても、ふたりきりで、などというのは一度もなかった。
ミュールにしなくてよかったと、心底感じた。彼と過ごす時間に制限があるとして、一分も一秒も無駄にしたくない。
うたい踊りだしてしまいそうなほどに喜びを感じている胸の鼓動を、自分の身起きているこの現実に、思わずゆるんでしまう口元をおさえるのに必死だった。
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ジャックは軽く息を切らしながら、正面入り口の外壁にもたれていた。
「やあ」
本物だ、と思いながらも、彼女はしゃがみこんでしまった。たいしたことのないはずの距離にもかかわらず呼吸が乱れてしまったのは、おそらくこの嬉しすぎる偶然に舞い上がってしまっているからだろう。ここに辿り着くまでのほんのほんの少しのあいだ、心と足は彼の元へとまっしぐらだった一方で、自制心を保てと自分に言い聞かせることに神経を費やしてしまい、疲れるはずがないのに疲れた。だがそんなことも、彼の笑顔の前ではどうでもよくなってしまう。
しゃがんだまま、彼女は笑顔を見せた。「ハイ。ほとんど同じ距離のはずなのに、どうしてあなたのほうが早いの?」
「僕は男だし、歩幅の違いだろうね」ジャックは得意げに言った。
彼女は顔をしかめた。「それはつまり、私の脚が短いってことかしら?」もちろん、嫌味でないことはわかっているが。
「身長だよ。君の脚はその身長にしては長いほうだろ」
唇を尖らせ、彼女は立ち上がった。
「身長のことは言わないで。コンプレックスなの知ってるくせに」
「なんで? 小さいのは悪いことじゃない。背の高い女の子より、背の低い女の子のほうが可愛いよ。それに君、今日は昨日よりずっと大人っぽく見える」
ジェニーははっとした。服。そうだ、服だわ。ジャックに会えるとわかっていたら、こんなシンプルで地味な服ではなく、もっとキュートな服を選べばよかった。
いつものように悪戯っぽく笑い、彼はつけたした。「あと、走るにはそのステインカーズがいいに決まってる」
彼女はぽかんとした。「ステインカーズ?」
「“染み”のついた“スニーカー”」
「もう!」
ジェニーは冗談交じりで右手振り上げたが、ジャックはあっさりとそれを止めた。つまり、手が触れた。
彼の手。暖かくて大きな手。
ジャックは笑い、ジェニーもつられて笑った。すぐに離れたが、手だけが燃えるように熱い気がした。
あらためて彼が切りだす。「じゃあ、なにを食べに行こうか?」
「そうね、なんでもいいわ。外にテーブルがあって、店員さんの対応がよくて、極上のミルクセーキがあるところなら」
「お目当てはあそこかな? ランチ・ブレッド・カフェ」
考えていることが同じなのか、それとも自分がその店を好きだと知っていてくれているのか、もしくはただの偶然か──。いずれにしても、自分の好きな店に、片想いの相手と一緒に行けるというのは嬉しい。
彼女はやはり、笑顔を返した。「あら、よくわかったわね。あそこのメニューを卒業までに制覇するのが目標なの」