駄目
翌日、部屋にいると橙乃から電話がかかってきた。
『もしもし?えっと……』
「神谷です」
『あ、そうそう。遥ちゃんだよね。今忙しい?』
「いえ、大丈夫です」
『僕今からパトロールに出たいんだけど、誰も捕まらなくてさ。遥ちゃん、今から出られない?』
「分かりました。すぐに行きますね」
『ありがとう。ロビーで待ってるから』
ロビーに行くと、橙乃が若い女性に囲まれていた。
「あっ、遥ちゃん。ごめんね、急に。」
「いえ。」
蜘蛛の子を散らすように女性たちが去っていった。
「本当はあの子たちが参加してくれると良いんだけど、何か嫌みたいで。じゃあ、行こうか」
嫌な理由はよく分かる。橙乃にとって特別な誰かになりたいなら、私のように警備員なんかするより、他の自警団の活動をしつつ話しかけたりしてお近づきになった方が良さそうだ。
外に出ると、すぐに女子高の制服を着た女性数人に囲まれた。ここら辺では進学校として有名な高校だけど、最近は生徒の問題行動でも有名になりつつある。今も午前中だし、制服を着ているということは授業をサボって出てきたのかも知れない。
「瑞希君だ!」
「握手してください」
「写真良いですか?」
なんとか彼女たちを並ばせ、橙乃のファンサービスを補助する。そのうち主婦らしき人たちも集まってきて、警備員の仕事が増える。
「……キャー、ひったくり!そいつひったくりよ!」
人混みを射抜くような悲鳴が聞こえてきた。声の方を向くと、顔をサングラスやマスクで隠した男が鞄を持って走っている。
「今どき徒歩でひったくりか」
橙乃はファンには聞こえないくらい小さな声で呟くと、犯人を追いかけて走り出した。犯人は足が速かったが、橙乃はすぐに犯人に追いついて華麗な手捌きで組み伏せた。相手に怪我をさせない気遣いが見えて、感心してしまう。私も警察に連絡してから、被害者の若い主婦らしき女性と共に後を追う。
「私の鞄……ありがとうございます」
被害女性が鞄を受け取り、頭を下げた。
「中身確認してね。はるみちゃん、警察呼んだ?」
名前の間違いにいちいち突っ込みを入れるのは面倒だし、やめておこう。
「はい、すぐに来るそうです」
「警察は勘弁してくれよぉ。俺リストラにあって生活が苦しくてよぉ、前科がついたらますます仕事見つからねぇよぉ」
「あの、私も鞄が返って来たので、警察までは」
「ほらよぉ、オバサンもそう言ってるだろぉ」
「駄目。」
びっくりするほど低い、唸るような声だった。橙乃の目が凍りつくような迫力を持っている。
「橙乃さん?」
「正義の味方は悪人の話なんか聞いちゃいけないんだよ。」
氷柱のような視線が突き刺さり、身動きがとれない。暫くして警察が到着し、犯人と映像を回収していった。周囲の女性たちは戸惑っていたが、一人の女性が「格好良い」と言ったのを切っ掛けにまた黄色い声援を送り始めた。
「さ、じゃあ写真の続きね。次は誰からだったっけ」
橙乃は一瞬でアイドルに戻り、その後は脇田と一緒に行った時と同じで、警備員をしながら町を歩き回って終わった。
「お疲れさま、はるこちゃん。急に呼んだのに来てくれてありがとう。助かったよ」
「お役に立てて良かったです。」
部屋に帰ると、またとてつもない疲労感が押し寄せて来た。今日は夕食も風呂も簡単にして、明日の白瀬の講義に備えよう。……電話だ。知らない番号だが、何度もかかってくるので知り合いかも知れない。
「もしもし?」
『黒木です。今は神谷さんの指導をしていた宮下の携帯からかけています』
ということは、私の番号は『Tracker Dogs』全員で共有されている可能性があるんだろうか。
「いい加減にしてください。私はもう『Tracker Dogs』には戻りません」
『一度、話を聞いてくださるだけで良いのでお時間をいただけないでしょうか。こちらに戻るとはいかなくても、お詫びだけでも』
「結構です。もうかけてこないでください」
電話を切り、この番号も着信拒否にした。これでまたかけてくるようなら、誰かに相談してみよう。




