第十五話 薬有ればとて毒を好むべからす
家に着くと、日向は忍び足で楓の泊まっている部屋の前に来た。
母の蘭花の経営する病院の離れの客室で、二人だけで、最後の別れの挨拶をしたかった。
ふと、襖の先、楓の気配がいつもと違って感じた。
「楓?」
ゆっくりと開いた襖の先、薄暗い部屋で、楓が床に手をついてうずくまっていた。
「楓!?」
「来るな」
低い声を無視して、日向は楓に駆け寄った。
明らかに青白い顔をして、胸元を抑える楓は、普通じゃなかった。
その目は、どこか虚で、真っ白い肌が異様なほど冷たかった。
「大丈夫!?」
「近寄るな、出て行け」
まるで、初めて会った時のような鋭い眼と言葉。一瞬たじろいだ日向は、それでも部屋に入って、楓に駆け寄った。
楓の手元には、小さな空き瓶が転がっていた。
赤い、血のような液が少しだけ残っている。
「楓、これ、戦争の時に飲んでたやつ? 大阪の彼岸花を消すための薬だよね? ねえ、大丈夫?」
彼岸花を消すためには、生命活動を止めること、と前に楓が言っていた。
いま、目の前の楓の顔色は、青白という言葉じゃ言い表せられないほど酷かった。
身体が持つべき熱がなく、脈がほとんど感じられない。
「ねえ楓、もしかして、いままで、いつもこんなの飲んでたの? ねえ」
「出て行け」
楓は浅い呼吸を繰り返しながら、日向の手を払いのける。
こんな弱ってる楓を、見たことがなかった。
空き瓶の反対の手元には、鎖鎌を握っている。
ああ、楓は、いつもこうやって、一人で耐えてたんだ。
なにもかも。
「いま意識が、保てん、離れろ」
小さくこぼす楓に、日向は顔をしかめた。
「嫌だ」
「いま、おる奴は、殺さなあかん」
朦朧とした意識のなか、そう告げる楓に、歯を食いしばるしかできない。
こうやって、大阪の彼岸花の種を消すたびに、弱みを見せないように、気を抜くこともできないで、一人で生きてきたんだ。
意識がほとんどなくなりかけても、近寄る人間は殺すって意志だけは残して。
「絶対嫌だ」
日向は、楓に抱きついた。
その瞬間、鎖鎌が揺れた。
目の前の楓の虚な眼は、いま、何も映してない。
ただ防衛本能だけで動いてる、空っぽな人形みたいだ。
こんな生活を、ずっと続げてきてたんだ。
バッと反転した視界に、なんとか地面に倒れないよう、足を踏み込む。
鎖鎌が首を狙う。
その瞬間ーー
日向は、楓の頬を両手で包んで、接吻をした。
シャラ……
固まった鎖鎌の鎖が、小さな音をたてる。
前に、清に教えてもらったこと。
話を聞けない人間に有効な方法。
冷たい頬に、少しずつ人間の熱が戻ってきて。
固まった楓の虚な瞳に、ゆっくりと光が戻る。
時間にしたら、きっと一瞬。
でも、確かに触れていた唇を、日向はゆっくりとはなした。
「楓、わたしは、楓の味方だよ」
桜銀色のひとみを見上げて、日向は一言ひとこと、言い聞かせるように口にする。
「何があっても、どんなことになっても、わたしは、絶対、楓の味方だ」
何も言わない、感情を見せない楓をぎゅっと、力強く、離さないように抱きしめた。
「楓、わたしは、楓を苦しめない。大丈夫、楓、わたしは、味方だから」
かたまったままの楓の背中を、トントン、と指でたたく。
「楓、ごめんね。なんも気づけなかった。いままでも、いまも、楓の気持ち、考えられてなかった。ごめんね」
一人でずっと戦ってきた楓が、やっと解放されたのに。
わたしは、楓をそばに縛りつけていた。
楓の慕う帝を殺そうとする遊虎のもとに。
そして、こんなときに、やっと気づいた。
ああ、わたしは――
「わたしは、天下統一には興味ない。わたしが一番したいのは、楓、きみのとなりにいることなんだ」
楓の肩に顔をうずめて、ぽつりとこぼす日向。
「……わたしは、その気持ちには応えられへん」
「うん……うん」
日向は、下唇を噛んで、無理矢理笑った。
気づいて、それが叶わないことに、こんなに苦しいんだって、気づいた。
「うん……それでも、いいんだ。わたしが……ただ、楓のそばにいたかっただけ」
きゅっとつかんだ浴衣。
本当は、もう、離したくない。
離れたくない。
でもーー
「楓は行きたいところに行っていいよ。ここは、たぶん楓にとって居心地がよくない」
楓はきっと、遊虎を殺したい。
遊虎の目標が、帝を殺すことだから。
わたしは、楓が好きだ。
だから、楓には笑ってほしい。
いままで苦しい思いをしてきた楓が、心安らぐのなら、自分の心がどれだけ傷ついても。
わたしは、嬉しい。
そっか、この世界は本当に、複雑なんだな。
「東北にも、どこにも、行かないでほしいけど、楓の好きなように生きて欲しい」
「……抱きつきながら言うことか」
えへへ、と笑う日向は、たぶん、笑えてない。顔を上げられない。
それでも、ゆっくりと背中に回していた手をほどいて、うつむいて、明るい声を必死に紡ぐ。
「ねえ楓、きみはここにいる必要はないもんね。きみはどこにでもいける。ぼくを故郷に帰してくれてありがとう」
日向は自分の手元を見ながら、言葉をこぼすように続ける。
"ぼく"と言うとき、強い自分を演じられるから。
「きみといた時間は、ぼくにとって、なににも変え難いよ」
日向は、笑える。
「だから楓、幸せになって」
その、泣きそうな笑顔に。
いつも大丈夫と笑う笑顔に。
楓は目を見張った。
そして、静かにその目を逸らした。
「……ええ、あんさんも」
十六話は、8/6 20時に投稿します




