四章(2)
イアンが足早に進んで王太子の執務室へ入れば、二人分の視線が一斉にこちらを向いた。王太子は険しい面持ちを浮かべているが、対してルイスは気楽な様子で「遅いですよ、イアン様」と言う。「ごめん」とルイスに言うと、イアンは王太子の方を見て尋ねた。
「それで、ラヴィニア嬢は何か新しい供述を……」
「いや、昨夜話したのが全てだそうだ。印章も既に宰相の手に戻っているしな……」
はぁ、と王太子は重たいため息をつく。イアンは申し訳ないが、そのことに少し安堵した。
ラヴィニアの件は自業自得だ。それに、シェーラを傷つけようとして今回のことを計画していたのだから、罰は受けてほしいと願ってしまう。完全に私情だと自覚しているが、王太子の望みと正反対のことだが、それでも。
それくらい、好きなのだから。
(だけど、さすがに盲目になりすぎるのも……)
つい先ほどのことを思い出し、イアンは顔を顰めた。いくら王太子の話に衝撃を受け、それから言われたことに舞い上がったとして、シェーラの気持ちを全く考えていなかったのは良くない。恋は盲目というが、イアンは完全にそれになりかけていた。きちんとシェーラのことも考えなければ。
そんなことを考えていると、王太子のため息がやけに大きく聞こえた。彼の方を見れば、眉根を寄せて額を押さえている。心なしか顔色も悪く、イアンは思わず言葉を発した。
「休まれては?」
「そうしたいところだがな……そんな時間などない。ラヴィニア嬢やリウカマー侯爵の件もあるが、宰相が貴族保護法を提案してきてな……」
「貴族保護法……ですか?」
聞き慣れない単語に、イアンは首を傾げる。「ああ」と王太子は頷くと、その内容を話し始めた。
簡潔に言えば、近頃爵位を金で買収するような奴が出てきているから、爵位を売れないようにしよう、というものだ。それにイアンは首を傾げる。貴族としてはありがたいが、何が問題なのだろう?
そんなイアンの心情を察してか、王太子がゆっくりと続きを口にし始めた。
「爵位を売るということは、それほどまでにその貴族の暮らしが困窮している、ということだ。そのうえ爵位さえも売れなくなれば、その貴族はどうなる?」
ハッとしてイアンは王太子を見る。ゆっくりと、確かめるように口を動かす。
「そのまま飢え死ぬしかなくなり、爵位も国のものに……」
「ああ、そうだ。……ったく、宰相もそれくらい分かるだろうに……」
そう、王太子は小さくぼやきながら、前髪をくしゃりと握りしめた。その顔は不満げで、疲労感が滲んでいる。しかもようやっと暗殺未遂で宰相を捕らえて、権力を失墜させることができそうだったのに、真犯人は王太子にも宰相にもつかない中立派のリウカマー侯爵で、おそらくあまり権力を削ぐことはできないだろう。すなわち、この苦労はまだしばらく続くということだ。
主に楽をさせるために、何かイアンにもできやしないかと考えたが、いい案は思いつかない。とりあえず「そうなのですか」と言おうとしたところで、ずっと黙っていたルイスが口を開いた。
「イアン様、そろそろ行かなくて良いので?」
――そう言われて時間を確認すれば、そろそろ行かなければ仕事に遅刻する時間だった。遅れて来てしまったせいで、あまり……というかほとんど話し合えず、申し訳ない気持ちを抱きながら、「では、失礼します」と言って王太子に頭を下げる。そしてくるりと踵を返すと部屋の外へ向けて歩き始めた。
△▼△
その日、イアンが仕事を終えて帰ると、何故だか屋敷の中が慌ただしかった。以前もこんなことあったな、と思いつつ駆け回っていた侍女の一人を捕まえて何があったのか尋ねると、予想外の言葉が返ってきた。
「お嬢様が、今夜の夜会に出ると突然おっしゃりまして……」
「今夜っ!?」
「はい。しかも、三日後にもまた別の夜会に出ると今日お決めになされて……」
そう言って侍女はイアンから視線を逸らす。どうやらすごく迷惑に思っているようだが、それを表立って言うのは躊躇われるよう。しかも話を聞いているのはイアンだ。今はさて置いて、キスをしたことによって関係がぎこちなくなる前まではかなり仲の良い義兄妹だったから、そのせいもあるに違いない。
イアンは顎に手を当てる。今まで、シェーラはこんなことしていなかった。なのに、突然夜会に参加すると決めるなんて……何かがおかしい。そもそも――。
「――招待状は?」
「それが、どちらも本日届きまして……」
どういうことだとイアンは首を捻る。そもそも、遅れて招待状を出すこと自体家の評判を貶めるため、貴族は皆きちんと二週間前には届くよう意識をするはずなのに、今日の分を入れたら遅れて招待状が届くのはあまりにもおかしい。
それに、普通ならその場合、すぐさま欠席の連絡を送って、同時に遅れて届いたということを伝えるのだが、シェーラは無理をしてでも参加するという。
「……シェーラは自室?」
「はい。そろそろお召し換えが終わるころかと」
「分かった、ありがとう。仕事へ戻っていいよ」
「かしこまりました」
そう言って離れていく侍女の背を最後まで見送ることなく、イアンはシェーラの部屋に向けて歩き始めた。屋敷の中はどこもかしこも慌ただしく、迷惑にならないよう、イアンは廊下の端を足早に進む。
そしてシェーラの部屋の前に着くと、その扉を叩いた。「私だけど」と言えばすぐに中にいた侍女たちが扉を開ける。
中に入ってすぐに目に入ったのは、豪奢に着飾ったシェーラだった。真っ直ぐな髪は珍しくそのままで、大きな赤い花――おそらく造花が右耳の上に咲いている。ドレスの色は真紅で、艶やかな黒髪と白磁のような肌を強調していた。
ほう、と思わず見惚れるが、今はそんな場合ではない。侍女たちに「下がってくれ」と言い、二人きりにしてもらう。
扉が閉められる音を聞きながら、イアンはシェーラを見ていた。イアンの言葉に従ってしずしずと部屋の外へ出て行く侍女たちを、シェーラはぼんやりと見つめていて、濃いドレスを纏っているにも関わらず、その様子はどことなく儚い印象を抱かせる。
そのことにちっぽけな不安を感じながら、イアンは口を開いた。
「シェーラ、どうして夜会に出るんだい? それでは侍女たちに迷惑がかかってしまう」
「……お義兄様には関係ないことでしょう?」
「関係なくない。義理だけど、君の兄だ」
イアンがそう言うと、シェーラは顔をうつむけた。ドレスを掴んでいた手がきゅ、と握りしめられ、シワを作る。
「だったら……」と、絞り出したような声がイアンの鼓膜を震わせた。
「……どうして、キスなんてしたんですか」
じくりと胸が痛んだ。
シェーラが顔を上げる。その瞳には涙がうっすらと滲んでいて、表情は苦しげに歪んでいた。
イアンは静かにシェーラを見つめる。それしかできなかった。キスをしたことは事実だし、何より……そこまで愛する人を追いつめていながらも、全く気づかなかった自分が憎たらしかった。
シェーラが歪な笑みを浮かべる。
「もう、お義兄様の考えていることが分かりません」
その後、呆然としたイアンは、今朝受け取り損ねたハンカチを押しつけられ、部屋を追い出された。それを手に、のろのろと自室へと戻る。ベッドに身を投げると、そのまま目を閉じて丸くなった。
同じ屋敷の、隣の部屋に――すぐ近くにシェーラはいる。だけど……心はひどく離れているように感じた。




