四章(3)
「……イアン? どうかしたのか?」
王太子にそう尋ねられ、イアンはハッとする。そこは王太子の執務室だった。今日も今日とて朝早く王宮を訪れ、ラヴィニアやリウカマー侯爵についてのことを話し合っていたのだ。だけど、イアンはそのことに集中できなくて……。
理由はシェーラだった。あの日言われた言葉が耳から離れず、さらにあの日以来、シェーラは夜会で問題行動をよく起こすようになった。その多くがユリアナに対するもので、彼女を罵倒したり、ドレスをびしょ濡れにしたりなど、淑女にあるまじき行為をしている。
明らかに、何かがおかしかった。
そのとき、王太子の呆れたようなため息が鼓膜を揺らす。
「――イアン、もし集中できないのなら、この場を去れ。ぼうっとされて、挙句の果てに色々と情報を漏らされたりしたら、正直迷惑だ」
「はい……すみません」
王太子の言葉に、イアンは素直に謝った。王太子の役に立ちたいという気持ちはあるが、確かにそんなことをしてしまっては元も子もない。そう納得して、後ろ髪を引かれながらもくるりと踵を返した。さらりと銀の髪が揺れる。
「――いや、やはり待て、イアン」
そう呼び止められ、イアンは王太子の方に向き直る。王太子はなにやら考える仕草をしていたが、それはすぐにやめ、イアンの目を真っ直ぐに見つめた。全てを見通しているかのような瞳にたじろぎながらも、イアンは静かに指示を待つ。
やがて、王太子が口を開いた。
「そんなに気にしているのはシェーラ嬢のことだろう?」
イアンは少し気まずくなって視線を逸らした。そう言われると、シェーラの方が王太子よりも大事だと、当の本人の前で認めることとなる。それは遠慮願いたい。
だけどそんなイアンの様子を気にすることなく、――もしくはあえて気にしないフリをしてか、王太子が再度口を開いた。
「それなら、シェーラ嬢のことについて、いったい何が起こっているのか調べて来い」
イアンは目を見開いて王太子に顔を向けた。彼は真剣な面持ちをしており、イアンも自然と気持ちが引き締まる。――おそらく、イアンに配慮して、というのもあるだろうが、それよりもシェーラに何が起こっているのか知りたいのだろう。もうすぐ婚約が解消されるとはいえ、シェーラは今、王太子の婚約者なのだから。
……胸が苦しくなる。
けれどそれを押し殺して「分かりました」と言い、イアンは気持ち早めにその場を去った。
△▼△
イアンは仕事を終えるとすぐに屋敷へ向かった。シェーラに色々と尋ねるため、というのもあるが、今日はちょうど彼自身も夜会に参加する予定だったのだ。
今日参加するのは親戚であるマクリー子爵家の夜会で、近しい間柄の家なため、家族全員で参加をする。
屋敷に着くと、まずは夜会に遅れるのはなんとしても避けねばならない、ということで着替えを始める。簡単に身だしなみを整え、エントランスへ行く。
エントランスにはまだ父しかおらず、シェーラはいない。しばらく待つとやって来たので、家族揃って馬車に乗り、子爵家へと向かった。
いつもと違い、会話の一切ない馬車の中。重たい沈黙が気まずくて、イアンは声をかけた。
「シェーラ」
だけど彼女はイアンを一瞥しただけで、すぐについ、と視線を逸らす。その様子に、あの日の言葉が思い起こされ、胸がズキリと痛んだ。
――もう、お義兄様の考えていることが分かりません。
あれは拒絶の言葉だ。分からないから、共にいたくない。あなたを信用することができない。
それならば、きちんと話した方がいいのだろう。イアンの想いも、王太子の考えも、現在の状況も。
だけど、イアンには想いを告げて拒絶されることも、王太子との婚約が解消されることを告げて絶望されることも、現在の状況を伝えてまだ婚約は解消されないと安堵されることも避けたかった。
そっと目を伏せる。ひどく苦しくて、逃げ出してしまいたかった。
そうこう考えていると、子爵家に着いたのか、馬車が止まる。まず父が降りて、イアンはその間にシェーラに手を差し出した。
「シェーラ」
だけどシェーラはイアンの手を取ることなく、一人で馬車を降りていく。遠ざかっていく背に胸を痛めながら、イアンは彼女に続いて馬車を降りた。
三人で夜会の会場に入る。子爵家だからか飾りつけも大したことなく、並んでいる料理もそれほどだ。そう品定めをしながらイアンは会場を見回し、目を見開いた。
ユリアナがいたのだ。何も聞いていなかったから今日の夜会に吐きてないと思われたのだが、何故か一人でいて、静かにうつむいている。
婚約者とともに参加しながらも、一言も話さないのはあまり良くない。ということでイアンはユリアナの元へ向かった。
しかし。
「きゃあ!」
イアンが彼女のすぐ傍にまで来たとき、彼女の体が傾いた。そのせいで、ちょうど飲もうと傾けていたグラスの中身がパシャリとドレスにかかり、濃いシミを作る。
「あら、ごめんなさい。だけどそちらの方がお似合いじゃないかしら?」
そんなみすぼらしい姿のユリアナを見て、彼女にぶつかった本人――シェーラはクスクスと嘲笑った。皆がこのよく分からない事態に手を出しあぐねていて、なんとも言えない雰囲気が辺りに満ちていく。
イアンもその一人だった。だけどそれはどういうことかよく分からないのではなく、他の人よりも分かるからこそ、さらによく分からなかった。
(どうして……)
やがて、シェーラが興味を失ったようについ、とユリアナから視線を逸らした。そのとき一瞬だけ目が合う。彼女の瞳はぼんやりとしていて、なんの感情も浮かんでいなくて……。
(どうしてそんなに、感情を押し殺して……?)
ユリアナを嘲笑うシェーラの声。あれはイアンが幾度となく聞いていた、感情を押し殺した作り物の声だった。それならばきっと、シェーラはユリアナにこんなことなどしたくない。それなのに、どうしてこんなことを……。
そう思ってイアンが呆然としている間に、シェーラはその場を立ち去っていった。下にいくにつれて血のように濃くなる赤いドレスの裾が、はらりと揺れる。それが会場から消える直前になってやっと、イアンはシェーラを追いかけ始めた。人混みをかき分け、会場を出て、エントランスに至り、それから外へ出た。整備された庭園には一切目もくれず、ただただ赤い彼女を追って、どんどん奥へと進んでいく。
シェーラが建物の角を曲がって視界から消え、慌ててイアンも続こうとしたそのとき。角の先から男の声が聞こえてきた。
「ご苦労様。これでまた一歩、夢に近づいたわ」
イアンは咄嗟に角に張りつく。男の声なのに、女のような話し方。心当たりは一人しかいない。
(何故、シェーラがリウカマー侯爵と……)
そう思っていると、ふんわりと甘い香りが漂ってきた。ここ最近シェーラが好んでつけている香水のものだが、それはあまりにも濃密で、粘りつくようで、一瞬同じものとは思えないほど。
「ほら、ご褒美よ」と侯爵が言う。その意味が分からず、イアンは首を傾げた。
すると、カツカツという足音が聞こえてきた。どうやらこちらに向かってきている様子で、慌てて隠れようと、イアンは茂みの内側に入ろうとした。だけどその際、ガサリと音が鳴ってしまう。
「誰っ!?」
イアンの背筋を冷や汗が伝った。このままではバレてしまう。どうなるのかは分からないが、聞かれたくないことだからこんなところで話しているのだろう。それならば、きっと王太子に報告できなくされるに違いない。そうだと分かっていながらもどうすることもできず、ただ息を殺していると、カツ……と目の前で先ほどから続いていた足音が止まった。恐る恐る顔を上げれば、こちらを見下ろしているユリアナと視線が交わる。
(どうして彼女がここに……っ!?)
シェーラを追いかけてきた……にしては時間がかかりすぎている。つまり、最初からここに来ることを話し合っていたのだろうか?
焦りからか、考えがまとめきれず、散逸する。様々なことを考えていると、ユリアナがそっとかがみこみ、イアンの耳元にそっと唇を寄せた。
「――ここにいたことは黙っていてあげます。だから、このことは忘れてください。あの方の望みを邪魔しないでください」
それだけ言って、すぐに身を起こし、そして「猫でした」と言いながらイアンから離れていく。一瞬見えたその顔は、苦痛に歪められていた。
「それなら良かったわ。ありがとう、ユリアナ。やっぱりあなたはヒロインよ」
「リナ様のためなら、何でもします」
「そう、ありがとう。ほら、あなたにもご褒美よ」
「……ありがとうございます」
その声はひどく寂しそうで。
シェーラとユリアナ、そしてリウカマー侯爵の関係にも、いつもと違うユリアナの様子にも戸惑いながら、イアンは三人がこの場から離れるまでじっとそこに身を潜めていた。




