エピソード②
翌朝、目覚ましのアラームより先に、スマートフォンの通知音で起きた。
寝ぼけ眼で画面をスワイプすると、行政ポータルからの連絡がまたひとつ。件名は「記録整合性調査のご協力について(第二次)」。
本文には、前日と同じように「あなたの存在を確認するための追加情報が必要です」という文言が並んでいた。
要求される項目は増えている。昨日は過去一年分の医療受診と金融取引だったが、今度は交友関係や通話履歴、位置情報にまで拡張されていた。
ぞっとして目が冴える。
つまり、政府のデータベースに登録された「ぼく」という存在が、本当にこの世界にいるのか――その確認を求められている。
なのに、表示される名前は「佐藤亮」。
スマートフォンの端末ロック解除画面に映る顔写真認証は、疑いなく「本人」と判定する。なのにその下のテキストだけが、違う名前を示している。
顔は翔、名は亮。
アンバランスなその表示が、まるで人間の器に別の魂を無理やり押し込んだみたいに気味が悪い。
会社に行くと、さらにおかしなことが増えていた。
総務から回覧された資料に「佐藤亮」の名があった。しかも、社内報の「社員紹介」のページに、ぼくの顔写真と経歴が掲載されている。
文面は「入社三年目の期待の営業マン」。だが名前の欄には大きく「佐藤亮」と印字されていた。
同僚が何気なくその記事を見て「お、佐藤、載ってるじゃん」と声をかけてくる。
翔と呼ぶ人間は、もう久美しかいなかった。
違う、ぼくは相沢翔だ、と言い返そうとするたびに、喉が硬く締まる。
言えば言うほど、狂人に見られるのは目に見えている。
ぼくは笑って誤魔化し、書類を机に伏せた。
昼休み、屋上で久美が待っていた。
紙パックのアイスコーヒーを手に、風に髪を揺らしながら。
「翔。ねえ、昨日のこと、進展あった?」
彼女は、当然のように「翔」と呼んでくれる。
その音が、まだ世界に残っていることに救われた。
「行政から調査が来た。存在を証明するために、交友関係まで出せって」
「交友関係……」
「位置情報まで。俺が本当に“ここにいる”かどうか、確かめたいらしい」
久美は顔をしかめ、口を引き結んだ。
「それ、制度の目的から外れてるよね。便利にするためじゃなくて……消すための仕組みに見える」
「消す?」
「だって、存在が確認できなければ“いなかったこと”になるんでしょ。システムに“存在しない”って判定されたら、現実もそう上書きされる」
彼女の言葉に、背筋が冷えた。
昨日の窓口で聞いた「存在の整合性指標」。
あれは都市伝説でも誇張でもなく、実際に運用されているのだ。
「もし本当にそうなら……俺は消されかけてる」
そう口にすると、風の音さえ止んだように感じた。
その日の午後、ぼくはクライアント先への営業に同行した。
受付でカードをかざすと、端末が音を立てた。
「失礼ですが……こちら、佐藤亮様でよろしいですか?」
社員証と顔は一致している。だが、名前だけが違う。
同行した上司が「はい、佐藤です」とあっさり答え、先へ進んでしまった。
否定する間もなく、ぼくは「佐藤」として客先に通された。
会議の席でも「佐藤さん」と呼ばれ、名刺の名前もいつの間にか佐藤になっている。
驚いて財布を確認すると、そこに入っている名刺の束すべてが「佐藤亮」の印字にすり替わっていた。
指先が震えた。
名刺を交換するたびに、ぼくはまた少し、「佐藤亮」として世界に刻まれていく。
翔としての痕跡が、静かに削られていく。
夜、久美と連絡を取り、駅前の喫茶店で落ち合った。
「ここ、昔からあるから安心できるんだ」
木の香りが残る小さな店で、彼女はカフェラテを注文した。
「今日、俺……客先でも“佐藤”として扱われた」
「もう、完全に書き換えられてるんだね」
「久美以外、誰も翔って呼んでくれない」
ぼくは自嘲気味に笑った。
しかし、久美は真剣な顔で言った。
「私がいる。だから大丈夫」
その言葉に、一瞬息が詰まる。
彼女の目は真剣で、まっすぐだった。
「でも……なぜ久美だけが覚えてる?」
ぼくの問いに、彼女は少し沈黙してから口を開いた。
「わからない。でも……私の父が、昔“システム監査”の仕事をしてたの。マイナンバーの導入期に。子供だったから詳しくは知らないけど、父がよく言ってた。“人を番号で縛る仕組みは、必ずほころびを生む”って」
「ほころび?」
「たぶん私がその“ほころび”に引っかかってる。だから、翔の名前をまだ覚えていられるんだと思う」
久美の声は震えていなかった。むしろ落ち着いていて、彼女自身がこの不気味な世界の「異物」であることを受け止めているように見えた。
その時、喫茶店のテレビからニュースが流れた。
「政府は来年度から、マイナンバー制度をさらに拡張し、全国民の行動履歴を点数化する方針を正式に発表しました――」
背筋に冷たい電流が走った。
久美はテレビを見上げ、苦笑する。
「やっぱり来たね。“整合性指標”。正式化されたんだ」
アナウンサーは続ける。
「政府関係者によれば、これは“国民の信用性を数値化することで、安全で効率的な社会を実現する”ための制度であり――」
店内の客たちは、それを当たり前のニュースのように聞き流していた。
「翔」
久美が小さく呼んだ。
その音は、確かにぼくをこの世界に繋ぎ止めていた。
だけど、どれだけ久美が覚えていても――システムに「存在しない」と記録されたら、翔という人間は完全に消える。
そして、残るのは「佐藤亮」という名前だけ。




