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エピソード①

 名前は、音だ。


 意味よりも先に、喉の奥で生まれる震えが、その人間を世界につないでいる。


 だから、受付の女性が「相沢翔さん」と言ってから、小さく眉根を寄せ、


「……ですが記録では“佐藤亮”と出ていますね」


 と続けた。


 そのわずかな間に、ぼくの世界は舌の上で少しだけズレた。




 月曜の夕方、内科の待合室。消毒の匂いと、季節外れの雨に濡れた傘の滴が床に点を打っている。壁掛けの液晶には健康情報のスライドが流れ、最後に必ず宣伝が差し込まれる――「マイナンバーカードで受診がスムーズに」。


 言われた通り、受診券の代わりにカードを差し込めば、あとは端末が勝手に照合して、過去の投薬履歴まで引っ張り出してくる。便利だ、と一度は思った。けれど、この日、端末のガラス面に現れたのは知らない名前だった。




「まちがいじゃないでしょうか」


 ぼくは笑って、声をやわらかくした。


「どこにでもあるバグですよ。ほら、顔写真もぼくでしょ」




 受付の女性は、申し訳なさそうに会釈してから、サブの端末で何度か更新操作をした。隣の席の年配の男性が、退屈しのぎにこちらの様子をこっそり盗み見しているのが視界の端で揺れる。


「確認いたしますね。……番号、こちらで間違いないですか?」


「ええ」


「生年月日も一致しています。が、氏名のレコードだけ“佐藤亮”です。失礼ですが、お心当たりは?」




 あるはずがない。ぼくは相沢翔で、勤続三年の営業職で、今朝は会議室の冷房が効きすぎていた、とぼやいていた。そういう人間だ。


 それでも診察は受けられた。カードの名義が誰であれ、本人の顔と一致すること、保険者番号が有効であること、未払いがないこと――運用マニュアルがそう指示しているのだろう。医師は咳の具合を気にして、喉にライトを当て、「疲れです」とにこりと笑った。




 帰り際、受付で処方箋を受け取ると、薄い紙の端に小さく「佐藤亮」と印字されていた。白い余白が余計に冷たく見えた。


 雨脚は細く、それでも歩道を斜めに撫でていた。信号待ちで立ち止まりながら、ぼくはスマートフォンに手を伸ばし、カード連携のアプリを開いた。そこにも“佐藤亮”。画面を閉じると、世界の音が少し遠くなる。自分が半歩遅れて、街に追いすがっているみたいな感覚だ。




 翌朝、会社のゲートをくぐる。非接触のリーダーに社員証をタッチする。


 ピ、と軽い音。入館ログが画面に流れて、そこにまた、知らない名前が浮かんだ。




 佐藤亮。




 ぼくの写真、ぼくの社員番号、ぼくの所属部署。なのに、名前だけが別の人間に差し替えられている。


 ほんの一週間前まで、こんなことは起きなかった。ここのセキュリティは厳格で、ぼくたちは入るたびに自分の名前を確認しては、当たり前のようにくぐり抜けてきた。


「新しい表示に切り替えたんだって」


 後ろから声がした。


「今朝から。クラウド一元管理。顔認証も紐づいたから、カードの磁気が死んでても入れるってさ」




 振り向くと、久美が傘を畳んでいた。肩までの髪に水滴が残って、光を弾いている。


「おはよう」


「……おはよう、久美」


 声に力を込めようとして、うまくいかない。彼女はぼくの顔を覗き込み、瞬きをひとつ、ゆっくりとした。


「どうしたの。顔色、悪い」


「名前がさ」


「名前?」


「ああ。あの表示、ぼくじゃない人の名前になってた」


 彼女はゲートの先のスクリーンをちらりと見て、首をかしげた。


「いや、翔で出てたよ」


「え」


「“相沢翔”って、ちゃんと」


 ぼくは振り返る。スクリーンは、もう次の人間のログに切り替わっている。そこには誰か別の社員の名前。同じように正しく、なんの異変もない顔をして、無表情な白が広がっていた。


「見間違いじゃないの?」


 彼女は悪気なく笑って、エレベーターに乗り込む前、背中越しに手を振った。


 見間違い。そういうことに、できるのなら。




 午前中は会議が続いた。進捗報告、クライアントの反応、KPIのグラフ。誰もが無難に、騒ぎを起こさないように、均整の取れた言葉だけを置いていく。ぼくもそれに倣って、紙の上をなぞるみたいに、予定されていた発言を口にした。


 発表者一覧に載っていたのは“佐藤亮”。司会者はぼくの方を向いて「佐藤さん、お願いします」と言い、ぼくは立ち上がった。


 席に戻ると、チームのチャットに通知がひとつ。「今日の議事録、ここに置きます」。リンクを開くと、そこにも“佐藤亮”。


 画面の文字と、ぼくの喉の奥の震えが合わない。名前が擦れて、紙やすりみたいな音が胸の裏側で鳴り始める。昼休み、屋上の喫煙所に出る。ぼくはタバコを吸わない。けれど、風の匂いを確かめたかった。


 雨は上がって、街は洗い立てのように、少しだけ澄んでいた。




「翔」


 背中に、久美の声。名前を呼ばれた瞬間、音が元の位置に戻る。


「さっきの、やっぱり変」


「だろう」


「議事録、直しておいた。“相沢翔”に」


 彼女はスマホを掲げる。そこには、編集済みのファイルが写っていた。


「ありがとう」


「いいの。……ねえ、痛いところはない?」


「痛い?」


「頭とか。めまいとか。自分の名前が違うって、わかってるのに、世界が平気な顔して進むのって、結構こたえるから」


 言いながら、彼女は紙コップのカフェラテを差し出す。手渡しの温度で、こわばった筋が少し溶けた。


「昨日、病院でさ」


「うん」


「カードを保険証にしたんだ。はじめて。受付で“佐藤亮”って出た」


「病院の端末でも?」


「そう」


 久美は考え込んで、遠くのビルの稜線に視線を滑らせた。


「マイナンバー基盤のロールアウト、先週、大規模更新があったってニュースで見た」


「うちも朝からクラウドがどうとか言ってた」


「だからかもね。繋がってるんだよ、全部。保険も、給与も、入館も。少しのズレが広がると、どこにでも顔を出す」


「少し、なのかな」


「まだ、少し。……きっと」


 言い切らない優しさは、雨上がりの空気によく似ていた。ぼくはコップの口に唇をつけ、温度に救われる振りをした。




 仕事を終えて、帰りのホームで電車を待つ。広告のサイネージが、政府広報の動画に切り替わる。「デジタルで、暮らしは軽くなる」。笑顔の家族が、カード一枚で医療も行政手続きも済ませていく。小さく字幕が流れる。「マイナンバーカードの利用にご協力ください」。


 電車が来て、ぼくは乗り込む。座席の端、ブラックのスーツに体を沈める。身体は、疲れた。名前が合わない一日を生きるのは、想像以上に重い。


 家に着くと、郵便受けに投函物が一通。封筒の宛名は、知らない筆跡で、知らない名前で。


 佐藤亮 様。


 差出人はカード会社。新しい利用明細と、サービスのアップデートの案内だという。封を切る。利用明細の内訳は、ぼくの生活そのもので、ぼくの買い物と、ぼくの通勤と、ぼくの交際費が線で結ばれている。そこに“相沢翔”はどこにもいなかった。




 夜、机にカードを置き、じっと見る。表面には、ぼくの顔。薄く笑っているようにも、疲れているようにも見える顔。裏面のICと磁気が、静かな金属の光を返す。


 行政ポータルにログインして、氏名の表示を確認する。やはり“佐藤亮”。問合せフォームに症状を書き込む。履歴、添付、問い合わせ番号。自動返信がすぐに返ってきて、受付番号が与えられる。「順次対応いたします」


 順番は、いつか。情報の海は広すぎて、ぼく一人の波紋など、砂の上の雨粒みたいに消えるのだろう。




 シャワーを浴びて、ベッドに身を投げる。天井を見ていると、名前が音から離れていく。相沢翔、という音が、誰か別の人間の呼び名みたいになる。


 もし、世界中の端末で“佐藤亮”が正しいと表示され続けたなら、どちらが真実になるのだろう。人は、どこまで名前に支配されているのだろう。


 眠りは浅く、夜の底は長かった。




 翌日は、最初から“佐藤”で始まった。人事からの一斉メール。「給与明細の電子交付について」。宛名に“佐藤亮”。差し込みの不具合、と思いかけて、差出人の署名欄を二度見する。個別宛に生成された宛名だった。


 総務の席に行く。係の男性は、ルーチンに追われて顔色が紙色で、けれど応対は丁寧だった。


「氏名ですか。システム上では“佐藤亮”で登録されていますね」


「相沢翔のはずですが」


「こちらにそのレコードはありません。いつからですか?」


「昨日」


「昨日?」


 男は鼻から短く息を抜いて、モニタを切り替える。


「カード連携の一元化で、氏名は基本的にカード側のレコードが親になります。住民票、健康保険、金融。優先順位があります。会社で上書きできる項目は限られていまして」


「直せない?」


「正確には“会社からは”直せません。住基の側が“相沢”なら、同期で戻るはずなんですが」


 ぼくは昨日の病院のことを話した。男は「なるほど」と言い、さらに別の画面を開く。


「まず市の窓口に問い合わせるのが良いと思います。こちらからも異常報告は上げておきますが、最終的には基盤側の修正になりますので」


 言葉はやさしいが、実際にぼくを救うものではない。


「ありがとうございます」


 頭を下げると、男は「いえ」と短く答え、次のフォームに指を走らせた。


 ぼくは席に戻る。自分の席だ。椅子の背にも、机の引き出しにも、ちゃんとぼくの指の跡がある。けれど、名前だけが違う。名札を見下ろして、胸の内側で何かが剝がれ落ちた。




 昼、久美がぼくの机に寄ってきた。


「午後、外回り、一緒でいい?」


「ああ」


「よかった。二人の方が、言い合える」


 彼女は小声で付け足した。「何か、あったら支えるから」


 ありがとう、と言った。その言葉がうまく届いたのかどうか、ぼくには確信が持てなかった。感謝も、名前と同じで、どこかの端末に正しく記録されないと、世界には反映されないのではないか――そんな馬鹿げた考えが、頭のどこかに棲みつき始めていた。




 午後、クライアント先の受付。来訪者記録票はタブレットになっていて、身分証をかざすと自動で入力される。


「さとう……りょう、様ですね」


 受付の女性が微笑む。


 ぼくは「はい」と言ってしまいそうになった。名前は合言葉だ。通行のための呪文。正しい音を発しなければ、門は開かない。


 代わりに、久美が一歩前に出た。


「相沢です」


「え」


「この人は相沢翔。システムの表示に不具合があって」


 女性は一瞬、面倒そうに眉を動かしたが、すぐに「承知しました」と言ってゲストカードを二枚、プリンタから取り出した。片方には“佐藤”。片方には“久美”の名字。


 ぼくは受け取り、喉の奥が乾くのを自覚した。こういう現場の柔らかさは、まだ救いだ。けれど、この柔らかさは長く持たない。仕組みはすべてを硬くする方へ、進む。効率のために、均一のために。




 打合せは滞りなく終わった。帰りのエレベーターで、久美がぽつりと言った。


「ニュース、見た?」


「どれ」


「“欠格者記録の精査”。政府が発表したの。犯罪歴とかじゃなくて、もっと広い。税滞納、偽名使用履歴、健康保険の不正利用の疑い、ネット炎上歴……そういうのを横断で点数化して、与信とか採用とかの参考に、って」


「炎上歴?」


「“公共の秩序に反した常習性の指標”だって。表現は曖昧」


 彼女はスマホで記事を見せた。見出しは穏やかで、写真の政治家は柔らかく微笑んでいた。


「それ、もうやってるのか」


「“試験運用済み”って書いてある」


 エレベーターの扉が開く。ロビーのガラス越しに、夕方の光が薄く満ちる。


「怖い?」と彼女が聞く。


 ぼくは少し考えて、首を振った。


「怖さって、音があるだろ。背後の足音とか、深夜の冷蔵庫とか。いま感じてるのは、音がない方だ。静かに、名前が別の音に差し替わっていく。誰も気づかない速度で」


 彼女は、うん、と小さく頷いた。




 夜、行政のコールセンターに電話をかけてみる。オペレータは落ち着いていて、台本どおりに優しく、しかし何も約束しない。


「氏名の齟齬につきましては、基準レコードに照らして解消されます。通常は数日以内に同期が完了いたします」


「数日」


「はい。ただ、個別の進捗状況につきましては……」


 わかっている、と言いかけて、口を閉じる。


「こちらでも監視はいたします。状況に変化がありましたら、ポータルに通知が出ます」


「ありがとうございました」


 通話を切る。スマホの黒い画面に、ぼくの顔が映る。そこには“相沢翔”の顔がある。音がなくても、顔はまだ、ぼくだ。




 寝る前、机に広げた封筒の山を整える。行政からの通知、カード会社からの明細、電力会社からの検針票。いくつかは“相沢”。いくつかは“佐藤”。


 国は言った。デジタルで暮らしは軽くなる、と。


 けれどいま、ぼくのポケットには、重みが増している。カード一枚の重みだ。どこにでも通じる鍵は、同時に、どこにでも響く鈴でもある。鳴った音に従って、門が開き、記録が書かれる。




 ベッドに横たわる。暗闇に目が慣れるまでの間、名前を心の中で繰り返す。


 相沢翔。


 誰かの声で、もう一度。


 ――相沢、翔。


 舌の位置が、少しだけ、わからなくなる。




 夢の中で、透明な役所の窓口に立っていた。受け付けの奥は霧で、誰もいない。呼び出し番号の電光掲示だけが、規則正しく数字を刻んでいる。三桁めが点滅するたび、息が詰まる。


 番号が呼ばれる。ぼくは窓口に進む。誰もいない。端末にカードを置く。画面が光る。


 そこに表示された名前は、白紙だった。


 あ、と思う。音がない。呼ぶ声がない。名を持たない人間は、宙に浮いた声だけになって、霧に吸い込まれていく。


 目が覚める。喉は乾いて、夜はまだ終わっていない。




 朝。会社に行く前、自宅のポストをもう一度覗く。新しい封筒が挟まっていた。差出人は市役所。薄い紙が冷たい。


 開封すると、中には小さなカードと、案内の紙。


 「マイナンバーカード更新のお知らせ」


 カードの裏面に、交換用のICシール。説明には、簡単な言葉でこう書いてある――“制度改正に伴い、より安全で便利な次期カードへ順次更新します”。


 ぼくは息を止める。安全で、便利。いつだって、その二語で世界は少しずつ、静かに形を変える。




 通勤の途中、駅前で演説をしている候補者がいた。拡声器の声は、朝の喧騒の中で、不器用に跳ね返る。


「行政のデジタル化をさらに推し進め、無駄をなくします!」


 拍手が起きる。何人かは腕を組んだまま、無関心の拍手をする。ぼくは立ち止まらない。踏切の警報が鳴り、音は一段高くなる。名前を呼ぶ声は、そこにはない。




 会社のエントランスに着くと、スクリーンの右下に小さく「お知らせ」が点滅していた。通知の一覧に、ぼく宛のメッセージ。


【システム監査部より】


 本文は簡潔だった。「◯月◯日以降、当社の従業員名簿は政府基盤との自動同期を完全適用します。個別の上書きは行いません」。


 ぼくはスクリーンのガラスに映る自分を見た。そこにいるのは、ちゃんとした顔をした、仕事に向かう人間だ。名札の文字だけが、違っている。


 久美が横に来て、同じ通知を開いた。


「完全適用だって」


「うん」


 彼女はしばらく黙ってから、まっすぐにこちらを見る。


「翔。昼、抜けられる?」


「どうして」


「市役所、行こう。わたしも一緒に」


 ぼくは頷いた。彼女の目の色は、雨の後の空みたいに、少しだけ澄んでいた。音のない怖さの中で、名前を呼んでくれる声が、ここにある。




 午前の仕事は、頭の半分で流し見をするように過ぎた。ぼくは必要なメールにだけ返事をし、必要なタスクにだけ印を付けた。


 昼が来て、ぼくたちは駅へ向かった。電車は混んでいて、つり革の列は白い骨のように揺れる。窓の外に、都市の層が流れる。


 市役所のロビーは、広くて、静かで、待っている人たちの沈黙が薄い膜になって漂っている。番号札を取り、呼び出しを待つ間、掲示板の「お知らせ」に目をやる。


 “カードの健康保険証利用について”“オンライン申請のメリット”“マイナンバーの安全性”。


 安全、という言葉は、何度も使われると意味をなくす。磨かれすぎた硬貨みたいに、模様が消える。


 電光掲示がぼくたちの番号を示す。窓口に進む。若い職員が丁寧に挨拶をし、事情を聞き、端末を操作する。


「基盤上のお名前が“佐藤亮”になっております」


「ぼくは、相沢翔です」


「承知しました。記録の履歴を確認しますね。……」


 職員は少し眉を寄せた。「不思議ですね。履歴の層が重なっていて、直近の上書きが“氏名属性のみ”に限定されている」


「限定?」


「住所や生年月日、番号はそのまま。ですが、氏名だけが、ほかの属性から浮いている。通常はありえませんが……」


 彼は一度、席を立って奥へ下がる。ほどなくして戻り、「担当に引き継ぎます」と別の窓口に案内した。


 次の職員は、落ち着いた年配の女性だった。


「大丈夫です。こういう事例、ゼロではありませんから」


 ゼロではない。つまり、ある。


「どうして、氏名だけが」


「理屈の話をすれば、連携の順序と優先度の問題です。カードは万能に見えて、実は参照順位の塊でしてね。住基が親で、その次に保険、その次に……。ただ、最近は“逆参照”が増えました。入口が多いのです。金融から入ってきて住基に響くこともあれば、医療から触って教育に波及することもある」


「戻せますか」


「戻せます。戻した実績もあります」


 女性は微笑んだ。「ただし、時間がかかります。証憑の収集と、照合と、承認ルート。あなたが“あなたである”ことを、いくつかの観点から、丁寧に証明していきます」


 丁寧に。


 ぼくは頷いた。久美が横で、小さく息を吐く。


「最後にひとつ。……もし、知っていたら教えてください」


 女性は声を落として続ける。「最近、“存在の整合性指標”というものが、静かに導入されつつあります。表の言い方ではありません。内々の、実務の用語です」


「整合性」


「ええ。あなたという人間が、あなたとして一貫しているか。居住、納税、医療、消費、交友、発言。点と点を線にして、その線が“社会にとって望ましい方向”に伸びているか、という評価です」


 喉の奥が、からからに乾く。


「ぼくは、望ましくない?」


「いいえ。わかりません。ただ、指標は、時々まちがえます。点の結び方ひとつで、別の絵ができる。あなたは花を描いたつもりでも、誰かがそれを刃物の図に見立てることがある」


 女性は、端末に操作を加え、印刷された書類をホチキスで止め、ぼくに手渡した。「まずはこれを。“あなたがあなたであること”を、こちらでも裏取りします」


 紙は軽いのに、手には重かった。


 窓口を離れると、久美が横で「ね」と言った。


「戻るよ」


「うん」


「時間がかかっても」


「うん」


 名前を呼ぶ声が、隣にある限り。ぼくはそれだけで、立っていられる気がした。


 ガラスの自動ドアが外気を招き入れる。街の音が戻ってくる。ぼくは紙袋に書類をしまい、カードを胸ポケットに戻す。


 カードは薄い。なのに、世界に穴を開けられるほど尖っている。




 その夜、通知がひとつ来た。行政ポータルから。件名はこうだ――


 「記録整合性の確認に関するご連絡」


 本文は、丁寧で、慎重で、曖昧だった。調査に協力してほしい。過去一年の出入国、医療受診、金融取引、SNS認証履歴の提出をお願いしたい。


 SNS――


 ぼくは思わず笑ってしまい、それから笑えないと気づいた。ぼくの言葉は、ぼくの属性の一部だったのだ。


 画面を閉じる。窓を開ける。夜風は、やわらかく、音がない。


 暗闇に、名を呼ぶ声がひとつだけあればいい。


 たとえ、世界の全端末がべつの文字列を正しいと表示しても。

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