04:ありがとう
「ち、ちょっと待って……!」
苦しそうな環の声に、ようやく光希が足を止める。
一之瀬の身体がバーを越えた直後、あの場から逃げるようにして三人は走り出して、今に至る。
ようやく立ち止まった所で、それまで走り続けていた環は両膝に両手を付けるようにして肩で息をする。
「いきなり、走り出す、から……!」
『す、すまん』
「大丈夫だよ。ちょっと驚いただけだから」
「気を付けてよー、意識も身体も奪わないって約束で協力してくれてるんだからさ」
走り出したあの一瞬だけ、環の身体は伊藤に引きずられるようにして走りだしていた。
思わず声を出したのは、跳んで欲しいと願う環と伊藤の心がシンクロしたからだろう。
だが、走り出した時はおそらく伊藤が無意識に環の身体を引っ張った。
伊藤が謝ったのは、走り出したこともだが、身体の自由を一瞬でも奪ってしまったことにあるだろう。
『そうだな』
「学校に戻ろうか?」
「直接話すことはさすがに許可できないけど、タマちゃんが良いっていう範囲で言葉を伝えることはできるよ」
「そうか。……いや、もういいんだ」
「いいって、あの子と話したいから俺を振り切ってここまできたのに、話さないってこと?」
黙って頷く伊藤に環が声をかける。
「本当にいいの?」
『最後にまた見れたんだ。スッとした。月城』
最後に名前を呼ばれた、そのニュアンスに光希も気付いたのか、最後に念を押した。
「タマちゃんを通してアドバイス、なんてこともできるんだよ?」
『ああ。もう十分だ』
元々、一之瀬には恵まれた体格や高跳びのセンスには目を瞠るものがあった。
だが、始めたばかりだからか、目標がなく、勝利に対する飢えもなかった。
そこを刺激するように伊藤がちょっかいを出したりしていたのだが、伊藤との約束とも言えないやりとりを胸に、あれだけひたむきに練習と向き合うことができるのなら。
この先高い所まで目標を持った時にも、苦しいトレーニングにも耐えることもできるだろう。一之瀬はきっといい選手になる。
それを近くで見れないことは残念だが、ここにやってきた時のような焦燥感は綺麗に消えている。
だからもう十分だと思えた。
伊藤の顔は見えない。だが、聞こえる声音はこれまでの者とは違う、真面目なものだった。
その声に光希は伊藤がこれ以上逃げることはないと感じる。
「わかった。……イトウ、カズマ」
光希がゆっくりと伊藤のフルネームを呼びながら環に向かって両手を伸ばすと、伊藤の魂は環の身体からゆっくりと離れて抵抗することなくすっぽりと、その両手の中に納まった。
「予想はしていたけどね」
手の中にある、深みのある赤い色をした伊藤の魂は少しだけいびつだった。
魂の色は本人の性質を表す色。
赤い魂は情熱的な人が多いと言われている。伊藤もそうなのかもしれない。
深みがあるのは思慮深いのか不器用なのか、その情熱が表には現れにくい性格なのかもしれない。
「綺麗な色だね。これが伊藤君の魂?」
「うん。俺の見立てではものの見事に青春を部活につぎ込んだ人物らしいけどね」
『見立ても何も、そんなの今までの短い時間でも見てればわかるだろ?』
「ほー? なら普段は物静かな割に、自分が情熱を傾けるものの為には積極的で思いもかけない行動力を発揮するって言って欲しいのかなー?」
深い赤は思慮深さがあるように見えるが、それは一皮剥けば、何かがあれば突飛な行動に出るとも取れる。
正に今、伊藤が光希にしているように。
『やめてくれ』
恥ずかしいのか、それとも図星を指されたのか。伊藤の魂はブルブルと左右に震えている。
「だから隠して言ったのに。でも、まだ少し未練があるみたいだけど、これくらいなら魂の形は綺麗だね」
魂の形はこの世への未練を表している。
綺麗な球体であればある程、この世への未練のない魂となっている。伊藤はまだこの世への未練が残っているのだろう。所々が尖っていた。
「未練がない魂ってあるの?」
「あるよ。と、言ってもどんなに大往生って言われる人でもほんの僅かに棘があったりもする。全く未練のない魂は完全な球体になるって言われているけれど、俺はまだ見た事はないよ」
「未練がない人……きっとその人は幸せな生き方をした人なんだろうね」
「……そうだね」
あとは死に対して無頓着か。
口には出さなかったが、どちらかしかないと光希は思っていた。
「挨拶はこれくらいにして。それじゃ、送るよ」
『ありがとな』
「うん。ばいばい」
それぞれが別れの言葉を口にする。
また、が無い事をわかっていた。
だから次に繋がる言葉を誰も口にはしなかった。
光希が両手で伊藤の魂を包み込むようにすると、魂はスゥッと天高くへと登り、見えなくなった。
もういなくなったはずなのに、最後にもう一度ありがとう、という伊藤の声が聞こえたような気がした。
「……無事に行けたみたい」
「そっか。良かった」
ほっとしたように笑う環に光希は向き直った。
「一応言っておかないといけないんだけど」
困ったような表情を浮かべながら言いにくそうにしている光希にわかっていると環は頷いた。
「誰にも言わないよ。言っても信じてもらえる話じゃないから」
「ごめん」
「謝らないでよー。なんでか知らないけど、たまたま私に見えちゃったってことなんでしょう?」
「うん。まあ原因は十中八九、伊藤ちゃんが原因だと思うけどね」
やっと今日の仕事が終わったと短く息をつく光希を環は見た。
その目には少しだけ寂しそうなものが混じっていて、別れの時を感じる。
「行っちゃうの?」
「うん。こうして最後に見届けるまでが俺の仕事。こうしないと迷子になったりする人が出てくるから」
「そっか。残念」
「本当にね。これが同じ人間だったら連絡先とか交換してたんだけどね」
「そうだね」
「タマちゃんてばバッチリ俺の好みだし」
「なーんか言い慣れてるって感じ」
そう言いながらも環からは嫌悪感のようなものは感じられなかった。
「ごめんね、色々と付き合わせちゃって」
「気にしなくていいってば。こんな体験は滅多にできないから、むしろラッキーだよ」
普通ならもっと違う反応をするだろうに、カラリと話す環に光希は柔らかく目を細めた。
「俺、タマちゃんのそういう所好きだよ」
「ありがと」
なんとなく別れがたさがあって、会話を引きのばしていたが、この出会いはここで終わらせなくてはいけない。
二人ともわかっていた。
「心底残念だけど、俺も戻らないと」
「うん。気をつけてっていうのは、おかしいのかな。元気でね」
「タマちゃんもね。バイバイ」
そう言って伊藤と同じように空高くへと登って行く光希の姿を環は見送った。
「また、があれば良かったのにな」
互いの姿が見えなくなった所で、同時にポツリと、そうこぼしながら。




