第九話 アクションアイテムと連絡先
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朝のランニングが、習慣になっていた。
タイムリープから三週間。
毎朝5時半に起きて、川沿いを30分走る。
最初は重かった足が、今は勝手に動く。
(これが若さか。)
(継続すれば体がついてくる速度が、38歳のときと全然違う。)
走りながら、やり直し計画の進捗を頭の中で確認した。
部屋のミニマル化:完了。コンタクト・髪型:完了。毎朝ランニング:継続中。生徒会役員:当選。
(順調だ。)
(順調すぎて、逆に怖い。)
川の水面が朝日で光っていた。
2005年の秋の朝は、空気が違う。
(こんな朝を22年間、見ていなかった。)
(なんで見ていなかったんだろう。)
走りながら、それだけが少し惜しかった。
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昼休み。
廊下の端を、キョン・ミナミ・サナ・リサの四人が歩いていた。
そこへ、二つ隣のクラスの男子が通りすぎながら言った。
「あ、ミニモニだ」
ミナミが即座に振り返った。
「もうその呼び方やめてよ!!!」
「やめてって言いながら反応するじゃん」
「反応したくて反応してるわけじゃないの!!!」
サナが腕を組んで男子を見た。
「いや待って。あのユニットと一緒にしないで。失礼にもほどがある」
「低いのは一緒じゃん」
「見た目だけで判断するな」
リサがお茶を飲みながら、静かに言った。
「低いのは事実だから」
三人が止まった。
「リサ、それ同意してどうするの」とサナが言った。
「事実だもん」
「そういう問題じゃない」
「そうかな」
(リサは事実を受け入れる方向で処理した。それはそれで一つの正解だ。)
キョンだけが、最初から最後まで無言でその場を通り過ぎていた。
一番気にしてないように見えて、一番静かだった。
(ミニモニ……。)
(2005年には、まだギリギリ現役の呼び名だ。38歳の記憶がリアルタイムで役に立った瞬間だった。)
(役に立ったとは言えないが。)
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放課後、生徒会室に初めて入った。
六人掛けのテーブルに、新旧メンバーが座っていた。
3年生の会長が水野先輩で、副会長と書記と会計と、俺を含む新役員が二名。
「じゃあ、新メンバーも来たし始めましょう」と水野先輩が言った。
「今日は引き継ぎと、今後の活動方針の確認です。えっと——」
ノートを開いた。
何かを探している。
「あれ、前回のメモどこいったっけ」
副会長の女子が「私のプリントに書いてあります」と言って鞄を探し始めた。
会計の男子が「俺、なんか聞いた気がするんだけど忘れた」と言った。
(……。)
(メモがない。議題が決まっていない。前回の決定事項が共有されていない。)
(これが高校の生徒会か。)
(これが、俺の22年間が「非効率」と判定する運営実態か。)
俺は静かにノートを開いた。
ペンを持った。
「議題、整理しましょうか」と言った。
全員が俺を見た。
「えっと、今日確認したいことを出してもらえると、順番に話せると思うので」
水野先輩が少し考えた。
「あ、そうですね。じゃあ、まず引き継ぎ事項。次に12月の行事確認。それから——」
「書きます」と俺は言った。
ノートに書いた。
①引き継ぎ事項 ②12月行事確認 ③新役員の担当割り
「こんな感じでいいですか」
「……はい」
「じゃあ①から」
会議が動き始めた。
(すごい。議題を書いただけで会議が動いた。)
(これが「アジェンダ設定」の力だ。38歳の仕事で当たり前だったことが、ここでは革新扱いになる。)
(落ち着けアラフォー。高校生の生徒会に「アジェンダ設定」という言葉を使うな。)
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引き継ぎが一通り終わったところで、水野先輩が「新しく何かやりたいことある人いますか」と言った。
俺は手を挙げた。
「匿名の意見箱を作りたいです」
「意見箱?」
「紙を入れるやつです。誰でも、名前を書かずに学校への意見や要望を出せる。生徒会で定期的に開けて、できることは対応する」
「それ、前もなかったっけ」と副会長の女子が言った。
「形だけありましたよね」と水野先輩が言った。「でも誰も使わなくて、いつの間にかなくなって」
「箱があるだけじゃ使われない理由があると思って。どこに置くか、どのくらいの頻度で開けるか、結果をどう公開するかを決めないと」
水野先輩が「なるほど」と言った。
「柳くん、それ担当できますか」
「できます」
「じゃあ、企画書みたいなの、作れそうですか。次回までに」
(企画書。)
(38歳のSEに企画書を頼む。高校の生徒会が。)
(こちとら何十枚書いたと思ってるんだ。明日の朝には終わってる。)
「わかりました」と俺は言った。
「ありがとうございます」
会議の終わりに、水野先輩が言った。
「柳くん、生徒会前に何かやってた? 委員とか」
「いえ、初めてです」
水野先輩が俺を見た。
「……なんか、すごいですね」
(落ち着けアラフォー。22年のキャリアを評価されて嬉しがるな。相手は高校3年生だ。)
でもちょっと嬉しかった。
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生徒会室を出たのが5時すぎだった。
急ぎ足で昇降口まで行って、外に出たところでキョンとぶつかりそうになった。
ぶつかる寸前で止まった。
「あ」
「あ」
二人同時に言った。
「帰り?」とキョンが言った。
「今終わった。生徒会」
「そうか」
並んで歩き始めた。
自然に、そうなった。
「意見箱を作ることにした」と俺は言った。
「意見箱?」
「学校への意見を匿名で出せる箱。演説で言ってた「話しやすい場所」の、一番小さいやつ」
キョンがしばらく黙った。
「紙に書いて入れるだけ?」
「そう。名前は書かなくていい」
「読むのは生徒会だけ?」
「開けるのは月一で、結果は生徒会だよりに載せる。でも内容は公開しない」
「書いたことが他の人にバレない、ってこと?」
「そう」
キョンがまた黙った。
何かを考えている顔だった。
「……それ、いいと思う」とキョンが言った。
「そう?」
「言えないことって、言えないから溜まる。でも形にしたら少し軽くなることある」
(服を作ることについて言っているのか、意見箱について言っているのか。)
(たぶん、両方だ。)
「そう思って提案した」と俺は言った。
駅の改札が見えてきた。
電車を待つあいだ、二人並んでホームにいた。
「次、電車何分?」とキョンが聞いた。
「3分後」
「私も同じだ」
「知ってた」
「え、知ってたの?」
(うっかり言った。)
(また言った。38歳の記憶から情報が漏れた。)
「この時間だとだいたい同じ電車なんじゃないかと思って」とごまかした。
「……まあ、そうか」
キョンが納得したかどうかはわからなかった。
でも追及しなかった。
電車が来た。
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車内で、キョンが先に口を開いた。
「意見箱、どこに置くの」
「昇降口の近くを考えてる。でも目立ちすぎてもプレッシャーになるから、少し目立たない場所がいい」
「図書室の前はどう。行き来する人は多いけど、わざわざ立ち止まれる」
「それいいな」
「入れるときに誰かに見られるのが嫌な人もいるから、少し奥の方に置くといい。棚の陰とか」
(棚の陰。)
(これは経験則からの発想だ。キョン自身が「誰かに見られたくない」と感じたことがある人間の提案だ。)
「……詳しいな」
「考えたことがある、ってだけ」
キョンが窓の外を見た。
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
(お前が感じている「わからない」には、ちゃんと名前がある。ただ、この時代にはまだその言葉が存在しない。20年後、お前はちゃんと自分の言葉を見つける。今は待つだけだ。)
電車が減速し始めた。
キョンが立ち上がった。
降りる準備をしながら、ちょっと迷うような間があった。
「連絡先、教えて」
止まった。
(……え。)
「意見箱の話、続き聞くかもしれないから」
「わかった」
ガラケーを出した。
メールアドレスを交換した。
2005年のガラケーの、あの小さい画面で赤外線通信をした。
ドアが開いた。
キョンが降りた。
ホームで一度だけ振り返った。
「また明日」
「また明日」
ドアが閉まった。
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電車が動き出した。
俺は座席に座ったまま、ガラケーの画面を見た。
アドレス帳に、「京」という名前が増えていた。
(……増えた。)
(連絡先が増えた。)
(「意見箱の話を続き聞くかもしれないから」という理由だ。)
(落ち着けアラフォー。これは実務的な連絡先交換だ。それ以上でもそれ以下でもない。)
落ち着けなかった。
完全に無理だった。
心の中の38歳が、座席に崩れ落ちて動けなくなっていた。
電車は走った。
俺の駅まで、あと15分。
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その夜。
意見箱の企画書をノートに書いていたら、ガラケーが鳴った。
メールだった。
差出人:京
件名:なし
「あの、匿名の箱って。書いたことは、全部読まれるの?」
俺は画面を見た。
三秒見た。
「生徒会の役員だけが開けて読む。公開はしない」と返した。
少し間があって、また来た。
「生徒会は何人いるの」
「六人」
「六人全員が読む?」
「……鍵は俺が持つ。担当は俺にする。一人で読む」
送ってから、少し止まった。
(こんな約束、会議でしていない。)
(でも、送った。)
(撤回できない。)
しばらく待った。
既読になった。
返信は来なかった。
でも、既読になった。
(それでいい。)
ノートを開いて、企画書の続きを書いた。
「設置場所:図書室前の棚の陰」
書いて、一度止まった。
また書いた。
「担当:柳龍(一人で開錠・閲覧)」
それだけを書いて、ペンを置いた。
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**つづく**
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「連絡先、教えて」をキョンから言わせるのか、リュウから言わせるのか、ずっと迷っていました。キョンから言う方が、キョンらしいと思って。「意見箱の話を続き聞くかもしれないから」という理由がつく方が、キョンっぽい。そして夜のメールのやり取り。「一人で読む」と送ってしまったリュウのことを、書きながら少し心配しました。撤回できないやつです。次回、意見箱が設置されます。




