第十話 箱の中の言葉
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意見箱を設置したのは、火曜日の放課後だった。
図書室の前の廊下。本棚の陰。キョンが言った場所と、ほぼ同じところ。
木の箱に投入口をつけて、南京錠をつけた。生徒会の備品倉庫に余っていた小さいやつだ。その鍵は俺のズボンのポケットに入っている。
手書きの紙を貼った。
「学校への意見・要望を匿名で受け付けます。名前は書かなくて大丈夫です。月一回、内容を確認して生徒会だよりに掲載します(個人が特定される内容は掲載しません)。担当:生徒会役員 柳龍」
箱を棚の陰に置いた。
目立ちすぎない。でも、ちゃんとある。
(これが「話しやすい場所を一個だけ増やす」の、第一歩だ。)
(大きくない。本当に小さい。)
(でも、ある。)
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三日後。
箱を覗いた。
空だった。
(そうだよな。)
(いきなり書く人間がいるわけがない。信頼は時間をかけて積む。)
一週間後。
また覗いた。
空だった。
(……まあ。)
(もう少し待つ。)
ユースケに「意見箱、誰か入れた?」と聞かれた。
「まだ」
「えー! じゃあ俺入れていい?!」
「どうぞ」
「何書こう。あ、購買のパンにチョコパン系を増やしてほしいってのはどう?!」
「書け」
「チョコパン系が少ない!!!」
(お前の意見は至極まっとうだ。でも今はそういう意見箱じゃないんだ。)
(でも否定はしない。書いてくれるなら、何でもいい。)
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その週の木曜日。
ガラケーにメールが来た。
差出人:京
件名:なし
「意見箱、まだ空?」
「まだ」と返した。
少し間があって、返ってきた。
「そっか」
それだけだった。
俺は、その「そっか」が妙に引っかかった。
(訊いた意味は何だ。)
(気になっているのか、それとも確認したかっただけか。)
(落ち着けアラフォー。「そっか」に意味を読みすぎるな。)
でも引っかかった。
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メールのやり取りは、その週から少し増えた。
意見箱とは関係ない話も来るようになった。
「今日の音楽の授業で変な編曲の曲がかかった。なんか違った」
「どう違った」
「音の数が多すぎて、何を聴けばいいかわからなかった」
「シンプルな方が好き?」
「そうかも。よくわからないけど」
別の日には。
「袖の縫い方を間違えた。やり直した」
「何回やり直したの」
「三回。でもやり直すたびに少しよくなった」
「三回やり直せるのはすごい」
「やり直さないと気が済まないだけ」
(このやり取りが、深夜の通話と似ている。)
(SNSのDMのときのキョンと、同じテンポだ。)
(38歳の俺が2024年の夜中に話していた相手と、2005年の高校生の俺が今話している相手が、同じ人間だという事実が、たまにじわっと来る。)
(落ち着けアラフォー。じわっと来るな。)
じわっと来た。
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設置から二週間後。
月の最初の月曜日。
放課後、図書室前の廊下に行った。
南京錠を開けた。
紙が、入っていた。
五枚。
(……入ってた。)
(入ってた。)
人気のない廊下で、一枚ずつ開いた。
一枚目。「購買のパンにチョコパン系を増やしてほしい」
(ユースケだ。絶対ユースケだ。字体がユースケだ。)
二枚目。「体育の授業、男女で分かれるのが嫌。混合でいい」
三枚目。「校内のトイレ、和式より洋式を増やしてほしい」
四枚目。「クラス替えの基準を教えてほしい。友達と離れるのが毎回怖い」
どれも、ちゃんとした意見だった。
小さいけど、本当のことが書いてあった。
(これでいい。これが意見箱だ。)
五枚目を開いた。
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他の四枚より、小さい紙だった。
ノートの切れ端みたいなやつ。
字が丁寧だった。
「みんなにとって当たり前のことが、自分にはよくわからないことがある。好きとか、嫌いとか、そういう感覚が、みんなと同じものかどうかわからない。ずっと変なんだと思ってた。でも、ここに書いたら少し楽になった。ありがとう」
俺は、その紙を持ったまま、止まった。
(……。)
「好きとか嫌いとかの感覚が、みんなと同じものかどうかわからない。」
どこかで聞いた言葉だ。
昼休みの、キョンの声が頭の中で再生された。
「みんなが言う好きって感覚が自分にもあるのかよくわからない」
「それも、なんか、よくわからなかった」
(……これは、キョンか。)
わからない。
証拠はない。
同じような悩みを抱えた人間は、この学校に他にもいるかもしれない。
(俺には確認できない。)
(確認してはいけない。)
(「一人で読む」と約束した。読んだ。それだけだ。)
五枚の紙を揃えて、自分の鞄の内ポケットに入れた。
廊下に誰かが来る気配がした。
鍵をかけて、歩き出した。
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翌日。
電車で、キョンと乗り合わせた。
最近、これが当たり前になってきている。
同じ時間に駅に着いて、同じ電車に乗る。
特に約束していないのに、そうなる。
「箱、開けた?」とキョンが聞いた。
「昨日」
「誰か入れた?」
「入れてくれた人がいた」
「何人?」
「何人か」
「どんなことが書いてあった?」
「それは言えない」
「そうか」
短い間があった。
「よかった」とキョンが言った。
「何が」
「入れてくれた人がいたこと。空のまま終わらなくて」
(……。)
(この「よかった」には、何が入ってる?)
(確認できない。)
(確認しない。)
「俺もよかったと思う」と言った。
キョンが窓の外を見た。
電車が揺れた。
二人分の沈黙が、車内に漂った。
苦じゃなかった。
ずっと、苦じゃない。
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家に帰って、生徒会だよりの原稿を書いた。
チョコパン要望、トイレ洋式化要望、クラス替え基準開示要望、体育の男女混合要望。それぞれ「検討します」「来期予算で確認します」「先生に伝えます」と書いた。
五枚目の紙については、何も書かなかった。
書けなかった、というより、書く必要がなかった。
あの紙に書いてあったのは「要望」じゃなかった。
誰かの「ここに書いたら少し楽になった」という、ただの事実だった。
それは、もう成立している。
原稿の一番下に、一行だけ書き足した。
「書いてくれた方へ。読みました。ありがとうございました」
それだけにした。
名前も、内容も、何も触れない。
でも、「読んだ」とだけ伝えたかった。
(お前が感じている「わからない」には、ちゃんと名前がある。ただ、この時代にはまだその言葉が存在しない。20年後、お前はちゃんと自分の言葉を見つける。今は待つだけだ。)
俺は待つ。
ここにいる。
ペンを置いた。
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その夜、遅くにガラケーが鳴った。
差出人:京
件名:なし
「今日縫ったやつ、うまくいった。初めて一発で決まった」
「どんなの?」
「袖。ずっとうまくいかなかったところ」
「よかったじゃないか」
「うん。なんか、急にわかった感じがした」
「それが一番気持ちいいやつだ。コードでもある」
「そうなの?」
「急にわかる瞬間が来る。何回やっても来なくて、でもある日来る」
少し間があった。
「それ待てる人じゃないとダメだ」
「何回でも待てる」と俺は返した。
また間があって。
「そっか」
それだけだった。
俺はガラケーを閉じて、天井を見た。
(「何回でも待てる」と送った。)
(それは縫い物の話か、コードの話か、それ以外の何かの話か。)
(俺自身も、よくわからなかった。)
(落ち着けアラフォー。)
(……落ち着けた。)
今日は落ち着けた。
ギリギリだったが。
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翌朝。
生徒会だよりが廊下の掲示板に貼り出された。
登校してくる生徒が何人か、立ち止まって読んでいた。
俺は少し離れたところから見ていた。
読んでいる顔を、全部は見られなかった。
でも一つだけ。
図書室の前を通りかかったキョンが、掲示板の前で立ち止まった。
少しだけ読んで、また歩き出した。
表情は、遠くてわからなかった。
それでいい、と思った。
確認しなくていい。
「読みました」と伝えた。
受け取ったかどうかは、聞かない。
それが、俺にできる一番ていねいなやり方だと思った。
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**つづく**
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第十話まで来ました。五枚目の紙を書くとき、一文字一文字を考えていました。誰が書いたか明かさないまま、でも「届いた」とだけ言える一行を探して、「読みました。ありがとうございました」になりました。ここまで読んでくださった方に、正直に言います。もしこの話が好きだと思っていただけたなら、評価やブクマをしていただけると、次も書けます。リュウとキョンには、まだまだ先があります。




