今井氏との再会
大学入試改革の後退は多くの関係者に失望をもたらした。特に英語関係者の思いは複雑だった。スピーキングの導入に向けた対策のために英語の授業改善に取り組んできた全国の英語教師は勿論、民間業者の各種英語検定試験を土曜日や日曜日に積極的に取り組んできた英語主任や教頭先生たちは拍子抜けになった。ただ文部科学省の説明では
『後退した部分もあったが、各大学で実施される2次試験では思考力・表現力を問うための記述式テストを導入で来たことは成果があった。」と述べている。
杉下はこの年の3月に定年退職で校長としての職務は終了した。4月からは近くの小学校で3年生と4年生の社会科だけを受け持ち週に3日だけ働く講師職に就いた。所謂再雇用制度を利用したものだった。
11月で風が冷たくなり始めた頃、3年生の教室でイチゴを栽培する福岡県の農家の授業を終えて、かわいい3年生の子たちと廊下でじゃれ合いながら職員室に戻ると、机の上に研究会の案内が綴じられたファイルの回覧が置かれていた。講師の机まで回覧してくれるのは珍しい。講師には出張旅費がつかないので、この手の資料を見る機会もほとんどなかったのだ。椅子に座ってファイルをめくりながら見ていくと冬休みに教育研究所主催の理科の講座や教育研究会主催の社会科の講座などがあった。杉下はどの講座にも興味があったが、退職した身で今更研修に行かせてくれとは言えないなと諦めながらファイルをさらにめくった。すると見覚えのある研修講座の名前があった。
『小中高英語教育研究会主催講演会 ”これから先の英語教育の展望”文部科学省英語教育課長 今井典宏』と書かれていた。12月25日14時教育センター大ホール 申し込み締め切りは先着200名であった。
「昔、直井教科調査官の講演会を聞いたあのイベントだ。今井さんていうのはあの今井さんかな。筑波で講師として来てくれた彼だな。もう課長になってるのか。」と独り言のように口元でつぶやいた。隣に座っていた立花先生に
「この講師、僕が筑波の研修に行った時に講師として派遣されてきた人だよ。20年位前だけど、あの頃は若手官僚として来ていたけど、もう課長になっている。偉くなったんだな。」と言うと中学校で英語の教師の経験もある立花先生は
「先生、中央研修に行ったことがあるんですか。筑波の研修センターって楽しかったんですか?」と聞いてきた。杉下は
「全国からやってきた先生たちと毎晩のようにロビーとかでお酒を飲みながら語り合うのが楽しかったよ。」というと
「その全国の先生方とのつながりは今でもあるんですか。」と言われ
「退職する年に奈良市の校長会が津室中学校に学校訪問に来たんだけど、その幹事をしていたのが僕の隣の部屋だった人です。その夜は僕も奈良の先生たちの宴会に参加して飲みました。」というと立花先生は羨ましそうに
「先生、この講演会、行ってきたらどうですか。昔の仲間に会いに行く感じで。」と背中を押してくれた。杉下はそのまま校長室に入って講演会に行くことを申し出た。すると校長は旅費は出せないけど出勤扱いで参加することを認めてくれた。その日のうちにネットで申し込んだ。
12月25日は毎年雪が降る。今年も例にもれずクリスマスイブの夜に降り始めた雪が朝方には10cmくらい積もって交通機関に遅れが出始めている。
杉下は午前中は学校で3学期の授業の準備をした。小学校3年生と4年生の授業は教員生活37年の中で一度も担当したことがなかったので、休み中のこの準備が大切だった。12時には学校を出て途中で食事をして、1時半には福井駅近くの教育センター近くの駐車場に車を入れて、教育センターの4階に上がった。会場は横長の机に椅子を3つずつ並べて3人掛けでほぼ200人の規模の広さだ。会場に到着したのは13時45分を回っていたので、前の方の50席くらいをのぞいてほぼ埋まっていた。杉下は前の方へ進んでいき、前から5列目くらいの中央の席に座った。周りは若い英語の関係者が座っている。杉下と同じくらいの年齢の人は教育研究会の役員をしている人たちくらいなので、横の執行部席に座っている人くらいだった。受付でもらった資料を眺めながら時間になるのを待っていると、程なく大きな体の今井さんが入ってきて、ステージの左側の椅子に座った。司会の先生が開会を宣言すると高校の英語教育研究会の会長であるどこかの高校の校長先生が挨拶をしながら今井君を紹介していた。その後に今井君が出て来て講演が始まった。
「お招きを頂いた今井です。福井は縁が深いところで私の妻は福井出身です。今日も妻の実家に停まる予定をしています。それにこの講演会は直井先生が何年間も来ていたらしいですね。文科省の同じ課にいたので直井先生から福井の事を随分聞きました。直井先生は今は京都に帰って、大学で教鞭をとっていらっしゃいますが、福井の先生方の熱心な研究姿勢を熱弁していました。その話を聞いていたので今日は楽しみにして来ました。どうかよろしくお願いします。」と挨拶して講演が始まった。背が高く、少し太り気味なので体重は100kg以上ありそうで、額には早くもかき始めている。
「ところでみおなさん、昨年の大学入試改革で英語のスピーキングを測定する民間事業者のテストの導入が見送られたことをどう思いますか。あの時、私たちのグループでは怒りが込み上げていました。スピーキングを評価の観点に入れるために15年くらいかけてきたんです。初めの頃は何とか日本の英語教育の中で和製発音がはびこっているのを取り除けないかという程度でしたが、問題の根底にあったのが入試のための英語だったので、読んで意味を理解する事とヒアリングが出来ることに特化していたことでした。コミュニケーションの道具である英語は手段であるはずなのに目的になってしまい、英語の入試で使われる英文は難解な新聞の社説レベルが使われるが、幼稚園児や小学生程度の会話文が話せないという悲しい現状が浮き彫りになったんです。そこで15年ほど前から中教審の委員の皆さんに地道に働きかけ、日本の英語教育を変えるには大学入試を変えることが一番大切だと説いて回ったんです。」と文科省の英語教育担当としての15年の苦労を話した。会場の参加者は今井さんの苦労話を聞き耳を立てて聞いていた。文科省官僚と中教審の委員たちの攻防について聞くことなんて、福井にいるぶんにはもう二度と聞けない話のように感じていたのだ。さらに今井さんは
「ようやく15年で高大接続部会で協議された大学入試改革の答申に英語のスピーキングを導入することに成功したんです。その間、学習指導要領の改訂で小学校からの外国語活動の導入には直井先生たち、教科調査委員の皆さんの努力が実りました。本当に地道な努力でようやく大学入試改革にこぎつけて、いよいよ2021年度から本格実施だってなった矢先に高校生たち受験生が採点に平等性が担保できないと言ってデモ行進してマスコミが煽って報道するもんだから、永田町の国会議員たちがここぞとばかりに国会で取り上げ、文部科学省に乗り込んできたんです。その時の総理大臣も文部科学大臣もビビってしまって、閣議で
「共通テストでの記述式問題導入は見送り。英語のスピーキングのための民間業者テストの導入も見送る」ということを決定してしまったんです。私たちの15年の努力は見捨てられてしまい、日本の英語教育の和製発音はまた10年継続されてしまうことになったんです。私たちの職場の官僚たちの怒りがどのようなものだったかは想像してください。理科や社会の選択教科での平均点の差は10点近く合っても調整点を実施しませんから、スピーキングテストでの採点誤差ははるかに小さいと思います。」と話している最中から徐々にエキサイティングするのがわかった。そこで今井さんは用意された水をコップに注いで一口飲み、冷静さを取り戻すと
「あまり熱くなって高校生や国会議員やマスコミを批判しても決まってしまった者はどうしようもないのでこれくらいにしておきます。大切なのはこれからどうするかという事です。科学技術の進化は想像を超えています。2021年実施に向けて2020年頃には記述式の問題に対する回答はスキャナで読み取ってPDF化することでコンピュータで採点が出来るとしていました。このころはまだ手書き文字をPDFにするときにデジタル処理をしても誤変換が多いだろうという心配があったんです。実際にはその当時でもデジタル化することにさほど問題がないから実施に踏み込んだわけです。今現在はどうかと言いますとその後のAIの進歩は目覚ましいものがあります。どんな癖のある文字でもデジタル化して読み込むことは可能になっていますし、採点も人間が採点するよりも公平な採点が可能です。また英語のスピーキングや自筆の英作文についてもAIはきちんと採点します。しかしまだいつから導入するかという段階に至っていません。あと数年で導入についての話し合いが始まります。前回はコンピュータ採点の例をきちんと示さなかったことが失敗だったと思っています。そこで、今回の説明には様々な例を実際にカメラの前で採点させて、デジタル化が正確であることやAIが公平に採点するところを国民に見ていただこうと思います。かならず導入にこぎつけますので、福井県の先生方に置かれましては安心してスピーキングを重視した授業改善に取り組んでいただきたいと思います。」と今後の予想について話をした。
今井氏の講演は約1時間半続き、質疑応答に入った。杉下の後ろに座っていた若い男性教員が手を上げて
「今回も高校生たちがデモをするかもしれませんが、その点に対する対策は何かお考えですか。」と質問した。今井氏はマイクを手に立ち上がって言葉を選びながら
「デモ行進は起きるかもしれません。しかしマスコミがどのように伝えるかが大切なところです。マスコミに向けてAIがいかに進化しているかを事前にデモンストレーションしておくことで、受験生たちに安心して受験するように広報してもらえればと思っています。同様に保守派の政治家に対するレクチャーも大切だと思っています。」と答えた。会場からは文科省の官僚のしたたかな下準備になるほどという感嘆の音を出した。
その後はしばらく誰も手を上げなかった。杉下は思い切って手を上げて聞いてみることにした。司会者が杉下の方に手を向けて発言権を与えてくれた。マイクを持った補助者が走ってきて杉下にマイクを渡すと
「再雇用で講師をしている杉下と言います。実は20年ほど前に今井先生とは筑波教員研修センターの中堅教員研修でご指導を頂きました。その節はありがとうございました。」と挨拶するとステージの今井が杉下を見て
「あ、思い出しました。筑波へ行ったのは一回だけですが、その時に福井の地酒の黒龍を飲ませていただいたことがよみがえりました。あの時はどうも有難うございました。」と反応してくれた。杉下は続けて
「あの時、今井さんは日本の英語教育の改善に強い意欲をお持ちでした。結局大学入試を変えることで教育全体を変えることにつながるというのは、日本ではどの大学に入学するかでその先の就職口が決まると言った終身雇用制に基づく知識偏重社会が元凶だと思います。その点についてはどうお考えですか。」と問いただした。今井はしばらく考えて
「確かにそうですね。大学でどんなことを学ぶかという事はさして重要ではなく、どこの大学に入るかが大事で、大学も遊んでばかりいる学生をさっさと卒業させて、就職実績だけを積み重ねていくことに重点を置いている。しだいに世界の大学ランキングで東京大学出さえ上位にはランキングされなくなっています。しかしここ最近は東京大学を卒業したという事よりもあなたは何が出来ますかという事の方に力点が移っています。アメリカの大学の教育課程に似たものを日本で実践している大学が優秀な学生を育てて、就職実績を上げることで学生たちから人気が出てきているところも出ています。中には英語を話せるようになって大学を卒業させるときことをうたい文句にする大学も現れています。時代が変化してきたことで大学入試も求められる学生像の変化に対応する必要が出てくるわけです。」と解説してくれた。質問者も出なくなったところで講演会は終了した。謝辞を中学校部会の校長先生が話し、今井先生に対する感謝を全員で再度の拍手で表した。
今井氏が会場から出て控室に入ったところで、全員が会場から出て行ったが、杉下は係員に今井さんがどの部屋にいるかを聞いて、その部屋を訪問することにした。4階の大ホールから3階に降りて、廊下を進むと応接室と書いた部屋があった。部屋のドアをノックすると中から
「どうぞ」という声がしたので杉下はゆっくりとドアを開けて中に入ると、応接セットに今井さんと最初に挨拶をした高校の校長先生がお茶を飲んでいた。杉下は
「今井さん、お久しぶりです。杉下です。お元気でしたか。」と挨拶すると今井は立ち上がって握手する手を伸ばして手を握ると
「先生、もうご退職されたと言ってましたね。残念ですね。熱心に教育改革をお話ししていましたのに。先生の熱意に僕も頑張らないといけないと考えたんです。それにしてもあの時の黒龍は美味しかったデうね。あれから妻が実家に帰るたびに黒龍を買って来てもらっています。」と言ってくれた。杉下は時間を取っては失礼だと思いながら
「大学入試改革には期待してました。ただ退職の年の共通テストで多くのことが導入見送りになったことが残念でした。今井さん、今度こそスピーキングの導入に力を尽くしてください。アップルではなくアポ―と大きな声で発音できる生徒を育てていきましょう。」と言って今井の右手を杉下は両手でつかんで握手しながらお礼をして部屋をあとにした。