[3-17]白い目
ロクが紅葉とナナを連れて屋上に出た時は、まだ辺りは静まり帰っていた。異様な静かさだ、とロクは思う。
それは錯覚かもしれない。ここが包囲されていて、みんなが中央棟に密かに集合していることを知っているから、よけいにそう思うだけなのかもしれない。
まだ寒い2月の夜に、薄い虫の声がする。郊外にもなると緑が多い。葉の揺れるざわめきが薄く、波のように聴こえてくる。
おそらく、相手はこちらが見えているだろう。相手の指揮官がいるとすれば、状況を把握しやすい場所にいるはずだ。さっと周りを見渡すと、近くに木が生い茂る小高い丘があった。こちらの状況と包囲の様子を監視し、指示を伝達するとすればそこしかない。
本来であれば、ビルの一室を数箇所ほど確保して、そこを指揮所とするだろう。通信機器を稼働する電力を確保しやすいし、いざという時は一般人に紛れて撤収しやすいからだ。しかし、この辺りに丁度良いビルはない。
「ナナ、」
ロクは声を潜めた。この距離では指向性マイクでも音を拾う事は出来ないが、あえて大声を出す必要もない。
「なに? ロク」
「おそらく、今、相手は屋上に出てきた僕たちを監視している。暗視ゴーグルだろうが熱赤外線スコープだろうが方法はいくらでもある。挙動に気をつけて」
「わかった」
まずは、とロクは問題の丘を背にする位置まで歩いて、ナナを見た。
「さっと辺りの状況を再確認してくれ。それと、僕の背後にある丘に相手の指揮官がいる可能性が高い。そこを注意深く観察してほしい」
「んっ、とね」
ナナは両手を広げてくるりと回る。いかにも外の空気を吸いに来たように、大きく伸びをしながら、辺りを歩き回りながら周囲に視線を走らせていく。
「……うん、やっぱりぐるりと人が囲んでいるね。まだ動きはないよ」
「よし。丘はどうだ?」
「う〜ん、四人かな? もっとよく見ないと分からないけど」
確定だな。この深夜に丘に人がいるわけがない。おそらく、それが指揮官だ。
ロクは手すりにもたれかかって、榊から受け取った携帯端末を取り出す。GOAの到着まで残りは二十五分。先鋒部隊はヘリでやってくるはずだ。
GOAが到着すれば屋上で防御陣を構築させ、侵入してくる相手を狙撃させるのがベストだ。しかし、出来れば相手の正体を見極めたい。何とかして、相手の指揮官を捕らえることは出来ないだろうか……。
ロクは榊から借り受けた端末を全員への通話モードに切り替えて、耳元に当てた。
「こちらロク。榊はいるか? 中央棟の防御陣の進捗を聞きたい」
「こちら榊」
おそらく、榊は予備の端末か仲間からの借り物だろう。即応したのが榊本人だった。
「進捗は順調だ。こちらに銃がないのは心もとないが、まぁ何とかしよう」
「了解だ。現在、敵に動きなし。二十五分後にGOAが到着する予定。ヘリで上空からだ。到着後、GOAは屋上で狙撃陣を構成する。全員、不用意に動くな。時間を稼げば僕たちの勝ちだ」
「「了解」」
通話を終えたロクは屋上のフェンスに背中を預けて両腕を組んだ。さて、父さんにはどう連絡したものか?
父さんは今、部屋で法強さんと一緒にいるはずだ。寝ているかもしれないし、まだ酒を飲んでいるのかもしれない。状況から判断するに、父さんの最適な行動はそのまま法強さんと一緒にいることだ。相手の目標が法強だった場合の最終的な防衛手段にもなる。
しかし、
経験上、父さんに何かを依頼しても思い通りになったことはない。全くないと言ってもいいだろう。資源ゴミを出してきて欲しいと言えば、可燃ゴミを持って行く。卵と牛乳を買ってくれと頼めば、チーズとワインを買ってくる。
……とりあえず、状況の共有くらいはしておくか。
はぁ、とロクはため息を吐きながら、今度は自分自身の携帯端末を取り出す。
「もしもし、父さん」
「やあ、ロク、楽しんでいるかい?」
ご機嫌な声が鼓膜を撫でた。これは酔っているな、と察しをつける。ダメだな。普段でさえ結構ダメな人なのに、これでは役に立つわけがない。中途半端に状況を話して騒がれても厄介だ。
「ロクも飲んでいるかい? お酒はいいぞ〜。飲みすぎたらダメだけど」
まったくだ。分かっているのに、なぜ飲みすぎるのか? 酔っ払いと話す余裕などない。
「方強さんに代わってもらえますか?」
「……あっ、はい」
しゅん、と小さくなった父親の声がする。耳元で携帯をやり取りする雑音がしばらく続いて、方強の声がした。
「代わったぞ」
「方強さん、状況を共有します」
「どうした」
「今、ここは何者かに包囲されています。それなりに統制された集団です」
方強は無言だ。
「状況から考えて、相手の目的は貴方である可能性が高い」
「……だろうな」
話が速くて助かる。父さん相手ではこうはいかない。
「心当たりはありますか」
「ある、な」
「教えて頂けますか?」
「軍の一部には、今の総書記を排除しようとする勢力がある。おそらくはその一派だ。俺は軍部内で総書記派と見なされていた」
まぁ、そんなところだろう。予想の範囲内だ。現状では、相手の目的が法強であると仮定して対策を組み立てるしかあるまい。そうであれば、時間を稼ぐための方法などいくらでもある。
「分かりました。貴方に死なれてはこちらも困ります。ご協力願いたいことがあるのですが、構いませんか?」
「もちろんだ。迷惑をかける」
「三階に放送室があります。そこの録音機能を使って、法強さんの居場所についての虚偽情報を流すように設定してください。予約機能を使って十分後にです。敵への情報攪乱に使います。その後、放送室から離れ、可能であれば、中央棟に移動してください。そこで榊たちが防御陣を構築しています」
「分かった。問題はない」
「放送室の場所は父さんに聞いてください。そこでの設定が終わった後は、身を隠していれば問題ありません。時間さえ稼げれば、GOAがここに到着します。それでは、失礼します」
「待て、ロク」
ロクは、通話を切ろうとした指を止めた。
「何ですか?」
「お前の父親はどうする?」
「父さんですか?」
ロクは怪訝に思った。父さんをどうするって、どうしようもない。今、酔っ払っているみたいだし。僕の言うことなんて聞かないんだから。
「……父さんには、どうぞ好きなように、とお伝えください」
ロクはそれだけ言ってしまうと、通信を切ってしまった。
さて、どうなるか。
このまま状態が膠着してくれれば最良だ。こちらはGOAの救援がある。時間を稼げればそれだけ有利な状況になる。……父さんが余計なことをしなければいいのだけど。
ロクが次の思考に移ろうとした瞬間、
「ロク!」とナナが鋭い声を上げて、ロクの袖を引いた。
ナナは、丘の方をまっすぐ睨んでいる。
「何だ、ナナ」
「あの丘に、いるよ」
「それは聞いた」
「違うよ」
ナナは丘から目をそらさずに言う。
「あのワインレッドは……うん、間違いない」
ナナはロクの方を振り向いて断言した。
「あそこにいるのは、会長さん。黒条百合華さんだよ」
「クロちゃんが!」とそばで耳を立てていた紅葉が声を上げる。
「まさか、」
ロクは流石に狼狽した。ナナの見間違いだと思った。しかし、あの黒条百合華があそこにいるとすれば……。
ナナの声が再び上がる。
「動き出したよ。ロク。周りの人たちがこっちに走ってくる!」
くそ!
ロクは榊から受け取った携帯端末を取り出した。屋上のフェンス越しに地上を覗きこむ。ナナの言う通りだ。一目で数人の影がこちらに向かって走っているのが確認できた。
相手はこちらに向かって走っている。隠密侵入ではない。強行突破だ。両手を小さく構えている。握っているのはハンドガン。アサルトなどの重火器は見当たらない。
ロクは携帯に向かって声を張った。
「全員、敵が動き出した。施設内に突入。ダイナミックだ。主な装備はハンドガン」
ロクは携帯を口に当てながら、眼下を走りぬけていく人影を目で追う。
おかしい。
あいつらは明らかに、中央棟に向かってまっすぐ走っている。周囲の警戒などは一切しない。普通の突入作戦では、敵がどこに潜んでいるか分からない。そのため、周囲をクリアリングしつつ徐々に侵攻するはずなのに。
奴らは知っているのだ。全員が中央棟に集結していることに。
「榊! 気をつけろ。奴らはお前たちが中央棟にいることを知っている。一気に突撃してくるぞ!」
「了解した!」
地上から、窓ガラスの割れる音が鳴り響いた。
◇
「多分、気がつかれたわね」
黒条百合華は英語でそう呟いた。
それは孤児院を囲む男たちが突入を始める数分前だった。ちょうど、ロクとナナと紅葉の三人が屋上に姿を見せた時でもある。
黒条百合華は、屋上に出てきた三人を暗視ゴーグル越しに覗き込んでいた。暗視ゴーグル越しの映像は緑一色で個人の特定が難しい。しかし、百合華の使っているものは双眼鏡にもなる。拡大してみる三人の特徴がよく見て取れた。あら、ロク君にナナさん、それにモミちゃんまでいるじゃない。
「なぜ分かる?」
百合華の隣に立っていた女が問いかける。この女も英語だ。使い慣れていないのか少しぎこちないが、発音は明瞭で聞き取りやすい。変にネイティブの真似事をせずに、相手が聞き取りやすいようにゆっくりと話す姿勢は好感触よ。
百合華は暗視ゴーグルから目を離して、女を横目で見た。
若い女だ。年は20代の前半だろうか。
その女は珍しく、美しくはなかった。醜いわけではない。ただ、日本では当たり前の美しさが、彼女にはない。彼女は未調整だ。
少し日焼けした浅黒い肌に、短くした黒い髪。活動的な感じのする、ただそれだけの女だった。日本でなければ、どこにでもいるアジア人種。微妙に崩れて整っているとは言えない、海外ではごく一般的な容姿。
彼女は日本人ではなかった。日本語もしゃべらない。
「よく見てみるといいわ、貴方の目ならばよく見えるでしょう」
百合華は相手に合わせて、ゆっくりとした英語で話す。英語はあまり好きではないが、しかし、情報を伝達するには必要だ。十分ではないけれど。
女が振り向いて、百合華を睨みつけた。
百合華は息を呑んで、小さく吐いた。
その女の目は、異様だった。
一度見れば忘れることができない。奇妙でさえある。見る人によっては不気味だと感じるかもしれない。異質で不自然。しかし、百合華は彼女の目が嫌いではない。
彼女は、左目だけ真っ白だった。
右目はいたって普通だ。しかし、彼女の顔を正面から見ると、両眼の不釣り合いさにギョッとすることだろう。
百合華は手を伸ばして、屋上に出てきた三人を指差した。
女はその指し示す方を、その白い目で追いかける。
そこには三名の男女がいる。
「どうかしら、彼らの色は?」と百合華が問う。
「……汚れを知らない色」
「でしょうね。あの人たちは悪い人ではないわ。特にモミちゃんは最高よ」
「知り合いなのか」
「ええ」
百合華は笑った。
女は表情を硬くした。
「裏切ったのか?」
「あら、どうして裏切ったと思うのかしら?」
百合華はおかしそうに笑う。
「あそこに私の知り合いがいるから? 仮に裏切っているなら、それをどうして貴方に伝えるのかしら? もしかして、貴方の目には見えた? 私の悪意が」
女は眉をひそめた。
百合華はふっ、と口を緩めた。
「どうやら、裏切りに慣れてしまっているようね。それは被害妄想よ。ここは日本。統制された平和がお金で買える不可思議な国。裏切りや犯罪にはそれなりのコストを支払わなければなりません」
女は目を閉じて、指をこめかみを押し付けた。彼女にとって英語は母国ではない。先ほどの百合華の発言は言い回しが複雑で、彼女は意味を完全に追いきれなかった。
「つまり、貴方は裏切っていない、と」
「ええ。私の裏切りは高いわ。あまりにも高価ですから貴方には売れません」
「……」
女は諦めたように目を閉じて、小さく唸った。彼女は辺りにある木に近寄ると、パッと飛び上がって手頃な枝の上に身を乗り上げる。
見事な身のこなし、と百合華は感心した。まるで猿みたいだと褒めれば、彼女は嫌がるだろうか。もし嫌がるならば、是非とも褒めてみたい。
女は枝の上にまっすぐ立っている。片手で右目を塞いで、白い左目だけで、孤児院の全体を観察している。
「……確かに、貴方の言う通りだな」
木の上に仁王立になっている女を、百合華は見上げる。
「でしょ」
女は音もなく木から飛び降りて、目の前に立つ。
「中にいる鬼子の兵が中央に移動している。しかも、窓に映らぬように警戒しながらだ。人影は見えぬが、色が窓から溢れていた」
「白髪の少年が指揮をとっているのでしょう」
「ニィはここにはいない、と貴方は言ったはずだ」
「ニィ少年じゃないわ。あそこにいるのはロク少年よ」
「ロク?」
女は片眉をピクリと震わせる。
「黒条の頭目よ。貴方は私に隠していることがあるだろう。ロクとは何者だ?」
「ニィと同じような少年よ」
「……」女は目を細めた。
「見れば分かるわ。貴方の目ならばなおさらね」
女は無言で百合華を睨んだままだった。
百合華は手を口元に当てて、くすり、と笑う。
「気づかれたのであれば、早くしたほうが良いわ。ロク少年はおそらく助けを呼んだはずよ。来るのは日本の特殊部隊。せっかく配置した包囲が無駄になる」
女の無言は数瞬だけ続いたが、やがて、両目を閉じて、後ろを振り返った。そのまま歩いて茂みから外に出る。丘の最も高い開けた場所に出た彼女の姿を、月明かりが照らした。
彼女の目は屋上の三人をもう一度観察する。
強い色が見える。警戒の灰色に包まれている。良い反応だ。あのニィと同じ少年がそこにいるらしい。
黒条の頭目に言われるまでもなく、突入はする。すでに包囲網は完成したのだ。このまま様子を伺っていても無意味だ。すでに相手に気づかれたのならば、なおさらだ。
法強上将の居場所はまだ分からぬが、適当に脅して聞き出せば良い。それほど広い建物でもない。しらみ潰しにしても問題はない。
女は胸ポケットから通信機を取り出すと、それを口に当てた。彼女の口からは流暢な中国語が発せられた。
「総員、傾注。鬼子どもは包囲を嗅ぎ当て、すでに目標施設の中央に集結している。法強も可能性が高い。鬼子どもはすでに各区画にはいない。中央に一気に突入し、目標に到達せよ」
「「是」」
と、通信機から応答があった。
「状況の開始まで10秒。各自、備え。……五、四、三、二、一。動!」
女は息を整えて眼下の状況を見守る。
部下たちの色が動き出している。あの鬼子部隊とはいえ、丸腰の包囲戦はつらかろう。立てこもっている中央を制圧は難しくないはずだ。
「始まりましたか?」と背後から黒条百合華の声。
「ああ」
「気まぐれに忠告です。あそこには貴方には想像もできないほどの強敵がいます」
黒条百合華のその言葉に、女は少し興味を引かれた。この女に強敵と言わせる者がいたとはな。
「あのロクとか言うやつか?」と女は振り返った。
「いいえ、あんなお子様とは比べものにならないくらいの圧倒的な存在です。もし、その方に出会ってしまったら、お逃げなさい」
「どれほどの者だと言うのだ、その者は」
黒条百合華は笑顔を浮かべて、首をかしげて見せる。
「そうね。分かりやすいところで言うと、銃弾くらいは避ける人です」
女も笑った。この黒条の頭目にしては下手な冗談だ。
「銃弾など、私だって避けられる」
女は手を振って、百合華から視線を外して前を見る。
「そろそろ、私も突入する。お前は下がっているがいい」
白目の女はしなやかな身のこなしで、丘を駆け抜けた。





