[3-03]対練
布津野忠人は稽古場で柔軟運動をしながら、壁に掛けてある時計をチラチラと盗み見ていた。
「何か、気になることでも?」
背中から声がする。布津野の背を押して前屈を助けている少女のものだ。
「ああ、実は今日、ロクが人を連れてくるらしくてね」
「そうですか」
「そろそろ、時間なんだよ」
ぐいぐい、と少女に背を押され、お尻と太ももの筋肉が、ぐー、と伸びていくのを感じる。年をとったせいか、筋肉がすぐに固くなる。柔軟をちゃんとしないと稽古で怪我をしてしまうだろう。
「で、それはどなたですか?」
その少女は布津野の上半身を抱え上げて捻りこみ、背の筋肉を伸ばしていく。
「痛い……」
「痛くなければ、意味がありません」
「うう」と、布津野は呻きながら「法強さんだって」と顔を歪める。
「法強? もしかして元中国艦隊司令の法強上将ですか?」
「んっ、シャンジ……?」
「上将は中国語で大将の意味です。かなりの高官ですよ」
少女は、今度は布津野の上半身を逆に捻りこむ。
「はぅ、榊さんは法強さんのこと知っているの」
「知っているも何も、私たちが中国軍の実験部隊にいた時、法強上将の元で海上戦闘訓練を受けました。ニィ隊長に拳法の手ほどきをしたのもの上将ですよ」
「そうなんだ」
「まぁ、鬼子実験部隊は軍の研究部直轄でしたし、海軍司令だった法強上将のところには数ヶ月しかいませんでした。でも、ニィ隊長は私たちの脱走が成功したのは法強上将の援助があったからだと言っていました」
「へぇ、じゃあ恩人じゃないか」
かつて、法強は独断で艦隊を動かし日本と中国の間に戦争を起こそうとした。これを見抜き、阻止したのがニィ君とロクだ。かつて恩人を拘束することになったのだから、世の中は本当に複雑に出来ていると思う。
「だったら、お礼を言わなきゃね」
「ええ」
パン、と榊は布津野の背中を叩いて柔軟が終わったことを伝えた。
布津野は、よいしょ、と声を漏らしながら立ち上がる。稽古場を見渡すと、皆がすでに揃っていた。全員で四十八人。ニィが連れてきた中国の脱走少年兵だ。
「さぁ、始めましょうか? それとも法強上将が来られるまで待ちますか?」
榊がそう言いながら、稽古着である袴の位置を右手だけで整えている。
彼女のもう片方の腕、左腕の袖はひらひらと垂れている。
そこにあるべき腕はない。脱走時の戦闘で左腕を失ったらしい。それはニィ隊長を庇った際に負った名誉の負傷だと、彼女が誇らしげに言っているのをよく覚えている。
「……そうだね。もう約束の時間だから、もう少し待ってみようか」
「わかりました」
そう言うと、榊は空の左袖をひらりとたなびかせて、みんなの方を振り向いた。体躯の小さい彼女の口から、よく通る声が発せられる。
「皆、本日は法強上将が見えられることだ。約束の時間はもうすぐ、それまで現状で待機だ」
「「了解」」とみんなは異口同音に応じる。
——なんだか、軍隊みたいだなぁ。
布津野は口元を歪めて彼らの様子を眺めた。
あれから1年半経った。彼ら四十八人の保護と存在の隠蔽を決めた日本政府は、彼らをこの施設に住まわせた。
表向きは大規模な孤児院であり、数年の間、中国の実験部隊で過酷な経験をしてきた彼らに対する義務教育の補完メンタルケアを行っている。この稽古場も孤児院の設備の一つだ。それは彼らの安全を保証する上でも、また政府の機密を守る上でも、それが都合の良い処置なのだろう。
と、ここまでは良いのだが、この施設には重大な欠点がある。それは、この施設の責任者が僕だということだ。
この任命があった時、僕は何も出来ませんよ、とロクを通して異議申し立てた。しかし、こともあろうか首相自ら返事が返ってきたのだ。『お主が、その子達を救いたいと言ったはずじゃが?』という短い文言に、僕は絶句するしかなかった。
幸い、ちゃんとした教育や臨床心理の専門家を派遣するということで不安になりながらも受け入れざるを得ず。この孤児院の責任者になることになった。
こんな責任の重い人事にも、ちょっとだけ嬉しかった事がある。それは、僕の年収が少し上がったことだ。
実は、家族で僕は一番年収が低いのだ。政府で重要な仕事をしている冴子さん、ロク、ナナはそれ相応の報酬を得ている。当然だけど、僕なんかよりも圧倒的な金額だった。三人は特に気にしていないようだったけど、一応のところの父親である僕は、実は結構気にしていた。
それが、少しだけだけど、縮まったのだ。焼け石に水だけど……。
「布津野先生、布津野先生、」と呼ぶ声が、稽古場の外から聞こえる。
稽古場の入り口から顔を出したのは、宇津々ながめ先生だ。彼女は宇津々首相のお孫さんで、この施設に教育の専門家として赴任してきたのだ。きっと、首相からの監視役なのかもしれない。せっかくだから、この孤児院の運営について、かなりお任せさせて頂いてます。
そのながめ先生は、こちらを見つけると手を振って声を張り上げる。
「ロク君とナナちゃん、あとご来客の方が一名、見えましたよ」
「ありがとうございます。お通しください」
「はい」
ながめ先生がそう言って、顔を引っ込めると、しばらくしてロクとナナに法強さんが、稽古場の前で一礼して入ってきた。
ロクもナナも袴をはいている。どうやら、稽古に参加するらしい。
僕は、孤児院の責任者になったものの、出来ることはほとんどなかった。しかも、赴任頂いたながめ先生はとても優秀で孤児院を上手く運営してくれていた。暇を持て余した僕は、体育の授業の一環としてみんなに合気道の稽古をすることにした。
その稽古にロクやナナも参加するようになって、はや一年半。体育としての合気道の稽古は、かつての教師時代に教えていたので何とかなるだろう、と考えていた。
しかし、僕の考えは甘かった。
ここでの稽古は学校の体育とは全然違っていた。生徒である彼らは、過酷な訓練と実戦を生き延びた軍人だったことを忘れていた。緩い健康体操の延長程度に……と思っていた僕の甘い考えを、彼らは鼻息で吹き飛ばし、自ら追い込む過酷な鍛錬とし、僕に実戦的な技術の講習を要求した。
——稽古中の態度も、なんだか訓練みたいだし……
そんなことを憂いていると、ロクとナナの後から法強さんらしき渋面の初老さんが姿を見せた。皆は背筋を伸ばし、敬礼をしてその人を迎える。やっぱり軍隊みたいだ。
「礼はいい、楽にしてくれ」と法強さんが周りに言い渡しながら、ロクに先導されてこちらにやってくる。
さて、なにやら大事だな。
布津野はロクとナナに向かって手を上げながら、三人を出迎えるように歩き出した。何にせよ、ここにいる皆の恩人だ。お礼を言わなければ、
「父さん、」とロクが立ち止まって「こちらが法強さんです」
「初めまして、布津野忠人です」
軽く頭を下げる。ちらりと法強を見ると、岩のように険しい顔つきがそこにあった。如何にも軍人といった感じ。威圧感がすごい。
「……貴方が布津野忠人か」
あっ、日本語だ。しかも流暢。と布津野は目を丸くさせた。
「ええ」
「聞くところによると、この二人の父親だと?」
訝しむように、法強の眉間のシワが増える。
「ええ、こんなんですが」
ハハッと布津野は笑う。
ふむ、と法強は息を吐くと、稽古場の周りをゆっくりと見渡した。皆がこちらを取り囲むように様子をうかがっている。ああ、そうだ、お礼を言わなきゃ。
「あの、」
「ん」と法強の視点が布津野に戻る。
「ありがとうございました」
法強の眉が下がって、怪訝な表情をつくる。
「ほら、法強さんがこの子たちを助けてくれたらしいじゃないですか」
「助けた……だと。そんなことはない」
法強の眉間がさらに険しくなった。
「俺はあの実験部隊が気に入らなかっただけだ。積極的に彼らの脱走に手を貸したつもりもない」
「そうですか」
それでも、あの捻くれ者のニィ君が、助けられたと言うのだから、きっとそうなんだと思うのだけど。
「何にせよ。ありがとうございます。この子たちを助けていただいて、」
「ふん、貴方に言われると所在ないな」と法強は口元を苦くする。
布津野は何のことが検討もつかず、ポカン、と口を開いた。
「鬼子実験部隊で過酷な実験訓練を受け、命を落としていった子供たちを哀れんでいた者は俺だけではない。むしろ、中国共産党のほとんどが実験部隊に反対だった。あれは一部の暴走による残虐な実験で、祖国の恥部だ」
法強はそう吐き捨てた。
「しかし、それでも我が身をとして救おうとした人がいなかったのも事実だ。俺とて、ニィの脱走計画を知りながらそれを放置し黙認しただけに過ぎない。この子たちは誰も救いたがらない、触れてはならない、そういう厄介な存在になっていた」
「……」
「国や所属は関係ない、手を差し伸べたのは貴方だけだ」と、法強はため息をつき「こちらこそ、感謝する」と頭を下げた。
布津野は慌てた。いやいや、本当にこっちこそ何もしていない。確かに彼らを助けたいと口には出した気がするが、結局、具体的に彼らを救ったのはニィとロクだった。僕だけでは何一つ出来やしなかった。
さて、どう反応したものかと困っていると、法強が面を上げた。
「実は、この度、邪魔をしたのは訳がある」
「ええ、なんでしょう」
話題が切り替わって、ほっ、と布津野は胸をなでおろした。
「ニィに言われたことがある。困った事があれば布津野忠人を頼れ、とな」
「はい?」
「貴方を頼れ、とあのニィが言ったのだ」
「はぁ」
また何か厄介な事を、と布津野は口をゆがめる。
どうも、ニィ君は人に無茶振りをする悪い癖がある。1年半前に僕にこの子達四十八人を託したのも彼だった。ニィ君は今頃どこで、何をしているのだろう。前に電話があった時は、アメリカにいると言っていた。その前はヨーロッパだったから、どうやら各国を飛び回っているらしい。
「頼れと言われましても、僕に出来る事なんてありませんよ」
「そうかもしれん。俺にも具体的な頼み事があるわけでもない。しかし、あのニィがそれほどに推す人物と、実際に会ってみたかった」
「はぁ、そうですか」
「今は……稽古中か?」
「ええ、始めようとしていたところですが、」
その時、ふと妙案が浮かんだ。
この法強さんは、ニィ君に拳法を教えていたらしい。そうなら、きっと相当な腕前なのだろう。立ち姿から察するに、十分以上の鍛錬が見て取れる。これは、もしかしたら非常に貴重な機会なのかもしれない。中国拳法にも興味はある。
「法強さん、よければご指導頂けませんか?」
「俺に、ここの稽古を、か?」
「はい、ニィ君に教えた事があると聞きました。僕も勉強させていただければと思いまして」
「それは構わぬが、しかし、良いのか、ここは貴方の場所だろう」
「全然、構いませんよ。是非、お願いします」
深々と頭を下げる。
これは面白くなってきた。あのニィ君を鍛えた人であればかなりの達人であろう。それに中国拳法の術理を勉強できる滅多にないチャンスでもある。
「ふむ……では僭越ながら引き受けよう」
やった、と布津野は拳を握った。
法強は周囲を見渡していたが、やがて目を細めて布津野を見る。
「二人一組の対練を中心に。布津野さんには俺の相手をお願いできるか」
「ええ、喜んで」
布津野は法強に向かって笑いかけた。
◇
対練というのは、組手による型稽古の一種だ。攻防の一連の所作を学ぶための鍛錬法であり、流派によって様々な型が存在する。
特に八極拳の型は、接触状況の至近による攻防が多いことが特徴だ。もとより八極拳は一撃必殺を旨とし、震脚という鋭い踏み込みに、肘や肩を使った短い打撃が多い。
法強が対練で繰り出す鋭い一撃を、布津野は受けさばきながらも、何度も冷や汗を流した。
これは凄い。流動的な体の動きが一つ一つの攻撃にまとまっている。どれを取っても一撃必殺。攻撃を捌く動作でさえ、反撃の一撃の威力を高めるための予備動作になっている。これほどに攻撃的な武術体系も珍しいだろう。
「至近での崩拳の型は、後ろ足を寄せ、重心を落としながら打ち込む」
法強はそう言って、布津野の鳩尾あたりに拳を当てた。
当てるだけで、打ち抜きはしない。だが、布津野には腹から伝わる拳の振動から、それが十分以上の威力を有していることが分かる。
「これは、受けても無意味ですね」
「防御の上からも崩す打撃。ゆえに崩拳」
「躱そうにも、ここまで懐に入りこまれては余裕がない」
うんうん、と布津野は唸りながら、法強の指導された通りに対練の流れに身を任せる。合気の技と通じる箇所もあれば、全く違うところもある。八極拳は剛体の操作が大胆だ。合気の場合はもう少し直接的な崩しを嫌う傾向にある。
法強のゆっくりとした蹴りを放つ。
布津野はそれに応じて、足で受ける。
受けた蹴りが鋭く踏み下ろされて、布津野の体を崩す。これが噂に聞く震脚か。凄まじい踏み込みだ。
崩された顔面に対して、法強が短い動作のアッパーを寸止めにした。
「……まったく、見えませんでした。ここで下からですか」
と布津野は息を吐く。
「鑚拳、と呼ぶ。踏み込みで打つため、手の動作は小さくても良い」
「さんけん、ですか」
「ああ、これは八極拳の型ではなく形意拳の型だがな」
「なるほど」
流派にとらわれず、色々と研鑽されているのだろう。異なる流れにあるはずの技を見事に一つにまとめ上げている。並大抵のセンスではこうはいかない。
僕なんて、合気の技だけでも精一杯だというのに……。
「最後に、背撃につなぐ。この鑚拳を躱してみろ」
「はい」
はいげき、ってなんだろう? と思いながらも、布津野は半歩ほど重心を後ろに逃がして、寸止めされたアッパーをやり過ごす。
二人の間にわずかな間隙が生まれる。その隙間を侵食するように、法強が肩から全身を潜り込ませる。そのまま震脚を踏み、体の側面全体で布津野にぶちかました。
その凄まじい圧力に布津野の体は後ろに吹き飛び、危うく受け身を取り損ねるところだ。
ごろり、と仰向けに寝転んだまま、目をぱちくりとさせていると、法強が上から覗き込むようにして手を差し伸べた。
布津野がその手を反射的に取ると、ぐいっ、と身を引き起こされた。
「いや、凄まじい威力ですね。そうか、はいげきって、背中での打撃って意味なんですね」
「ああ、そうだ」
「組稽古のゆっくりとした動きでさえ、この威力なんですね。これを実戦の速度でやられたらたまりません」
「背撃を実戦でやれる者も滅多にいない」
「へぇ、そうなんですか」
「ああ、そうだな……。例えば、ニィであればやってのけるだろう。後は、あの実験部隊でさえ出来たのは一人くらいか」
ニィ君か、まぁ、あの子なら何だって出来そうだ。
布津野は、ふと懐かしく思いながら周囲を見渡した。稽古を始めて随分と時間が経過したが、法強との対練に熱中してしまって周りの子供達のことを一切気にしていなかったことに気がついた。
しかし、他の子供たちは特に問題なく二人一組になって対練をしていた。そういえば、彼らは中国で法強さんの訓練を受けたことがあるのだ。自分なんかよりも、ずっと上手い。
そういえば、ロクとナナはどうしているのだろうか?
布津野はキョロキョロと二人の姿を探す。ほどなくして、ナナの姿を見つける。どうやら仲の良い女の子グループに入って、丁寧に手順を教えてもらっているようだ。何かと軍隊みたいな雰囲気が残る孤児院だが、ナナを囲んでいる時の女の子の様子はどこか朗らかで、普通の女子高生みたいで見ていて和む。
ニィの事件以降、ナナは彼らとすぐに打ち解けた。初めのうちは、自分たちの隊長であるニィと同じ白髪赤目のナナに対し、彼らには近寄りがたい雰囲気があったようだ。しかし、ナナのほうは特に構うこともなく、放課後になるとよく遊びに来た。いつの間にか打ち解けてしまった。今では、たまに女の子同士でお泊まり会なんて事もしているらしい。
布津野は、そのナナたちの様子を微笑ましく思いながらも、次にロクの姿を探す。そして、すぐにそれを見つけることが出来た。
そこは、殺伐としていた。
ロクはある少女と対峙していた。
その少女は右腕をすっと前に伸ばして重心を落としている。見事な構えだ。まるで殺意を全身で研ぎ澄ましたような……。
少女の稽古着の左袖はのっぺりと下に垂れている。その中には何も入っていない。隻腕の小さな少女——榊夜絵の放つ殺気は、稽古のそれを明らかに超えていた。
一方のロクも負けていない。負けたら殺されてしまうかもしれない。
ロクは普段の右半身ではなく、八極拳の構えをとっていた。見よう見真似であろう。そのはずだ。ロクは中国拳法の稽古をしたことはないから。しかし、ロクのそれは明らかに様になっている。すっかり成長して長身になった彼は、小柄な榊を見下すように睨んでいる。
先に動いたのは、榊だった。
ダン、と稽古場の畳を踏み抜く音が、衝撃とともに響きわたる。小柄な彼女の踏み抜きとは信じられない。凄まじい震脚。
それに応じて、ロクも前に出る。
背の低い榊が、ロクの応撃をくぐり抜けて懐に潜り込む。
二人の距離が、対極の磁石が互いに吸い寄せられるように、凝縮される。
気がつけば、すでに榊の右拳がロクの腹に触れていた。打撃ではない。触れただけだ。ゆえにロクはそれを捌かなかった。
しかし、
そのまま、榊の後ろ足が前に引き寄せられ、重心が沈む。
「チャ!」
榊の鋭い気合と共に、ロクの体が後ろに吹き飛ぶ。
その後には、榊の崩拳の構えが残った。
「寸頸だ」と、布津野の横から法強の声がした。
「すんけい?」
布津野はちらりと法強を見た。
「ほぼ接触状態から相手に打撃を加える運体法だ。崩拳の極意をあの若さでこなすか。流石は鬼子の副隊長」
えっ、榊さんって、そんな怖い女の子だったの?
布津野はハラハラしながら、吹き飛ばされたロクの方を見る。
ロクは、しかし、平然とそこに立っていた。構えに乱れもなく、呼吸は整然として、その目線は悠然と榊を眺めている。
「寸頸を受けて無傷……、発勁の力を後ろに逃がしながら飛んだ、か」
法強のそのつぶやきに、布津野は「みたいですね」と頷いた。ああ、びっくりしたよ。死んだんじゃないかと思った。
ロクと榊の距離が、また縮まっていく。二人の間に残存する磁力が互いを引きつけるように、ゆるい弧を描きながら間合いを詰めてくる。
制空権は圧倒的にロクが広い。
先手は、ロク。右拳の直突きが疾る。
ロクにとっての中段突きであるそれは、身長差のせいで榊の顔面に迫る。
榊は、頬をかすめさせてそれを躱す。
同時に榊の下段蹴り、ロクは足を上げてそれを受けた。
榊は構わず受けられた蹴りをそのまま畳に踏み降ろす。
ズン、と響く震脚の衝撃。
ロクの受け足は、それに踏み崩された。
ロクの体が揺らぐ。
同時に、榊の右拳が下から繰り出され、ロクの顔面を下からすくい上げる。
間一髪、でロクはそれを後ろに下がってやり過ごした。
ロクの鼻先を掠める榊の拳。
空いた両者の間隙を、すかさず榊の二歩目が潰す。
小さな体躯を潜り込ませ、体の右側面でロクにぶちかました。
しかし、
ロクは榊と体を入れ替えるように、ひらりとそれをやり過ごした。
……あれ、これさっきと同じ。型通り?
布津野は、口に溜まった固唾を呑み忘れて、ポカンと口を開けた。殺気や迫力こそ、自分が法強さんに手ほどきを受けていた時とは段違いだ。でも、よく考えてみると動作の手順はあくまで型稽古に沿ったものだった。
その榊の猛攻をやり過ごしたロクは、綺麗に構えを整える。両者はすでに間を取り直していた。
あまりにも激しいその攻防に、周囲の全員が二人を見つめている。
再び対峙する二人、稽古場に広がる沈黙。
「チッ」と榊の口から、女の子がしてはいけない舌打ちが発せられた。
「……お前、明らかに本気だっただろ」とロクが構えを解いた。
「いや、対練の手順の通りだ。崩拳、鑚拳からの背撃、型通りだっただろ。法強上将の指導を見ていなかったのか?」
榊は右手を腰に当てて、ロクを睨んだ。
ロクは首を小さく振った。
「僕じゃなきゃ、直撃だったぞ」
「自惚れるな。ニィ隊長でもこの程度、わけもない」
「なぜニィが出てくる」
「うるさい。それに、布津野さんでも余裕だったはずだ」
そう言って、榊は布津野の方を振り向いた。
えっ、僕? 僕はついさっき、法強さんに盛大に吹き飛ばされましたけど? 手順の当て身も全部当てられて、寸止めされてましたけど? 布津野はなんだか気まずくなって、頭を掻いた。
「父さんも関係ないだろ。大体、お前は父さん相手にも同じことをするのか?」
「するわけがないだろう。いくらあの布津野さんとはいえ、万が一でも怪我をさせたらどうする? お前は馬鹿なのか?」
「どういう意味だ」
ああ、なんだろう。なんだか安心するなぁ。
布津野は先ほどまでの、実戦さながらの殺伐とした雰囲気が二人の間から消えて無くなっているのに胸をなでおろした。二人ともよく稽古をしているから、型通りの手順でも、実戦の迫力があってドキドキする。
布津野は向こうでまだギャーギャーと言い争っているロクと榊から、法強の方へと振り返った。
「さて、そろそろ終わりましょうか」
「ああ」
「ありがとうございました。とても勉強になりました」
「こちらこそ、だ」
法強はそう言って、頭を下げる。
布津野はそれに応じた後、声を大きくして周囲の全員に呼びかけた。
「さあ、今日の稽古は終わりだ。みんな法強さんにお礼を言って解散。夜更かしはほどほどに」
「「はい」」と皆が頭を下げる。
稽古場に、まるで学校の休み時間のような騒がしさが広がっていく。そこかしこから、「榊副長とロクの勝負すごかったな」「あれはマジだったな」などという雑談が聞こえて来る。え、やっぱり本気だったの?
「お父さん、」とナナが駆け寄ってきた。
「ナナ、お疲れ様」
「凄かったね、ロクと夜絵ちゃんの戦い」
ナナは特に榊さんと仲が良く、榊さんのことを名前で『夜絵ちゃん』と呼ぶ。
「ああ、凄かったね」
これは稽古なんだけどね、と布津野は心の中で付け加えた。
「ナナはもうお仕事は終わりかい?」
「う〜ん、どうなんだろ」
「なんだい、もう遅い時間だけどまだあるのかい?」
「なんというか、今日は法強さんの付き添いだから」
「へぇ、変わった仕事だね」
布津野がロクの方を覗き込むと、ロクはまだ榊さんとバチバチとやりあっていた。熱が冷めるまでまだ時間がかかりそうだ。
布津野は法強に声をかける。
「どうですか、みんなの様子は?」
その布津野の問いに、法強は眉間にしわを寄せた。
「みんな?」
「彼らのことです。脱走して保護されてから一年半ほど経ちましたが、まだ親御さんのところに帰ることも許されていません。ここも名目上は孤児院で、表向きは親のいない孤児とされいます」
中国との戦争を避けるために、脱走兵であり誘拐被害者であった彼らの存在は公にされていない。毎日が不安で心細いだろう。親に一目でも会いたいと思って、口に出せずにいる子も多いはずだ。
「みんなの事を心配して見に来てくださったのかな、と思いまして」
「ああ、それもあるかもな」
法強の返事は少し曖昧だった。
「どちらかと言うと、貴方を見に来たのだ」
「僕を、ですか?」
首を傾げざるをえない。そういえば、初めにそう言われた気がする。
法強がその険しい顔を少しやわらげた。
「ニィが俺に言ったのだ。迷うことがあれば布津野忠人に頼れ、とな」
「ああ、そう言えばそうでしたね……」
嫌な予感がする。脳裏にニィ君の悪戯っぽい笑みが思い浮かんだ。
「……来て良かった」
不安そうな顔になった布津野に対して、法強は安心したように息をついた。
「どうして?」と布津野は聞く。
「不思議と、安心した」
法強はナナを見て、次に相変わらず榊と口喧嘩しているロクのほうを、遠い目で眺めた。
「布津野忠人という人物が、この二人の父親で」
法強はそう言って、ちらりと横目で布津野を見た。
「はぁ……」
「ロクと知り合って、一年以上経つ」
法強は物思いにふけるように言葉を続けた。
「ロクがあんな風に、まるで子供のように振る舞っているのを初めて見た」
「そうですか」
「それはきっと、貴方が目の前にいるから、であろうな」
法強が目を閉じた。
それを横で聞いていたナナが、にんまりと笑みを広げて言う。
「ふふ。法強さん、わかってるね」
遠くからギャーギャーと騒ぐ、ロクと榊の声はまだ止まない。
 





