第四話:全有、あるいは証明という名の群れ
オレの名前は柊ヴァルター神威。
元・人間。現・その他。
分類するのが面倒なら「キメラ」で構わない。オレ自身も今のところそう呼んでいる。ただし正確ではない。キメラは複数の生物の特徴を持つという意味では合っているが、それはあくまで形態の話だ。オレが何者かという問いに対する答えは、形態の話だけでは足りない。
今日は霧深市のシティホテルの最上階スイートにいる。
ベッドの上で、天井を見ている。
天井は高い。十二メートルはある。吹き抜け構造で、夜空が見える天窓が設えてある。ダンジョン都市の中でも最高級の宿泊施設で、一泊の料金は攻略者の月収を軽く超える。
オレはそれを一年分、先払いしている。
金はある。
これは謙遜でも自慢でもない、単純な事実の確認だ。財産を数字で表すなら、個人としての資産は国家の一般予算に匹敵するか超えるレベルにある。ダンジョンが出現する以前から、複数の業種で事業を展開し、ダンジョン出現後はいち早く素材市場と研究投資に資金を回した。
その判断は正しかった。
いつも正しかった。
金というのは正しさに従う。正確には、正しさを正しさたらしめるのが金だ。概念としての正しさに、現実の重みを与えるのが金だ。
オレはずっとそう思って生きてきた。
四十二年間。
元・人間だった頃の記憶として。
変化が始まったのは三年前だ。
アーティファクトの収集は、ダンジョンが出現した翌年から始めていた。ダンジョンから持ち出される遺物の中に、スキルや魔物とは異なる性質を持つ物体が時折見つかることが報告されていた。研究者たちはそれを「アーティファクト」と呼び始めた。効果は様々で、持つだけで何らかの作用を発揮するものもあれば、特定の条件下でのみ反応するものもあった。
オレは片っ端から買い集めた。
市場に出たものは全て。出ていないものは、攻略者に直接話をつけて入手した。研究機関が保有しているものは、寄付という形で資金を提供しながら研究に関与し、データごと手に入れた。
スキルの発現については、正直に言えば最初から期待していなかった。
オレのスキルは「感知・弱」だ。
発現したのは三十五歳の時。攻略者として登録し、形式上ダンジョンに入り込んだ際に発現した。効果は名の通り、周囲の魔物の気配を微弱に感知するだけのものだ。
これを「超常の力」と呼べるか。
呼べない。
訓練を積んだ攻略者の感覚の方が、よほど精度が高い。このスキルに実用的な価値はほぼない。
才能というのはそういうものだと、オレは思った。
すべての人間に才能はある、と言うが、それは本質を外した話だ。才能の質は一様ではない。圧倒的な才能を持つ者と、「ないよりまし」程度の才能しか持たない者を、同列に「才能がある」と括ることは、欺瞞だ。
オレはずっと金で動いてきた。才能ではなく。
そしてそれで十分だと証明し続けてきた。
だからスキルが弱くても、関係なかった。
問題は、欲望の話だ。
オレは欲しいものを手に入れてきた。常に。
金で買えるものは全て買った。金で買えないと言われるものも、金の使い方を変えれば大体手に入った。時間、名誉、人間関係、影響力、技術。これらはすべて、適切な資金の運用で手に入る。
一つだけ、長い間手に入らないものがあった。
「全て」だ。
これは抽象的な話ではない。具体的に言う。
人間の経験には、性別によって分断されているものがある。これは生物学的な構造の問題だ。男性の体を持つ者と、女性の体を持つ者では、体験できることが根本的に異なる部分がある。感覚的に、知覚的に、構造的に。
オレは三十代半ばから、この問題について真剣に考え始めた。
金で解決できるはずだ、とオレは思った。
そして実際に、解決した。
最初は段階的な医療的介入だった。これには相応の資金と、信頼できる医療チームが必要だった。どちらも問題なかった。ただし、通常の医療の枠内では「全て」に達することはできなかった。人間の技術の限界があった。
その時、アーティファクトの話が持ち込まれた。
研究に投資していた機関の一つから、報告が届いた。
「性質未解明のアーティファクトを発見。生物の構造そのものに作用する可能性がある」
オレは即座に現地に向かった。
そのアーティファクトは、外見は直径十五センチほどの球体で、表面に複雑な幾何学模様が刻まれていた。素材は既知の金属でも石でもなく、検査のたびに測定値が変わった。保管する容器の材質によっても、周囲の環境によっても、反応が変わった。
研究チームは慎重だった。
「直接接触は危険かもしれません。まずさらなる分析を」
オレは聞かなかった。
触れた。
その瞬間の感覚を言葉にするのは難しい。痛みとも快感とも違う。全身の細胞が同時に問いかけられているような感覚だった。「どうなりたいか」という問いに、体の全部が答えていた。
気を失った。
目が覚めたのは三日後だった。
最初に気づいたのは、匂いだ。
病室の空気の匂いが、以前より遥かに細かく分解されて感じられた。消毒液の成分、布団の繊維、窓の外の植生、担当医の体温。それぞれが明確に分かれて、情報として入ってきた。
次に、視野が広かった。
正面を向いていても、横が見えた。視野角が百八十度を超えている。色の識別能力も変わっていた。紫外線域に近い領域が見えていた。
体を動かした。
体が、軽かった。
骨の密度が変わっていた。後で測定したところ、骨は以前より遥かに高密度かつ軽量になっていた。筋繊維の質も変わっていた。
鏡を見た。
見た目は、大きく変わっていなかった。人間の外見を大体保っていた。ただし細部が違った。瞳孔が縦長になっていた。爪が少し鋭くなっていた。肌の下に、何かが走っているような見え方をした。
そして体の構造が、変わっていた。
「全て」を内包していた。
オレは長い間、鏡の前に立っていた。
感情を特定するのが難しかった。喜び、驚き、あるいはそれとは別の何か。
「手に入れた」という感覚はあった。
明確に、ある。
変化はそれだけではなかった。
三日後、四日後と時間が経つにつれ、さらなる変化が現れた。
右肩から、黒い羽の羽軸が生えてきた。
これは文字通りそのままの意味だ。翌朝目が覚めたら、右肩に痛みがあり、確認したら皮膚を突き破って羽軸が二本、生えていた。
医療チームは騒いだ。オレは冷静に観察した。
その後、五日間にわたって変化が続いた。
背中に広がる黒い羽。首の後ろに細かい鱗状の構造。手の甲に微細な模様。犬歯が少し長くなった。夜間の視力が大幅に向上した。
また、感情の温度域が変わった。
これは説明が難しい。以前は怒りや恐怖や喜びが一定の温度範囲で起きていたとすれば、今はその幅が広がっていた。以前はほとんど感じなかった種類の感情が、新しく入ってきていた。
スキルの通知が来たのは、変化が一段落した後だった。
「スキル『群化』が変容しました」
変容、という言葉が使われたのが興味深かった。発現ではなく、変容。つまり元の「感知・弱」が変わったということだ。
効果の説明が流れてきた。
今度は長かった。
スキル「群化」の効果を整理すると、おおよそ以下のようなものだった。
体内に取り込まれた複数の生物的特性が、個別の「意識の断片」として存在する。それぞれは独立した知覚と判断の補助機能を持ち、主体たるオレの意識と連動しながら、それぞれの生物種が持つ知覚・身体能力・本能的判断を提供する。
五つの種。
狼。嗅覚と群れの感覚。距離を超えた環境の把握と、集団の中の個体関係の直感的理解。
ドラゴン。魔力への感応と、圧制の本能。魔的な存在の気配と質の識別、および単純な恐怖の発散。
豹。静止と爆発の知覚。静かにしている時の索敵範囲の拡大と、動いた瞬間の速度と精度の向上。
カラス。情報収集と記憶。見たもの、聞いたものを高精度で記録し、パターンを認識する。
蛇。感知と毒。体温の変化や微細な動きの検出と、生物的毒素の生成制御。
五つが、今のオレの中にある。
アーティファクトが何をしたかは、研究チームも完全には解明できていない。生物的な遺伝情報の再編成が起きているようだが、既存の科学の枠組みでは説明しきれない部分が多い、という報告が届いていた。
オレには構わなかった。
説明できなくても、事実として手に入れた。それで十分だ。
霧深市に来たのは、半月前だ。
理由はいくつかある。
一つは、この都市が日本最大規模のダンジョンを抱えていること。アーティファクトの入手先として、国内で最も活発な場所だ。
もう一つは、この都市に面白い情報が集まっていること。カラスの機能で大量の情報を処理する現在のオレにとって、情報の密度が高い場所は刺激的だ。
そして三つ目は、今のオレが何者なのかを確認したかったこと。
変容後、オレは自分の体と感覚の変化を整理し続けてきた。四十二年間、男性として生きてきた。その後の変化は想定していたものと、想定外のものと、両方あった。
想定していたもの:体の構造的な変化。これは欲していたものだ。
想定外のもの:五種の生物的特性。これは欲していなかったわけではないが、こういう形で得るとは思っていなかった。
そして感情の変化。
これが最も複雑だった。
以前のオレは、感情を機能として使っていた。怒りは交渉の道具、喜びは関係維持のシグナル、恐怖は撤退の判断材料。感情を制御することが力だと思っていた。
今は違う。
感情が、多い。
多すぎる、とも思う時がある。
今朝、ホテルの朝食を取りながら、隣のテーブルの若い攻略者のペアを観察した。
二人は仲良くしていた。笑い合い、食事を取り合い、今日の予定を話し合っていた。
以前のオレなら、この光景に何も感じなかっただろう。あるいは感じたとしても、「こういう関係が人間の効率的な協力関係を形成する」という分析が先に立ったはずだ。
今は違う。
何かが、温かかった。
この感覚が何かを特定するのに少し時間がかかった。
羨望、ではなかった。孤独感、とも少し違った。
おそらく、「美しい」という認識だった。
以前はそういう認識のカテゴリが、これほど鮮明ではなかった。
狼の機能が持つ「群れの感覚」が影響しているのかもしれない、とオレは考えた。狼は群れで生きる生き物だ。群れの中の絆を「美しい」と感じる機能が、今のオレに組み込まれている可能性がある。
面白い、とも思った。
欲望の結果として手に入れたものが、以前は持っていなかった感覚を連れてきた。
午後、ダンジョンに入った。
目的は素材ではない。今のオレの財産に、素材売買の収益が加わっても誤差だ。
目的は感覚の確認だ。
ダンジョンの中で五つの機能がどう動くか、実地で確認する。
地下一層に降りた瞬間、狼の感覚が広がった。
空気の流れが、具体的な情報として入ってきた。前方七十メートルに魔物が四体。右の通路の奥に別の複数体。上層から降りてきた攻略者グループが二百メートル後方にいる。
豹の静止感覚が重なった。
立ち止まっている今、索敵範囲が更に広がった。細部の動きが見えてきた。前方の魔物のうち、一体は負傷しているか疲弊している。動きに不規則さがある。
カラスが記録を始めた。
見たもの、嗅いだもの、感じたものが高速で分類され、記憶に積まれていく。以前も記憶力は良かった。今はそれが機械的な精度になっている。
蛇が前方の魔物の体温を感知した。
通路の石壁を通しても、生物の発する熱がわずかに検出できる。四体の体温分布から、それぞれの大きさと状態が推測できた。
ドラゴンの感応が、地下の空気の魔力の流れを捉えた。
この層では魔力の密度はそれほど高くない。下に行けば変わるだろう。
オレは廊下を歩き始めた。
前方の魔物はゴブリン四体だった。
弱い。
以前のオレなら、戦闘能力として見ればほとんど価値がなかった。しかし今のオレは、五つの機能が並列で動く中で、ゴブリン四体への対処を「情報収集の練習台」として使えた。
接近する前に、四体それぞれの状態をほぼ把握していた。
一体目:右後脚に負傷あり。動きが制限される。
二体目:エネルギー消費が高い。腹が減っているか、あるいは病的な状態。
三体目:アルファ的な行動パターン。群れの中で主導権を持っている。
四体目:若い個体。行動が他三体の反応に依存している。
三体目を最初に排除すれば、残りは統率を失う。四体目は逃げる可能性が高い。
戦闘は三十秒で終わった。
オレは刃物を持っていない。使う必要がなかった。
豹の爆発的な速度で接近し、ドラゴンの圧制で二体を怯ませ、三体目を最優先で処理した。残りは狼の感覚で動きを先読みしながら対処した。蛇の毒は使わなかった。この相手には不要だった。
戦闘というより、作業に近かった。
素材を回収しながら、オレは少し考えた。
以前の自分は、戦闘能力を金で買うことに関心がなかった。護衛は雇えばいい。自分が戦う必要はない。そういう発想だった。
今は違う。
戦えることが、単純に面白かった。
地下五層まで降りた頃、単独の攻略者と行き会った。
三十代前半の男性。装備は中級品。スキルは把握できないが、体の動き方から剣術系の訓練を積んでいることがわかった。
向こうもオレを見た。
オレの外見を見る時の人間の反応を、最近よく観察している。
驚き——これは全員にある。人間的な外見を保ちながら、明らかに人間ではない要素が複数ある。翼の羽軸は今は収めているが、瞳孔の縦長は隠せない。動きの質が人間のものではない。
次に来るのは、人によって違う。
警戒。恐れ。好奇心。あるいは——少数だが——何か別のもの。
この男性は、好奇心の割合が高かった。
「珍しい人を見ましたよ」と男性が言った。
「人ではないかもしれない」
「そうですか。でも話してる」
「それは確かに」
男性はオレの目を見た。縦長の瞳孔を、まっすぐに。
「何者ですか」
「元・人間」
「元?」
「今は複数の要素が混在している。分類が難しい」
男性は少し考えた後、「それは面白そうですね」と言った。
評価でも否定でもなく、純粋な感想として言った。
狼の機能が、この人間の発している何かを感知した。警戒の匂いがない。恐怖の匂いも薄い。
オレは少し意外だった。
男性の名前は橋本慎吾といった。
攻略者歴五年。スキルは「剣閃」で、剣速の向上と軌道の精度を上げる効果があるという。今日は単独で五層の素材採取に来ていた。
「よく一人で来るんですか」と聞いた。
「まあ、慣れてるので。あなたは?」
「調査のようなものです」
「調査? 何の」
「自分の能力の確認」
橋本は少し考えてから、「ああ、変容したんですか」と言った。
「そのような状態になった、はい」
「それは大変だったでしょう」
「大変、とは」
「急に体が変わるって、精神的に」
オレは少し間を置いた。
「望んでのことだったので、それほど」
「望んで?」
「アーティファクトの作用による変容です。完全に制御できたわけではありませんが、大枠では望んでいた方向に変化しました」
橋本はしばらく無言だった。判断しているのがわかった。情報を整理している。
「スキルは?」と聞いてきた。
「変容した。以前は感知・弱だった。今は別物になっている」
「強くなった?」
「使い方が変わった」
橋本は頷いた。それ以上は聞かなかった。
この人間はバランスが良い、とオレは思った。好奇心があるが、踏み込みすぎない。情報を受け取るが、押しつけない。
橋本としばらく同じ方向を歩いた。
特に決めたわけではなく、向かう方向が同じだったのでそうなった。
歩きながら、橋本が言った。
「一つ聞いていいですか。不快だったら言ってください」
「どうぞ」
「体が変わって、どういう感じですか。感覚として」
オレは少し考えた。
「感覚が増えた」
「増えた?」
「以前より多くのものが、多くの精度で入ってくる。今も、この廊下の状況が以前の何倍かの細かさで把握されている」
「それは慣れましたか」
「三ヶ月経つ。まだ慣れていない部分がある」
橋本は黙って聞いていた。
「感情も変わった。以前より多い。種類が増えた感じがする」
「それは」と橋本が少し間を置いた。「辛くないですか」
オレは答えに少し時間がかかった。
「辛いかどうかで言うと、わからない。以前より多くのものを感じているのは確かだ。それが辛さかどうかは、比較の基準が変わっているので判断できない」
「なるほど」
「あなたは単純な答えを期待しなかった」
「ええ、まあ。そんな簡単に答えられることじゃないかな、と思って」
狼が何かを感知した。この男性は、悪意の匂いが本当にない。
六層の広間で、二人は別れた。
橋本は五層に戻る予定で、オレはもう少し深く行くつもりだった。
「面白い話ができました」と橋本が言った。
「そう思うなら、良かった」
「一つ、余計なことかもしれないですが」
「言っていい」
「あなたは自分が持っているものに、もう十分気づいていますか」
オレは少し考えた。
「どういう意味か」
「金で全てを手に入れようとしてきた人なんだろうな、と思いました。聞いてないので違ったらすみませんが」
「外れていない」
「それなら。今のあなたは、今まで金で買えなかったものを持っているかもしれない。それに気づいているかどうか、と思って」
オレは橋本を見た。
「例えば?」
「今私が話した感じでいうと、一つ目は感情の豊かさです。多くなったと言っていましたが、それは力だと思います。二つ目は、体の知覚が広がったことで、世界の解像度が上がっている。三つ目は」
橋本は少し笑った。
「どれだけ金を積んでも買えなかっただろうけど、あなたは今、珍しく、面白い存在だ。それ自体がすでに、特別なものだと思います」
言い終えて、橋本は軽く頭を下げて歩いていった。
一人になった。
廊下の石壁に背中をつけて、立ったまま少し考えた。
橋本の言ったことを反芻した。
感情の豊かさが力だという言い方は、以前のオレは同意しなかっただろう。感情は制御するものだ、という考えが先に来た。豊かさではなく、制御精度が重要だと思っていた。
今は。
わからない、というのが正直なところだ。
体が変わって三ヶ月、感情が多くなって三ヶ月。多い感情をどう扱えばいいかは、まだ体得できていない。
以前は体得していなかったのではなく、そもそも必要がなかった。今は必要が生まれた。だからまだ扱い方を練習中だ。
「珍しく、面白い存在」という言い方が残った。
金で買えるかどうかで物事を評価してきた。価値は交換可能性で決まる、という思想で動いてきた。
橋本の評価は、そのフレームを使っていなかった。
「珍しい」「面白い」というのは、市場価格がない評価だ。
オレはそれを、妙に気に入った。
地下九層まで降りた。
ここからは上層とは質の違う魔物が増える。知性を持つ個体も出始める。
廊下の奥に、大型の魔物が一体いた。
トロール系の個体だ。体高三メートル近い。筋肉の密度が高く、打撃力は相当なものだろう。再生能力も持つと言われる種類だ。
オレは立ち止まって観察した。
狼が匂いを分析した。健康な個体。傷はない。縄張りの中心に近い。
豹が静止索敵を広げた。周囲半径百メートルに他の魔物なし。
ドラゴンがトロールの発する魔力を感知した。強くはないが安定している。
蛇が体温を捉えた。高い。活動状態にある。
カラスが記録を開始した。
トロールがオレに気づいた。低い唸り声を上げた。
オレは一歩前に出た。
ドラゴンの機能を使った。
圧制、と呼ぶには少し違う気がするが、適切な言葉が他にない。ドラゴンという生物が本能的に持つ「序列の上位にいる存在としての気配」を放った。
トロールが止まった。
唸り声が変わった。攻撃的な唸りから、何かを確認しているような、低い音になった。
オレはそのまま前に歩いた。
トロールは動かなかった。道を空けた。
通り過ぎる瞬間、トロールがオレの匂いを嗅いだ。その動作に、敵意はなかった。
面白い、とオレは思った。
戦わなかった。戦う必要がなかった。
地下十一層。
ここはオレにとって初めての深度だった。
空気が変わった。魔力の濃度が上がっている。ドラゴンの感応が、以前より鮮明な情報を拾ってきた。
廊下の壁の素材が変わっていた。上層の石灰岩に近い壁から、黒みがかった鉱石が露出し始めた。魔石を多く含む岩盤だと研究機関の報告で読んだことがある。
魔物の質も変わった。
ゴブリンやトロールのような「生物の延長線上にある魔物」から、「魔力で構成される比率が高い魔物」に変わってくる。オレには前者より後者の方が興味深かった。
以前なら、研究者に任せていた領域だ。
今は、自分で確認できる。
五つの機能が並列で動く中で、オレは廊下を進んだ。
目的地を決めていたわけではない。ただ、もう少し深く行きたいと思っていた。
以前の欲望は「手に入れること」が目標だった。手に入れれば次の目標に移動した。常に未来に向かっていた。
今の感覚は少し違う。
今ここにある経験を、もう少し続けたいと思う。
以前にはなかった感覚だった。
十一層の奥に、広めの空間があった。
天井が高く、壁面に鉱石が露出していた。魔力を帯びた鉱石は弱い光を放ち、空間全体がうっすらと青白く染まっていた。
オレは空間の中央に立った。
五つの機能が、それぞれ独自の情報を送ってきた。狼が空気の細部を分析し、豹が静止索敵で空間を把握し、ドラゴンが魔力の流れを感知し、カラスが全ての情報を記録し、蛇が壁面から発する微細な振動を検出した。
全てが同時に動いていた。
以前はこれが混乱の元だった。情報が多すぎて、何が重要かを絞り込む前に次の情報が来た。
今はそれが落ち着いていた。
各機能が自律的に優先度を判断して、必要なものだけをオレの主意識に上げてくる。
これが「群化」の本来の機能なのかもしれない、とオレは思った。
複数の独立した判断系が、一つの意識の下で協調して動く。
それはオレが長年組織に求めてきた構造に似ていた。
優れた組織は、各部署が独立した専門性を持ちながら、全体としての意思決定に向けて協調する。その理想を、体の中で実現しているかもしれなかった。
オレは少し笑った。
口角が上がる感覚が、以前より自然になっていた。
ホテルに戻ったのは夕方だった。
部屋に入り、シャワーを浴びて、窓の外を見た。
霧深市の夕暮れは、他の都市とは少し違う空気を持っていた。ダンジョンの影響で、夜になると空気中の魔力濃度が上がる。それが街の光に反射して、普通の都市とは少し異なる色合いを作る。
以前なら、それは単なる環境情報だった。
今は、綺麗だと思う。
スマートフォンを手に取った。不在着信が複数あった。秘書から、弁護士から、投資先の研究機関から。
それらを確認しながら、オレは今日のことを整理した。
橋本慎吾という攻略者は、金で計れない評価をした。珍しく、面白い存在だと言った。
以前のオレがそれを聞いたら、「だから何だ」と思っただろう。市場価格のない評価は、実質的な価値を持たない。
今は違う。
その評価が、何かを動かした。
金で全てを手に入れようとしてきた。そしてある時点から、金で買えないものを力で手に入れようとした。アーティファクトという未知の力を使って、自分を変えた。
その変化の中で、以前は求めていなかったものが付いてきた。
感情の厚さ。感覚の細かさ。
そして今日、初めてダンジョンの深い場所で経験した「もう少し続けたい」という感覚。
欲しいものを手に入れることが目標だった。手に入れた後に、次の目標に移動することが習慣だった。
「今ここにある経験を続けたい」という欲望は、以前には存在しなかった種類のものだ。
夜、食事を取った。
ホテルのレストランで、一人で食べた。
テーブルの向かい側が空いていた。
以前は一人で食事することに、何の感想もなかった。今は、少し違う感覚がある。寂しい、というほどではない。しかし「向かい側が空いている」という事実を、以前より意識していた。
狼の機能の影響かもしれない。群れの感覚が、欠如を感知する。
オレは食事をしながら、今後の計画を考えた。
アーティファクトの収集は続ける。霧深市には有望な情報がある。
ダンジョンへの潜入も続ける。今日のように、能力の実地確認として。そしてそれが単純に面白いから。
橋本慎吾とは、また会うかもしれない。次に会えば、話を続けても良いと思っていた。
それから。
スキルと体の変化についての研究を、もう少し自分で主導して進めたい。これまでは研究機関に任せていたが、当事者として自分が把握している感覚情報は、外部の研究者には提供できないデータだ。
食事が終わった。
コーヒーを頼んだ。
窓の外の夜景を見ながら、オレは静かにいた。
静かにいることが、以前より苦でなくなっていた。
以前は静止していると、処理すべき情報がないことへの不快感があった。常に何かが動いていなければ、価値が生まれていなければ、という強迫的な感覚。
今は五つの機能が、何もしていなくても情報を処理し続けている。静止していても、内側が動いている。
これが、今のオレの「休む」という状態なのかもしれなかった。
翌日の朝、オレは長い時間をかけて自分の現状を整理した。
スケッチブックでも音声録音でもなく、カラスの機能を使って内部記録として積み上げていく形で。
現状確認。
体の変化は三ヶ月経過し、新たな形態的変化は収まっている。羽は収納できる。鱗状構造は皮膚の下で安定している。各感覚機能は日常的に使える状態になっている。
スキル「群化」の習熟度は、三ヶ月前に比べて向上した。五機能の並列稼働の安定性が高まった。それぞれの機能が主意識に送ってくる情報の優先度付けが、自動化されてきた。
感情の増加については、まだ習熟中だ。多い感情を「持て余す」ことが減ってきたが、完全には扱えていない。特に群れへの感覚と、経験への愛着は、制御という方向性ではなく、共存する方向性で対処しつつある。
財産の管理は継続している。変容後も、遠隔で問題なく行えている。
目標の更新が必要だ。
以前の目標は「全てを手に入れる」だった。その証明として、金で得られないとされたものを体の変化によって手に入れた。
しかし橋本が言った通り、今のオレは「手に入れたもの以外」を持っている可能性がある。
それが何かを、まだ完全には把握していない。
次の目標は、それを把握することかもしれない。
夕方、オレはもう一度ダンジョンに入った。
今日は深くは行かない。三層から五層の範囲で、昨日とは別の目的で動く。
目的は、他の攻略者の観察だ。
以前の自分は、他人に関心が薄かった。人間は基本的に利用するか、利用されないよう管理するか、どちらかの対象だった。個人への関心は少なく、類型への関心の方が大きかった。
今は少し違う。
橋本慎吾という個人が、予想外のことを言った。個人として興味深かった。
そういう経験が、初めてではないかもしれないが、以前より頻度が上がっているとカラスの記録が示している。
ダンジョンの三層で、いくつかの攻略者グループとすれ違った。
それぞれを観察した。
各グループの中で、各人がどういう役割を果たしているか。感情のやり取りがどう行われているか。信頼と警戒が空気にどう混ざっているか。
以前は見ていなかった種類の情報だ。
今はそれが、自然に入ってくる。
五層の広間で、休憩している単独の攻略者に話しかけた。
二十代の女性だった。軽装で、スキルは把握できなかった。
「少し座ってもいいですか」
「どうぞ」
女性はオレの外見を一瞥したが、特に動揺した様子はなかった。
「珍しい人を見ましたよ、と言われることが多いです」と先に言った。
女性は少し笑った。
「確かに珍しいですね。怖くはないです」
「そうですか」
「なんか、落ち着いてる。たぶん、落ち着いてる存在は怖くない」
オレはそれを考えた。
「落ち着いている、か」
「ダンジョンで見る存在の中で、落ち着いてないのは危ないんですよ。人間の攻略者でも、魔物でも。焦りや怒りを持ってると、周囲に影響が出る。あなたはそれがない」
「以前はそうではなかった」
「今は?」
「今は、落ち着いていると思う」
女性は頷いた。
「それは良いことだと思います」
ダンジョンを出た。
外の空気を吸った。夕暮れの空気は少し冷たく、霧深市の街の匂いが混じっていた。
狼の機能が、街全体の気配を広く感知した。何万人という人間の生活が、気配の集合として伝わってきた。
以前なら「資産として管理すべき人的資源の集合」として見ていたかもしれない。
今は違う見方をしている。
何万人が、それぞれの生活を送っている。それぞれに感情があり、目標があり、関係がある。その集合体が街だ。
オレはその中の一個として、今日ここにいた。
世界全てがオレのものだ、という考えが以前はあった。
今もある。しかし意味が変わった。
以前の「オレのもの」は所有の話だった。支配し、管理し、処分できることが「オレのもの」だった。
今の「オレのもの」は、少し違う。
体験できる、という意味かもしれない。
何万人の生活も、ダンジョンの深層も、橋本の言葉も、今日話した女性の落ち着きについての観察も。五つの機能が拾ってくる膨大な情報も。変化した後の自分の感情も。
全てがオレの経験として積み上がっていく。
その意味での「全ては俺のもの」が、今のオレには近い。
夜。
最上階のスイートで、天窓から星を見た。
カラスが今日の全情報を内部記録に収めていた。
狼が夜の街の気配を拾っていた。
豹が静止しながら、静かに外を索敵していた。
蛇が室温の微細な変化を感じていた。
ドラゴンが夜の空気の魔力の流れを感知していた。
オレは天窓を見ながら、静かにいた。
全てを手に入れようとしてきた四十二年間。
それは間違っていなかった。証明は出来た。
ただ、手に入れた先にあるものを、オレはまだ探している。
それがわかっただけで、今日は十分だった。
——第四話:完——




