雲の種
翌日、草原には昼過ぎの陽光が柔らかく降り注いでいた。遠くの空は澄み渡り、風はゆるやかに、草の海を撫でた。
「よし、ここなら大丈夫そうだな」
カイルは荷を下ろしながら空を見上げる。
「人もいないし、試すにはちょうどいい」
二人は手早く焚火台を組み、持参した薪に火をつけた。火はしばらくして赤々と燃え始め、パチパチと音を立てて息づく。
「じゃあ、いくか」
カイルが言うと、ネマは革袋の中から、小さな包みを取り出した。霧晶石の粉から調合した特製の薬──雲の種だ。
「火にくべれば、熱で布が破れて、中身が拡散する」
ネマはそっと包みを焚き火の中心に置いた。
──しゅっ。
唐突に、包みが破裂する音がした。それと同時に、焚火の中心から、白いものが静かに湧き上がりはじめた。
「おお?」
カイルが小さくつぶやく。
それは一見、煙のようだった。炎の勢いに押されて立ち昇るかと思えば、すぐに下に落ちてたなびき、水のように流れる。二人の元に届いたそれに、煙のような匂いはなく、ひんやりと冷たく心地よかった。
白いもやの量は次第に増えていき、泉のようにこんこんと湧き続けた。カイルは初めこそ感動していたが、視界の大半が白く覆われるようになると、流石に焦り始めた。
「なあ、これ……やばくない?」
ネマはほとんど全身が霧の海に飲まれそうになりながら言った。
「……かも」
カイルはネマの手を引きながら、焚き火から少し離れた高台に移った。薪は数十分持つほどしか入れていない。じきに火が尽きて、煙も出なくなるはずだ。
「……すごいな、これは」
高台から見下ろすと、改めて自分たちがやったことの大きさに慄いた。
草原にはわずかな起伏があり、霧はそれに従って低きに流れていた。やがて窪みのようになっている場所に流れ込み、まさに雲のように佇んでいる。
「でも、これは雲じゃない」
ネマは淡々と言った。
「これを空に上げないといけない」
カイルはちらとネマの顔を見て笑った。
「でも、もう考えてあるんだろ?」
ネマは空を見上げながら、不敵な笑みを浮かべた。
⸻
火の後始末をしてから家に帰ると、ネマはすぐに本棚から一冊の本を取り出し、ページを捲り始めた。
カイルはネマの横にしゃがみ込み、本の見出しを覗き込んだ。『歴史・民話・神話』──よくここまで眠くなりそうなタイトルを付けられるものだ、とカイルが感心していると、ネマの手が止まった。
本のページをじっと見つめながら、指先で端をそっとなぞった。
「……やっぱり、風見台だ」
カイルは先を促した。
「街の上の?」
ネマは頷き、ページの端に指を当てた。
「昔、あの場所は“雨乞いの丘”って呼ばれてた。町民が集まって火を焚いて、煙がまっすぐ天に昇ると、雨が降るって信じられていた。……でも、ただの儀式じゃなかったと思う」
「煙が……天に?」
「うん。『篝火の煙、空高く昇り、七日後に恵みの雨が降る』」
カイルは少し驚いたように口を開いた。
「じゃあ……雨を降らせる儀式は昔からあったのか」
「うん。どれくらい効果があったかは分からないけど」
ネマは続けた。
「それと……サラと会った日のこと、覚えてる」
忘れるわけがない。ポーションが売れず、風見台でぼーっと街を見ていたとき、鮮やかな橙のスカーフを風に揺らして現れたサラ。その出会いが、後の流れを大きく変えた。
「……そういえば、あの日も風が強かったよな」
カイルは思い出しながら言った。
「そういう日もあるか、と思ってたけど」
ネマは自信なさげに言った。
「もしかしたら、街からの風が斜面に当たって、向きが変わっているのかも」
「つまり……風が、上に向かって流れてる場所ってことか?」
ネマは静かにうなずいた。
「草原じゃ、霧は下に流れて登らなかった。……でも、もし本当にあそこが“雨乞いの丘”なら」
一拍置いて、ネマは言った。
「本当に雲を空に上げて、雨を降らせられるかも」
⸻
「ええ!? 本当に晴れさせられる?」
サラの叫びに、カイルは耳を押さえながら答えた。
「『かも』な。まだ成功するか分からないんだから」
「でも、昨日の実験では霧が出たの。泉みたいに」
ネマが言葉を挟むと、サラの目がぱちくりと瞬いた。
「泉……の霧?」
「あの森の素材で、霧を出す薬を作ったの。空にあげれば、雲になるかも」
サラはテーブルに手をついたまま、じっとネマを見つめている。
「……え、晴れさせたいのに、曇らせてどうするの?」
至極まっとうな疑問だった。ネマは順番に説明する。
「サラがこの前言ってたでしょ。『雨の日の後は、気持ちよく晴れる』って」
「『かきいれどき』ってやつ」
カイルはいつかのやりとりを思い出しながら言った。
しばらくの沈黙のあと、サラが「……あー!」と声を上げた。
「そういえば言った! よくあるんだよね」
「それが鍵なの」
ネマの声に熱がこもる。
「雲の正体は水。それが落ちてくるのが雨だから、雨を降らせて水を使い切ってしまえば……」
サラもだんだん理屈が呑みこめてきたようだった。
「雲の元がなくなって、スッキリ晴れる?」
ネマは頷く。
「だから、まず雲をつくって雨を降らせる。それにサラの協力が必要なの」
「……私?」
目を丸くするサラに、ネマは作戦を説明した。
風見台で火を焚いて、ネマが調合した薬を使いたいこと。祭りの前に一度実験して、効果の検証をしたいこと。そのために、風見台を使う許可が欲しいこと。
サラは話を聞き終えると、腕を組んでしばらく黙り込んだ。
ネマもカイルも口を閉じて、じっと待つ。いつもは明るく軽口を叩く彼女が真剣に考える姿には、どことなく威厳すら感じられた。
「……よし。じゃあ本気でやるなら、本気で手伝うよ。風見台の件、許可を取れないか掛け合ってみる」
カイルが思わず声を上げた。
「ほんとか!?」
「ほんとほんと。祭り関係の集まりが定期的にあって、街の偉い人も出てくるの。二人の名前を出したら、無碍にはできないと思うし」
二人は一瞬、意味が分からず首を傾げた。
「……知ってる? 町長の息子、セラさんの薬で助かったんだよ」
カイルとネマは顔を見合わせた。ネマはなぜか、自分が褒められたときよりも誇らしげだ。
「ギルドの人、材料とか作り方とか、根掘り葉掘り聞かれると思うけど、それはいい?」
ネマは少しだけ考え込んだあと、静かに頷いた。
「仕方ない。毒とかじゃないって、不安だと思うし」
「よし!」
サラはぐい、と伸びをして言った。
「次の集まりは3日後だから、話が進められるのは、多分1週間後くらいかな。しっかり準備しといてよ」
カイルとネマは顔を見合わせ、同時に深く頷いた。
「ありがとう、サラ。本当に助かる」
「うん。任せてってば。……あとさ」
サラはいたずらっぽくネマに言った。
「これがうまくいったら、『晴天の錬金術師』って、街で噂になるかもよ?」
「……いらない」
ネマが即答し、三人で笑い合った。
現実にも、人口降雨という技術があって、クラウドシーディングとかレインメイキングとか呼ばれているそうです。北京五輪のときにニュースでそれを見て、昔の篝火の前で祝詞を読んだり舞ったりする雨乞いも、案外理にかなってたのかもな〜みたいなことを考えたのを思い出しながら書いたのがこのエピソードです。