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雨のち晴れ

数日後、風見台の使用許可が正式に下り、ネマとカイルは風見台に向かった。


空にはまばらに雲が浮かび、気持ち良い晴れというほどでもないが、雨が降るような気配はない。


風見台の上には、少し湿った生ぬるい風が吹いていた。

高台にあるその場所は、街全体を一望できる見晴らしの良い場所で、昔は「雨乞いの丘」とも呼ばれていたという。


草原とは違い、風は斜面を駆け上がるように吹いている。あのときの霧が、もしこの風に乗れば……。


カイルは焚火台の設置を終え、慎重に薪を並べていく。横ではサラが見張り役として周囲に目を配っていた。ギルドからも見学兼立会人が一人ついてきている。メガネをかけた彼は、注意深くネマとカイルの動作を観察していた。


「じゃあ、始めるよ」


カイルが火をつけると、薪はしばらくして赤く燃え始めた。

ネマは革袋から包みを取り出す。草原で使ったものよりも、ひとまわり大きいものだ。


ネマは包みを入れる前、カイルとサラの方を見た。お互いを見て頷いたあと、ネマは包みを火の中心に投げ込んだ。


──ぱしゅん。


破裂音のあと、白い霧がふわりと湧き上がる。それはすぐに火に押し上げられ、台の上を覆い、やがて風に乗って上空へと舞い始めた。


「……登ってる」


ネマがぽつりとつぶやく。草原では地を這っていた白霧が、今回は空へ、空へと引き上げられていく。まるで空に吸い込まれていくように。上昇した霧は、次第にふわっと散って、緩やかに空に広がっていく。


「……失敗か?」


カイルは額の汗を拭いながら言った。


「見て!」


サラが空を指さす。霧が流れ込んでいく先、風下の空の一角に、白い塊がぼんやりと浮かんできた。カイルは目を擦ってもう一度そちらを見た。だんだんと色が濃くなっている……ようにみえる。


しばらく待つと、空のあちらこちらに白い塊が浮かび、少しずつ育ち始めた。色も綺麗な白から、だんだんと沈んだ灰色に変わっていく。


「……これは、もしかすると、もしかするんじゃ」


……ぽつり。


そのとき、何かがカイルの頰をかすった。触ってみると、透明な液体が指についている。


カイルは初め、自分の汗かと思った。しかし、舐めてみても、味はしなかった。


「……水、だ」


次第に、落ちてくる雫の数が増えていく。いつもなら何でもないことなのに、そのことがカイルには魔法のように思えた。


カイルがネマを見ると、彼女も興奮の眼差しで見返した。頬が赤く染まり、口元がわずかに震えている。


サラはいまだに、信じられないという面持ちでぼーっと空を見上げている。


「……降ってる……ほんとに、降ってる……」


誰に向けるでもなく呟いたあと、突然、彼女は顔をぱっと輝かせた。


「降ってるー! 本当に降ってるー!!」


叫びながら、サラはびしょ濡れになるのも構わずネマに抱きついた。ネマは嬉しそうに、されるがままにしている。


「……驚きました」


少し離れて見ていたギルドの立会人が、三人の前に歩いてきて言った。


「正直、半信半疑、いや、ほとんど信じてはいなかったんですが」


空を見上げ、微笑を浮かべていった。


「……これを見ると、流石に信じないわけにはいきませんね」


掛け値ない称賛の言葉に、カイルは少しむず痒い気分になって言った。


「まだ明日、晴れると決まったわけじゃ」


「うるさいっ!」


カイルが釘を刺そうとすると、サラはカイルの方をバシンと叩いた。


「これだけでも、すごすぎるんだから! 大魔法使いにだって、できるか分からないことをしたんだよ!」


カイルは、確かに、と笑った。


徐々に強くなる雨足に押されて、その後すぐに四人は解散し、カイルとネマはびしょ濡れで家に帰った。


服を着替え、食事をしている間も、雨は降り止まなかった。眠りに入るときもそれは変わらず、春の陽光のように優しく、雨はしとしとと降り続けた。二人は、心地よい雨音を聞きながら眠りに入った。


翌日の朝、カイルが目を覚ますと、まだ登ったばかりの日の光が、柔らかく寝室に差し込んでいた。


勢い部屋を飛び出して、勢いよく外へのドアを開けると、青く澄んだ青空が、どこまでも広がっている。


カイルの足音が聞こえたのだろう。少し遅れて、ネマが寝室から出てきた。まだ寝起きモードのネマを、カイルは家の外に招き出した。ドアを潜り抜けた瞬間、ネマは大きく目を見開いて、空を見つめた。


「……晴れた」


辺境の街の、そのまた外れにある錬金工房。


そこで、歴史に名を残す錬金術師が生まれた瞬間だった。



数日後、夏至祭りが近づくにつれて、街は明らかに活気づいていた。


通りには装飾の布や灯りが吊るされ、市場の店々は競うように品出しを始めた。特に果物や酒、花飾りなど、祭りに欠かせないものはどれも軒先に山積みにされ、値札に鮮やかな色の紙が踊る。


そんな街の人々の間に、とある噂がひっそりと広がっていた。


——今年の夏至祭りは、商人ギルドが雲払いするらしい。


最初は与太話だと思われていた。だが先日の雨を経て、風見台での奇跡のような実験を目にした者が語り始めると、話は一気に現実味を帯びた。とくに市場では、あの雨のあとに青空が広がったという事実が、じわじわと熱を帯びて広がっていた。


祭りの数日前、商人ギルドが風見台に篝火台を準備し始めると、その熱は最高潮に高まった。今や街の誰もが、魔法のような雲払いについて噂している。噂にはおひれがついて広がり、中にはとんでもないものもあった。


「なんでも、古の儀式を復活させるらしい」

「王宮の魔法使いがやってきて、天候魔法を使うんだとよ」

「いや、賢者の石でとんでもない魔道具を作ったって聞いたぞ」


ネマは市場で材料を調達しながら、うんざりとしている様子で言った。


「……あんな大きな篝火、要らないのに」


カイルは荷物を肩に担ぎながら苦笑する。


「そっちの方が安心するんじゃないかな。あんな小さな焚き火だと、空に届くか不安というか」


「そうだけど……まるで見世物」


ネマは困ったように溜息をつきながらも、籠の中の素材をひとつひとつ確認していく。大仕事を前に、流石に神経質になっているようだった。既に必要な分の霧晶石は集め終えていたので、後は帰って調合するだけだ。


家に帰って食事を摂ると、その日は早く寝て、翌日に備えた。


次の日、しっかり部屋を暖かくしてから、またカイルの重労働で霧晶石を粉まで引くと、ネマが調合に入り、予備の分も合わせて数回分の雲の種(クラウドシード)ができた。それらを丁重に紙に包み、さらに別々の布で包んで、ガラス製の密閉容器の中に保管する。


蓋をしっかり閉めると、ネマとカイルは、お互いを見て深く頷きあった。「できることは全てやった」という、満足と達観をないまぜにしたような感情。後は祭りの前日、あの篝火に放り込むだけだ。



ついに、その日はやってきた。


夏至祭りの前日、カイルが工房のドアを開けると、むわっとした空気が全身にまとわりついた。空は一面の灰ではないが、ところどころに厚みのある雲が浮かび、日差しはときおり顔を覗かせては、すぐに翳った。遠くの山の稜線も、少し霞んで見える。


「怪しい空模様だな。本当に晴れるんだろうか」

「魔法使い様だか錬金術師様だか知らんが、とにかく晴らしてくれればいいよ」


ネマとカイルが市場を横切って歩いているときに聞こえた市場の喧騒も、どこか緊張を含んでいた。果物の箱を並べる手が、ふと空を見上げて止まる。子どもたちは浮かれて走り回るが、大人たちはどこか「本当に晴れるのか」という思いを隠しきれずにいた。


風見台にたどり着くと、既に商人ギルドの数名が準備を始めていた。その顔ぶれの中にサラを見つけ、思わずネマとカイルの顔が綻んだ。


サラはネマたちに気づくと、軽く手を振って駆け寄ってきた。


「よかった、時間ぴったり! こっちの準備はバッチリだよ」


その顔には緊張も見えたが、それ以上にどこか誇らしげな笑みが浮かんでいた。二人が来ると商人ギルドのメンバーも集まってきて、軽く挨拶を交わした。純粋に喜んでいる者も、半信半疑の者もいたが、準備はしっかりしてくれているようだ。篝火台には乾いた太い薪が互いに交差するように置かれ、火を安定させるための細い枝や火口も準備されている。


そうこうしているうちに、見物に来た町民たちが、風見台の下の小道にちらほらと集まりはじめた。祭りの支度を終えた若者たちや、道端に腰を下ろした老人たちが、口々に空の話をしながら目を上に向けている。


「いよいよだね」


サラは興奮冷めやらぬ口調で言った。


「……うん」


一方でネマは、やはり少し緊張が勝っているようだった。


カイルがかける言葉を探していると、群衆から小さく歓声が上がる。ギルドのメンバーが篝火台に火を入れたのだ。やがて台の中央に赤々とした炎が立ち上がる。ぱちぱちと薪が爆ぜ、煙が空へと伸びていく。


「ここまで来たんだ。後は、あれを火に投げ込んで、帰るだけさ」


カイルはいかにもなんでもないことのように言ったが、少し声はうわずっていた。


そのとき、風向きと風量を測っていたギルドの手伝いが、ネマに合図をした。


ネマは頷き、深呼吸を一つしてから、革袋の中から丁寧に紙包みを取り出した。中には銀白色の粉末──雲の種(クラウドシード)が包まれている。


「……いくよ」


カイルとサラに目で合図を送り、雲の種(クラウドシード)を炎の中にそっと投げ入れた。


包みが弾ける音と共に、白い霧がふわりと現れる。煙のように見えるそれは、瞬く間に膨らみ、風に乗って空に登っていく。ぐんぐんと空に引き込まれるように白い霧は、天に至る坂のようだった。


風見台の下にいた見物人たちも、その異様な光景に言葉を失っていた。白い霧が空へ昇り、徐々に空に広がっていくさまは、誰の目にもただの煙ではないと分かった。


しばらくすると、空の一角にふわりと白いもやが集まり出す。最初は淡く、やがてそれが徐々に厚みを増し、輪郭がぼんやりとしてくる。


「……あれ、雲か」


誰かがぽつりとつぶやいた瞬間、まるで合図のように周囲がざわめき始めた。雲は少しずつ数を増やし、重なり合うようにして、やがて風下の空一面を覆っていく。明るかった空が、次第に灰色に染まり始めた。


ネマとカイルにとっては一度見た光景だったが、だからこそ二人は胸を撫で下ろした。じきに雨が降り、空の水を使い尽くす。そして明日には、きれいさっぱり晴れるのだ。


やがてぽつりぽつりと雨が降り始めると、群衆のどよめきは悲鳴と歓声に変わった。──もしかすると、雲を払う為に、雨を降らせることを知らない人もいたのかもしれない。そんな誤解も、明日には晴れているはずだ。


ネマたちはギルドの簡単な後片付けに付き合った後、びしょ濡れのまま工房へと戻った。サラは一足先に市場へ向かい、明日の準備をするという。


帰宅して服を着替え、食事を終えたあと、ネマは久しぶりに少し長い風呂に入った。そして湯上がりに「……疲れた」と一言だけ漏らして、自室に戻っていった。


カイルも静かに灯りを落とし、雨音に包まれながら布団に身を沈めた。


外では、まだしとしとと静かな雨が降り続いている。


魔法でも祈りでもない、自分たちの手で作った雨。

その音は、心の奥にまで染みわたるようだった。


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