満たされた願い
翌日の朝。
まだ日が昇る前だったが、カイルは気持ちが落ち着かず、目が覚めてしまった。
ネマを起こさないように、一人、調合部屋に足を運ぶ。
冷えた空気が張りつめるなか、魔道具の中では紅の液体がゆっくりと波打っている。中央には、指先ほどの大きさに育った、紅い結晶が、ゆっくりと光を反射している。
「……できてる」
声に出すと、胸の奥がじんと熱くなった。
今度こそ、終わったのだ。
器の前に膝をつき、カイルはしばらく、その光を見つめていた。
──ようやく、辿り着いた。
そのとき、背後から布のこすれる音が聞こえた。
「……お兄ちゃん?」
ネマだった。髪はぼさつき、目元はまだぼんやりしている。
「あ……ごめん、起こしたかも」
「……いい。私も、気になってたし」
ネマはカイルの隣に腰を下ろし、静かに魔道具を覗き込む。結晶を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……きれい」
その声に、カイルは小さく笑って頷く。胸にわずかに涙の熱が滲んだ。
「ああ……そうだな」
ふたりは言葉もなく、ただ並んでその光を見守った。
迷い、苦しみ、積み上げてきた日々が、報われたような気がしていた。
⸻
朝食をとったあと、ネマはソファに沈み、湯気の残るカップを手にしたまま眠ってしまった。
よほど疲れていたのか、普段澄ました雰囲気の彼女にはめずらしく、ふにゃっと口を開けて寝息を立てている。
カイルはネマの手からマグカップを取って傍に置き、そっと毛布をかけてやると、しばらくその寝顔を見守る。
──賢者の石は、まだ完成していない。
けれど、それはまた今度考えればいい。命さえあれば、やり直しはいくらでもできるのだから。
⸻
日が高くなった頃、ネマが目を覚ます。
「……寝てた」
「ああ、疲れたんだろ」
窓の外を眺めながら、ネマはぼそりと呟いた。
「……もうひと寝入り」
ぼふ、とクッションに顔をうずめる。
カイルは苦笑しながら問いかける。
「おいおい、そんな寝てていいのか?」
「……なに」
もったいぶった言い回しをするカイルを、ネマは少しうっとうしそうに見つめた。
「実は今日、あの店を予約しておいたんだ」
「あの店って……えっ」
ネマの目が見開かれる。
それは家族でよく通った、小さなレストラン。決して高級な店ではないが、節目のたびに四人で囲んだ食卓のぬくもりがあった。特に、その店のプリンは、ネマの大好物だった。
「……早く言ってよ」
ネマはそわそわと支度を始める。淡い紫のワンピースに、胸元には星墜石のブローチを飾って。
「よく、似合ってるよ」
カイルが言うと、ネマは恥ずかしそうに笑った。
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午後の街は、冬の陽を柔らかく浴びていた。
ふたりは並んで路地を歩き、店を見て回る。買い物というよりは、気ままな散歩のようだった。
小さな噴水広場を通りがかるとき、焼き菓子を頬張る子どもたちを横目に眺めるネマに、カイルが釘をさす。
「今食べたら、食べられなくなるぞ」
「……分かってる」
その店は、街の外れにひっそりと佇む、小さなレストランだった。
木の扉を開けると、香ばしい匂いと共に、懐かしい空気が迎えてくれる。厨房から顔を出した老人が、目を細めて笑った。
「いらっしゃい。……おや、これはまた」
ネマは恥ずかしそうに頭を下げ、カイルは元気よく挨拶を返す。
注文したのは、いつものメニュー。あたたかいシチューに、香ばしいパン。そして、ネマが心待ちにしていた、デザートのプリン。
「やっぱり、ここの味、好き」
頬をほころばせるネマを横目に、カイルは久々の安寧を噛み締めていた。
⸻
茜に染まった空が、夜の藍に呑まれ始めた頃、ふたりはレストランを後にした。
風が少し強くなってきたが、空は澄みわたっている。
風見台までの道を、ふたりは並んで歩いていく。
登り切った頃には、街にはすっかり夜の帷が降りていた。
二人は、そよ風に揺れる草の上に腰を下ろし、空を見上げる。
「……夏祭りで、ゆっくり見られなかったでしょ」
ネマがぽつりと言う。
カイルは頷いた。確かに、遡った直後は倒れてしまい、あの夜空を最後まで見届けることはできなかった。
──こんな時間が、また来てくれるなんて。
報われたと、ようやく思えた。
そのときだった。
ネマの胸元の星墜石が、ふっと淡く光を帯びた。
ネマは驚いて、そっとブローチに手を当てる。
カイルにとっては何度か見た光景だったが、今回は不思議と、柔らかく優しい光のように感じた。
その光は、願いが満ちたことを告げるように輝き、ネマは眩しそうに目を逸らした。
やがて、光はゆっくりと落ち着き、溶けるように消えていった。
(……ありがとう)
カイルは心の中で、そっと礼を言った。
──ふと、次の瞬間。
ネマがふらりと体を傾け、草の上にしゃがみこむ。
「おいおい、大丈夫か?」
ネマは小さくうめいて、両目を手で押さえた。
「立ちくらみか?」
カイルも後ろにしゃがみ込み、背中をさすってやる。
ネマはしばらくその場でじっとして、動かない。
やがて、消え入るような声で、つぶやいた。
「……い、痛い」
その声に、ぞわりとカイルの全身が泡立った。
嫌な、予感がした。
地面に目を落とすと、星墜石はもう光を失い、抜け殻のように転がっていた。