分かち合い
もうひと組のマスクとゴーグルが届くには、さらに一週間近く待つことになった。
しかし、カイルが同席することを決めた以上、それは決して譲れないことだった。
──急ぐ必要はない。確実に、着実に、積み重ねていけばいいのだ。
ついにマスクとゴーグルが届いた翌日、工房に、再び火が灯った。
姿鏡の前に立ったネマは、鏡越しに錬金台を覗き込む。防塵マスクとゴーグルをしっかり装着し、手順通りに器具を並べていく。
その横で、カイルが直接素材を見つめていた。視線を遮らぬように、だが無理のない位置で、ネマの手元を見守る。
「見えてるかな」
ネマの問いかけに、カイルは頷いた。
「大丈夫。ちゃんと……見えてる」
ネマの手つきは予行練習の通りだった。しかし、近くで見ると、緊張で汗が滲んでくるのがわかる。手も、わずかに震えている。
まず、銀色の液体を瞳呑石にかける。石はすぐにさらりと溶け出し、液体と一体となって流れ始める。ネマは素早くそれを別の容器に移し、加熱して蒸発を促した。やがて残ったのは、闇を粉にしたような黒い結晶。
カイルは、目を逸らさないように慎重に追う。瞳呑石が元の姿を失っても、視線の役目は終わらない。
──沈殿。溶解。揮発。凝縮。
変化のたびに、ネマの指は一瞬だけ迷い、すぐに正確な位置をなぞる。鏡越しに見るという行為が、どれほど直感に反するか──それを支えているのは、何十回と繰り返された練習の記憶だった。
やがて、紅い薬液が静かに密度を増していく。
「……反応、してる。ちゃんと、魔力を感じる」
マスク越しのネマの声が、わずかに震えていた。緊張がほどけたのかもしれない。
カイルは、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
ネマは容器の口を密閉し、錬金台にそっと置く。紅の液体は光を受けて淡く揺らぎ、その内部では、ごく細かな結晶が静かに浮遊していた。
──そのとき、不意に肩を叩かれる。
カイルが顔を上げると、ゴーグル越しにネマと目が合った。
わずかに息の漏れるような笑み。頷き。言葉はない。
だが、はっきりと伝わってきた。
──終わったよ。
二人は顔を見合わせたまま、どちらからともなく頷いた。
静かな達成感が、工房の空気に溶けていった。
⸻
その日を境に、二人のあいだに一つの規則が生まれた。
一日はネマ、次の日はカイル。
交代で瞳呑石の視線を引き受けながら、カーディナイトの結晶化を進めていく。素材を溶かし、新たな溶液を調合し、前日の溶液と入れ替える。これを三十日間、毎日繰り返すのだ。
一度成功しているとはいえ、毎日の作業は決して楽なものではなかった。
なんといっても、数時間は立ちっぱなしなのだ。カイルにとってさえ、身体的にも精神的にもきつい。そのうえ、長時間の集中を要求されるネマの負担は、想像を超えるものだった。
そうやって一週間、二週間と錬金を続けているうちに、三週間目の朝がやってきた。
前回、咳が出始めたのは、ちょうどこのタイミングだった。
だが今回は、防塵対策を徹底している。エリオの言葉が正しければ、発症は起きないはずだ。
錬金を始める前、二人には一つの約束があった。
──咳が出たら、中断する。
それは命を守るための、絶対の境界線だった。
⸻
調合部屋の前。
ネマは錬金用の作業着に袖を通し、ゴーグルのバンドに手をかけたところで、手を止めた。
隣で、カイルもゴーグルとマスクを構えていた。
「……今日も、行くか」
カイルが言うと、ネマはこくりと頷いた。
マスクをつける前に、二人は胸いっぱいに空気を吸い込む。
ひと呼吸、ふた呼吸。
ネマはそっと息を吐き出し、カイルの目を見て微笑む。
いつの間にか、その深呼吸は、錬金を始める前の儀式のようなものになっていた。
「じゃあ……行くね」
ネマとカイルはマスクとゴーグルを身につけ、調合部屋の扉を開けた。
⸻
三週目を過ぎても、ネマの喉に異常は現れなかった。
その報告を受けたエリオは、「そうか」と短く呟いただけだったが、表情の奥にわずかな安堵の色がにじんでいた。
それからもふたりは交代で瞳呑石に視線を込めながら、毎日新たな溶液を調合し、カーディナイトの核へと注ぎ込んでいった。
魔道具の内部では、微細な温度と圧力の調整のもと、紅の結晶が静かに、静かに育ち続けている。
そして──三十日目の朝が訪れた。
外の空気は凍るように冷たかったが、調合部屋には柔らかな冬の陽が射し込んでいた。錬金器具の縁が、朝日に照らされてほのかに金色に光っている。
朝食前、カイルはマグカップを両手で包みながら、指先の冷たさにじっと耐えていた。
もう大丈夫。咳も、金色の輪も出ていない。
それでも、あの記憶が胸の奥にこびりついていた。
やがて、寝室の扉が静かに開き、ネマが姿を現した。
ぼさついた髪をかき上げながら、彼女は少し掠れた声で挨拶した。
「……おはよう」
「調子は?」
カイルが覗き込むと、ネマは小さく笑った。
「眠いけど、それだけ」
その言葉に、カイルはようやく胸の奥の重しが取れたように感じた。
ネマはどこかから活力ポーションを取り出し、眠気覚ましとばかりに一息に呷る。
「……今日で、最後」
ネマは瓶の蓋を閉めながら、ぽつりとつぶやく。
「うん。これで、終わらせよう」
カイルが答えると、ネマは小さく頷いた。
朝食を済ませると、ふたりはいつも通り準備をして、調合部屋へ向かった。
ネマは器具を慎重に並べ、最後の溶液を調合していく。
完成した液体は、これまでよりも一段と深い紅に染まっていた。
「いくよ」
ネマが告げる。
紅の液体が、結晶核にそっと注がれる。
波紋が静かに広がり、やがて、細かな泡が弾け──
静けさだけが、調合部屋に残った。
「……入った」
ネマの声は震えていた。その言葉に、カイルは静かに息を吐いた。
「これで……あとは、待つだけ、だな」
ネマが頷き返す。
溶液は、紅の光をゆるやかにたたえていた。
その奥では、小さな命のように、結晶が息をしているようだった。
ネマが、小さく呟いた。
「……三十日間、長かったね」
カイルは少し笑い、ぽつりと答える。
「本当に、よく頑張ったよ」
そう言いながら、カイルの視線はネマの瞳に注がれていた。
一瞬、胸の奥がざわついた。──金の輪が、また現れるのではないか。
だが、そこにあったのは、いつもと変わらないネマの瞳だった。
「……見過ぎ」
ネマは少し照れるように俯いた。
カイルは小さく笑って言った。
「そりゃ、確認くらいするさ」
そんなふたりの声が、久しぶりに、静かな工房に心地よく響いた。




