最終話 隣
家に着いたとき、うっかり父に見つかってしまった。泣いて腫れた目を見られ、まず叱られた。
「目を腫らすほど泣くなど、お前は子どもか」
それでも使用人に冷やした布を用意させ、わたしに渡してくれた。
目を冷やしながら、洗いざらい事情を吐かされる。終わったタイミングで布を外すと、父がつまらなさそうに頬杖をついていた。
「で、何が問題なんだ?」
「え?」
「お前が情報戦に負けただけの話だろう」
父の言葉を反芻する。そして、気づいた。
「た、たしかに!?」
あんなに泣くくらい苦しかったのに、冷静に考えれば商談相手に踊らされただけの話。いや、それだって相当悔しいけど!
「え、待って。なんでわたし泣いたの……?」
「それをわしに聞くのか……」
父の全身から、呆れが滲んでいた。わたしは父の反応を見て、改めて自分が相当馬鹿なことを言っていると自覚する。
「一応言っておく。親としては、ウィリアム様との婚約を白紙にしても構わない。だが、ハルパ商会会頭としては、婚約を白紙に戻すなら跡取りの座から外れると思え」
相変わらず父の言葉は痛い。それでも、わたしを慮ってくれたことは伝わってくる。
「……ちゃんと、考える」
それだけ言うと、父は鷹揚に頷いた。ふらりとソファから立ち上がる。
父の執務室から出て、部屋に戻る。着替えもせずにベッドに飛び込んだ。
「ウィリアム様……」
まぶたの裏にはちみつ色の髪がちらつく。そもそも契約結婚なんだから、怒ることすらおかしいのだ。
お互い利用し合う関係。
ハルパ家が恩恵を預かる分、ウィリアム様にいいように使われても、文句を言うことではない。
それなのに。
どうしてこんなに悲しいのか。またじわりと目の端に涙が滲む。
頭ではわかっている。契約の条件は申し分ない。これを破棄すれば、わたしは貴族との結婚を二度も破棄したとして今後挽回することはできないし、跡取りの座を失う。
グレッグ様の婚約者として振る舞っていたときも、仕事と同じように淡々と処理できていた。ウィリアム様に対しても同じようにすればいい。
いつもみたいに感情を制御して、淡々と。
それに。
そうしなければ。彼がわたしに向けていた、あの甘さの滲む瞳も。優しく触れる手も。他の誰かのものになる。
「そんなの、嫌……」
胸の痛みが、また強くなった。
※
わたしがぐだぐだ悩もうが、仕事は待ってくれない。どんな相手だろうと、いつものようにこなさなければならない。
つまり、目の前にいるウィリアム様から妥当な金額で、買い取る交渉をするということだ。
「ミシェリー、来てくれて嬉しいよ」
ブラックフェザー伯爵家が所有するサロンの一つ、その一室でウィリアム様がわたしを出迎えた。
わたしの姿を確認したウィリアム様が密かに息をつくのに気づいてしまって、心がざわつく。
「仕事、ですから」
目を逸らして答えた。誰か別の商会員を行かせることも考えた。けれど、ウィリアム様ならこれ幸いと価格を吊り上げるだろうと容易に想像できてしまう。
結局、わたしはウィリアム様と向き合うしかない。
「さあ、始めようか」
着席を促されて、対面に座る。いつもなら、この短い距離すらエスコートを受けていた。
わたしの様子を観察して、あえて控えたのだ。そのことに気がついて、胸がぎゅうっと締め付けられる。
集中しろ。わたしはハルパ商会員としてここにいるのだから。
「では、わたしから。先日の夜会で——」
一度話し始めれば、言葉はスルスルと出てくる。口を動かしながら、ウィリアム様の視線の動き、身体の反応、息遣い……すべてに集中する。ウィリアム様は油断すると、必要な情報の半分もくれないことがある。知ってるくせに知らないふりをして、追加調査したからと値を吊り上げる。
わたしとウィリアム様が婚約しても、それは変わらない。
油断すれば足元を掬われる、そういう厳しい人。その彼が甘く微笑むたびに、目をかけてもらっているのだと嬉しくなった。対等な人間として、認めてもらえたのだと。
全部、ぜんぶ勘違い。思い上がりも甚だしい。
「ミシェリー……、なんて顔をしてるんだ」
ウィリアム様が立ち上がった。テーブルを回り、わたしの隣に座り直す。
彼の両手がわたしの頬に触れた。ウィリアム様は、恍惚とした表情を浮かべていた。
「私のせい?」
ウィリアム様が親指で優しく頬を撫でる。覗き込むように顔を寄せられて、その近さが苦しい。
「お見苦しいところを……」
顔を逸らそうとするのに、できない。強制的に上を向かされて、視線を合わされて。これ以上歪む顔など見せたくないのに。
ぽろぽろと涙が頬を伝って、ウィリアム様の手を汚す。
「綺麗だ」
ウィリアム様の言葉の意味を捉える前に、目尻に唇を寄せられた。そのまま涙を舐め取られて、ビクリと身体が震えた。
「ミシェリー、ごめんね。あなたに嫌がられても、手放せそうにない」
不穏な空気しか感じないそれを、熱い吐息とともに囁かれる。
あまりの熱さにわたしはウィリアム様の上着を掴んだ。
「どうして……」
「あなたが欲しかったから」
わたしの問いに、ウィリアム様は間髪入れず答えた。視線を合わせた緑のなかに、ゆらりと炎が揺れる。
それに気づくとやっぱり身体が震えた。
「ひどい人……」
「うん、ごめん」
情熱的で、独善的で。ちっともわたしのことを考えてくれない。
いつの間にか頬から外されていた手は、わたしの背中に触れていた。囲む腕は優しいのに逃げ出せない。
「なんで勝手に裏で画策したんですか」
拗ねた声になってしまった。甘えているみたいで恥ずかしい。けれど、ウィリアム様は気にせずわたしの背を撫でた。
「怒ってる?」
「怒ってる、というか悲しいんです……。わたしは」
言葉が詰まる。続く言葉は完全なる八つ当たり。
「浮ついている時点で、わたしに情報を売って、……い、一緒にグレッグ様を陥れようって提案してほしかった……!」
「ん?」
ウィリアム様の手が止まった。そろそろと背中から腕が離れて、わたしの二の腕にかかる。
「わたしはハルパ商会の跡取りです。綺麗事だけでやっていけないのは十分理解しています。ウィリアム様が本気でわたしを望んでいると知っていれば、ちゃんと自分で対処したのに!」
言ってしまった。もう開き直って、キッとウィリアム様を睨みつけた。
「ウィリアム様に対等な人間だって、認めてほしかった! 囲われるなんて絶対嫌。これ以上鳥かごにしまうように扱うおつもりなら、どんな手を使ったって逃げ出してやる!」
ウィリアム様が一度口を開けて、閉じた。ふいと横を向いて、口元を手で押さえる。
「ふ、くふっ、……はは、あはは!!」
最初は、声が漏れ出て。次に肩が揺れて。最後に、表情が崩れた。
いつもの貴公子然としたウィリアム様しか見たことがなかった。完璧なその人が、目の前で声を上げて笑っている。
今度はわたしが口を開ける番だった。
「ウィリアム様!」
「ねえ、気づいてる? 『これ以上』って、私のそばに残る前提だよね?」
「!」
そう言いながら、手をとられた。掲げられ、手の甲に口付けを贈られる。
「あなたを見誤っていた私が悪かった。このような仕事していてなお、高潔さを失わないあなたに失望されるのが怖かった」
「ウィリアム様が……?」
「ああ、初めてだ。そんなことになるくらいなら、逃げ道を塞いで、閉じ込めて……商人としてのあなたなら、商会の利益のためにそれを受け入れるだろう、と」
不安げに揺れる視線。わたしの手に触れたままのウィリアム様から震えが伝わる。
完璧なこの人が、わたしのために心を揺らしている。
「それは間違いだった。それでも、逃さない。……逃がしたくない。地の果てまで追いかけて、私の隣に縛り付ける」
狂気を孕んだ強い言葉。それなのに、まるで縋るような響きを持っている。
「……あなたがわたしを対等だと思っている限り、妻として隣にいて差し上げます」
にやりと笑う。それを見たウィリアム様はかえって、ほっとしたように息をついた。
「ミシェリーに関する、すべての策略は事前相談するよ。あなたの意思を確認する」
「ふふ、それはいいですね。契約に加えてください」
真面目な顔をして言われて、声が漏れる。そんなわたしを見て、ウィリアム様が甘く、本当に幸せそうに微笑む。
わたしだけに向けられたそれに、どうしようもなく胸に熱が広がる。
「あなたが望むなら」
さらさらと新しい紙に、正式な書式で約束を書き記してくれた。手渡され、内容を確認し胸に抱く。
「はい、商談成立ですね」
わたしが満足げに頷くと、ウィリアム様は目を細めて、愛おしげにわたしの髪を撫でた。
そして、先ほどのわたしと同じようににやりと意地悪く笑う。
「では、本来の商談の続きをしよう。いつも通り、容赦はしない」
「ふ、望むところです」
お互い仕事の顔に切り替えた。甘い空気は霧散する。
ただ対面ではなく、隣に。距離は触れるほどに近かった。
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