第十六話(最終話)
城壁の上に立つジョーン。やっと見つけた。
ラルフは松明を握りしめ、螺旋階段を駆け上がった。
寄り添ってやれなかったこと。謝ろうとずっと彼女を探していた。
近づくラルフにジョーンは気づいていない。
崖の下を見つめるジョーンの横顔。ラルフの足が石床に張り付いた。
大きく開いて、妙に興奮した目。にんまりと歪んだ口元。
ジョーンは今まで、こんな表情をしただろうか……
「みじめね」
下を見ながらジョーンがささやき、手に持つ枝を持ち上げた。
「ジョーン?」
ジョーンが身震いをして、ゆっくりと体を向けた。
「殿下……」
ラルフは崖の下を覗いた。桟橋を照らす松明。あの男がそこにいた。
思わず体に力が入った。
「逃げてしまいますわ。なぜ捕らえてくださらないの?」
ジョーンがしなだれかかった。
ラルフは歯をぐっと噛み締めた。
やっとのことで口を開いた。
「……ジョーン。すまない。私にはどうしても、あの男が君を襲うとは思えないんだ」
「……私より、あの男を庇い立てなさるの?」
ジョーンの声が甲高く震えた。
「違う、ジョーン。そうじゃない」
慌てて返した。
本当に違うのか?
頭の中に自分の声が聞こえる。
桟橋に立つ男が、振り向きこちらを見上げた。慌てて舟に乗り、松明を海に投げ捨てた。
月明かりに照らされた男に、ジョーンが枝先を向けた。
「ジョーン。何をしている」
ラルフは口元を引きつらせた。
「おまじないですわ」
ぶつぶつと、ジョーンが何かをつぶやき始めた。
まるで魔女のようではないか。
カラスが塔の上からこちらを見ている。
細い枝がピシッと音を立てた。
ラルフはその枝を叩き落とした。
「で、殿下?」
ラルフは深く息を吸い込み、手を見おろした。
枝を叩き落としたこと。
まるで、後悔はない。
脳裏を離れない、すみれ色の瞳の男。
癖のあるリュートの弾き方。
邪な表情をするようになったジョーン。
ゆっくりと頭を動かし、桟橋の男に目を向けた。
桟橋に繋がれた舟のロープが解けず、手間取っている。
ラルフは手を握りしめた。
助けたいと思った。
引き止めたいとも思った。
なじみのある胸のうずきが、答えを教えてくれた。
ジョーンはいつもすぐそばにいた。
なぜ気付かなかった。
ラルフは顔を両手で拭い、隣の女を見た。
もう、ジョーンには見えなかった。
「ペトロネラ……そうか……お前だったのか」
ペトロネラは顔を引きつらせて、あわてて逃げた。
ラルフは構わず螺旋階段を駆け下り、桟橋を目指し走り出した。
しとしとと降り始めた小雨。城の上から立ち上がっていた、何かの煙が消えた。
甘くて苦い臭いが、潮の香りに取って代わった。
満月に照らされた海面。
ジョーンは無心でオールを漕いだ。
対岸までは、まだ遠い。
助けを呼びに行こうとしているのか、彼のもとを去ろうとしているのか、自分でも分からない。
胸にどうしても広がる靄。
ジョーンはオールを漕ぐ手を止めた。
物思いにふけるうちに、潮で舟が流されていた。
頭を左右に振り、再びオールを漕ぎ始めた。
諦めない。
桟橋を踏み鳴らす足音が聞こえた。
ジョーンは座木から腰を浮かせた。
松明を持ったラルフ王子がそこにいた。
「殿下……」
彼がじっとこちらを見ている。ジョーンも、浅く早い息をしながら見つめ返した。
王子は松明を海に放ると、ダブレットを脱ぎ捨て、暗い海に入った。
ジョーンは思わず悲鳴をあげた。
死んでしまう!
泳いで向かってくる王子の方に進路を変え、ジョーンはがむしゃらにオールを漕いだ。
王子の近くまで来ると、ジョーンは舟の速度を落とした。
「ラルフ!」
伸ばした手を、彼の手が掴んだ。
舟尾から、王子が水をボタボタと垂らしながら舟に乗り上がった。
「どうしてこんなことを!死んでしまいます!」
肩で息をしながら船底に座り込んだ王子に、ジョーンはわめいた。
「君を逃さないためだよ、ジョーン」
喘ぐように息をしながら王子が言った。
ジョーンは座木にゆっくりと座り込んだ。
話せるようになったはずなのに、声が出せない。
ラルフ王子が両手を広げた。
「……おいで、ジョーン」
ジョーンは下唇を強く噛み締めながら、信じられない思いで王子を見つめた。
「抱きしめてくれないと、凍え死にそうだ。私に失望していないと、早く言ってくれ」
ジョーンは舟を大きく揺らしながら王子の前──狭い船底に座った。
「失望なんて……」
どうしても自分の男の体が目に入る。
顔を両手で覆って、そのまま身を縮めた。抱きしめる勇気が出ない。
「殿下……私、こんな姿になってしまったわ……」
ジョーンは頭を後ろにそらして、泣きじゃくり始めた。
王子がジョーンの体をかかえ込むように抱きしめた。小刻みに彼の体が震えている。
「どんな姿でも、君は私のジョーンだ。君じゃないとだめなんだ……」
ラルフ王子はささやきながら、ジョーンの短い髪を撫でた。
「そんなのおかしいわ……。今の私は男なのよ」
ジョーンは王子から離れようとした。
「なんとでも言ってくれ!」
声を荒げながら、王子がジョーンを引き戻した。
「君は私から、離れられるのか?」
ラルフ王子の顎がこわばっている。
ジョーンは力なくかぶりを振り、心に従って彼の胸に顔をうずめた。
離れられない……
海水に濡れた王子のシルクのチュニックが、ジョーンの涙でまた濡れていった。
紺色の水平線が少しずつ赤くなり始めた。
ジョーンはラルフと舟底で寄り添いながら、一つのマントを二人で羽織った。
お互いに、何も言葉にできなかった。
舟が波に優しく揺らされている。
潮の流れに、どこか知らない場所まで流されてしまうのではないか。ラルフは思った。
「ジョーン。……このまま二人でどこかに行ってしまおうか」
すべてを捨てて……
マントを頭からかぶって、ラルフの腕の中にうずくまっているジョーン。
ラルフは返事を求めて、ジョーンを軽く揺すった。
何も言わないままじっとしている。
「眠ったのか?」
疲れ果てたのか……
ラルフはマントをめくり、眠るジョーンのつむじに口づけをした。
腰まで伸びた長い髪が見えた。
「ジョーン?」
ラルフはさっとマントを剥ぎ取った。
チュニックとショースを着ていても分かる、たおやかな女の体。
無意識にうめき声が漏れた。
ジョーンはもとの姿に戻っていた。
ラルフは圧倒されながら、ジョーンの髪を一房取り、自分の唇に押しあてた。
波の音、潮の香り。
冷たい雨が顔に当たり、ジョーンは微睡みから目覚めた。
座木に座り、オールを漕ぐ王子がほほ笑んだ。
「ジョーン。もうすぐ岸に着く」
小舟が岸に着いた。
「トマス達をここで待とう」
王子は舟から桟橋に降り、ジョーンを軽々と舟からおろしたあと、高く抱き上げた。
「で、殿下?……重たいでしょう?」
王子が真顔で目を合わせながら、首を横に振った。
「体を見てごらん」
ジョーンははっと息を吸って、恐る恐る体を見下ろした。
細く曲線的な体。胸のところにある膨らみ。
ジョーンは言葉にならない金切り声を上げた。
「殿下!戻ってる!戻っているわ!」
ラルフ王子が笑い声をあげた。
「ああ、ジョーン。これで堂々と、共にいられる」
「どうして?どうしてなの?信じられない!」
王子は感極まった様子で、ジョーンを掻き抱いた。
朝日が昇った。
桟橋で二人寄り添ううちに、雨は止んだ。
潮が引いて現れた砂洲。
島から王子の家臣たちが、馬に乗って向かってくる。
サー・ヘンリーが自分の馬に乗りながら、ラフを引いていた。
「ラフ……」
ジョーンがそうつぶやくと、王子が咳払いをした。
「殿下、姫もやはりこちらだったのですね。ご無事で安堵いたしました」
馬をおりたサー・トマスが疲れ切ったため息をついた。
いなくなった王子を探し回っていたのだろう。
サー・ヘンリーがジョーンを見ながら、激しくまばたきをした。
「そちらのお方は?」
サー・ヒューがヘンリーのふくらはぎを蹴った。
「黙れヘンリー。もう余計なことは言うな」
トマスが頭を下げた。
「ジョーン姫、申し訳ございません。ヘンリーは昨日から、風邪のせいか少しおかしいのです」
ジョーンは思わず目を泳がせた。
サー・ヘンリーは他人行儀な目つきでこちらを見ながら、首をかしげている。
「島に、ペトロネラはいなかったか?」
「──殿下!ご存じだったのですか?」
サー・トマスたちは何処か、そわそわとし始めた。
「実は、島の森の中でペトロネラを見つけたのです。急にナイフで切りつけてきたので捕らえました。……今は城の牢に入れておりますが──」
トマスが言いよどんだ。
「どうした?」
「私は今でも信じられません……ですが、その、確かにこの目で見たのです……」
トマスが島を振り返りながら、音を立てて唾を飲み込んだ。
王子が腰に両手を当てた。
「早く言え、トマス」
「ろ、牢の中で、あ、あの女の姿が男に変わったのです!」
ヒューとヘンリーが同意するように、立て続けに頷いた。
「あの、正気を失って暴れまわる様子、呪われているとしか思えません」
トマスが青ざめた顔で十字を切った。
島から一羽のカラスが飛んできた。
上空を旋回しながら、大笑いするようにけたたましく鳴いている。
「よくやった。お前達の話を信じよう。その男、監獄に移して二度とそこから出すな」
王子の言葉に、トマスは背筋を伸ばして頷いた。
ジョーンは心のなかで、ペトロネラと過ごした歳月に別れを告げた。
カラスがはるか遠くに飛び去って行った。
サー・ヘンリーが辺りをきょろきょろと見回している。
「異端者、あいつはどこだろう。戻ってこいと言ったのに」
ジョーンは息を呑んで王子の後ろに身を隠した。
男だったときのことは、忘れてしまいたい。
「お前にうんざりして逃げたんだろ」
サー・ヒューがどうでもよさそうに言った。
「殿下、ご存知ですか?」
ヘンリーが尋ねた。
「さあな」
ジョーンに振り向いたラルフ王子が、可笑しそうに目を細めた。




