白いガイドポスト
視界が滲んで、上手く見えなくて。
足は痛いし、日もとっくに暮れてる時間だけど、太陽さんが頑張って、まだ空に居残って。
――ほら、ウィンもう少しだから。大丈夫大丈夫!
でも、もう歩きたくないよ。
痛いし、苦しいし、怖いし、嫌だよ。
――俺も、イースもついてるから、大丈夫だ。
私を見下ろす二人の顔は、夕日に照らされて赤くて。
イースの指が、私の目尻の涙を拭って、柊の白いレースのハンカチが、情けなく垂れた鼻水を拭き取る。
加減知らずにごしごしと。
ちょっと痛くて、でも私の支え。
――リリーも、ママさんも待ってるからさ。頑張ろ、ウィン。
分かってた。頭ではそれを分かった。
だけど、まだやっとランドセルを背負い始めたくらいの私には、代行は地獄そのものだったんだ。
それでも、私はやり遂げる。いつだって、頑張ってきたんだ。
イースと柊が居てくれたから。
そして、パパとママが居てくれたから。
私がどんな運命を背負ってるのか知らない二人だけど、私はその存在だけが希望だったから。
でも。
ねぇ、イース、柊。
私は本当に、そうまでして存在する価値があるのかな。
これは、私の我儘なんじゃないかな。
イースは私をぎゅっと抱きしめて、柊は私をそっと撫でた。
二人とも言葉にはしない。
だけど、それは私にとってただ一つの励ましだったんだ。
◇◇◇
「……最悪だ」
「うわっ、何ウィンってば。昼寝からの復帰後第一声がそれ?!」
露骨に嫌な顔をしたイース。
木に凭れて昼寝に勤しんでいた私は腕をぐーっと伸ばしながら、欠伸を一つ。
「最悪な夢よ……はぁぁ」
「あははっ、ウィンにとっての最悪は、いくつもあるから『最悪』じゃないんだよねー」
けらけら楽しげな悪魔に近い天使。ため息を吐きたくなる衝動が抑えきれない。
目を擦って、周囲を確認すると、大分陽が暮れていた。
「そろそろね」
「だね! 楽しみ楽しみ!」
嬉しそうなイースが羨ましいわ。引き攣った笑みしか返せやしない。
グレーテルを探して視線を巡らせると、不機嫌な顔をして柊と何か話し込んでいた。
柊は柊で深刻そうな横顔を見せている。
なんだろ。嫌な予感がするな。
「……イース、何かあったの?」
立ち上がって、草を払いながら私は鼻歌を歌っていたイースに問いかける。
イースは鼻歌を切りのいいところでフィニッシュさせ、私を見やった。
「何で?」
「柊が深刻そうだから」
二人の様子を指さすと、イースは首を傾げた。
「うーん……そうだねぇ。……でも」
「でも?」
「特に変調は感じてないから、物語の進行には問題がないよ」
何だか、含みのある言い方ね。
すごく気にはなるけど、問い詰める程でもない。
それよりは、柊に直接聞くかな。
「行くわよ、イース」
「はいはーい」
くるっと優雅にターンして、イースは私に続いた。
「グレーテル、柊、どうしたの」
私が声をかけると、二人が揃って視線を向けた。
何故かその視線には、焦燥感が滲んでいるのは、気のせい?
「……お前暢気にいびきかいて寝てたもんな……」
「な!!」
唐突なグレーテルの暴言に、開いた口が塞がらない。
いびきなんて、かいてないっ!
多分だけど!
わなわなと拳を震わせつつ、しかしここは大人の対応が求められる。
「どういう事か説明しろ」
命令口調になったのは、後で反省しよう。そこを咎める余裕がないのか、柊はすぐさま返答した。
「石がない」
「石って……あの道しるべの?」
「そうだ。あの石がないんだ」
「言っとくけどな、俺はちゃんと落として来たんだからな」
「あー、ちゃんと見てたから知ってるよー。へー、それなのに見当たらないと」
ぶすっとした表情で頷くグレーテル。だけどその中には確実に焦りがあった。
それはそうだ。
これはあくまで一回目。そして白い石だ。
鳥に食べられるパンくずとは違う。まだ帰宅できるはずなんだ。
でももしも、この現状が本当ならば。
「……まずいんじゃないの? 崩壊するんじゃ……」
「その可能性は無きにしも非ずだけど……その気配は感じないな。まぁ、大幅にずれたわけじゃないからだと思うけどね」
イースが緊迫感を微塵も感じさせない口調で告げ、思わず視線を向けた。
毒舌で人の心を軽く踏みにじるけど、一応イースは天使だ。天使は、世界と誰よりも近い感受性を持っているって聞いたことがある。
だから、嘘でなければ、この世界は崩れないとイースは思ってるんだ。
こういう切迫した状況では流石のイースも嘘はつかない。
「つまり、まだこの世界は大丈夫ってこと……なんだよね?」
「スキップしただけ、だからな。ページが切り取られたようなものだろう」
冷静に状況を分析した柊の発言に、グレーテルがほっとした表情を浮かべていた。
あ、案外可愛いところもあるんだこの兄貴様。
すぐに仏頂面に戻ったけど。
「とにかく、魔女の家までたどり着ければいい。そうすれば、何とかフィナーレまでは続くだろう」
「出来んのかよ、そんなこと」
「出来なければ、この状況が永遠続くだけだ。そして、この状況を打ち破れるのは登場人物であるお前だ」
断言されたグレーテルは表情を凍らせた。
命を賭けた展開に怯んでしまうのは、最初以来だろうから、仕方ないと思う。
でも、忘れないでほしいもんだわ。
「大丈夫よ」
「どこがだよ! 悪いけど、俺は魔女の家の場所なんて覚えちゃいねーからな! そもそもこの森じゃねーんだから!」
大声で言い返すグレーテルは、たぶん今不安で一杯なんだろう。
気持ちはよくわかる。
私だって、運命代行を始めた当初は、そうだったんだから。
だけど、私は魔法少女だ。
ブルーフレームの眼鏡を取り出して、グレーテルに笑顔を向ける。
「安心なさい。私は、夢と希望を載せた、魔法少女なんだから」
そして、この物語を最後まで導くのが私の運命代行者としてのプライドだ。
眼鏡を掛ければ、光と風が私を包む。
それが途切れて現れるのは、正義のピンクに身を包んだ魔法少女。
変身時間はたった一時間。その時間中に魔法は一回だけ。次の変身まで二十五時間要する制限多き魔法少女だけど、それだけ時間があれば十分よ。
「さ、とりあえず魔女の家の近くまで行くわよ!」
ぽかんと呆気にとられたグレーテルの手を取って、私は意識を集中する。
物語は、私が繋ぐんだ。
◇◇◇
別段代わり映えはしないけど、それでも違うのは森に漂う香りだ。
甘くて、緊張を溶かしてしまうような匂い。魔女の家は近そうね。
「この先ね。こっからはあんたが手を引きなさいよ?」
私に手を引かれていたグレーテルを振り返る。
グレーテルは視線がぶつかると吃驚した様子で目を見開いて、それから慌てて手を振り払った。
何コイツ。
ふと、左腕に着けていた腕時計型タイマーを確認する。
「あ、そろそろ時間切れね」
まぁいいか。ここまでくれば変身を解いても問題ないでしょ。
眼鏡を外すと、見る間に私は地味なヘンゼルに逆戻り。なんか残念だ。
でも今は、残念がってる暇はない。
「さ、行きましょグレーテル」
「いい、言われなくたって行ってやるよ!」
何かよくわからない逆切れ的な言い方で、乱暴に私の手を掴むとグレーテルはずんずん歩き出す。
ほんの一時間前には考えられないような行動ね。
まぁ、こっちのほうが「らしさ」はあるけど。
「ひゃー、リリーが見たら泣くかな? 泣くよね、琴」
「そこは親として喜ぶべきだろうが、泣くだろうな」
「何の話をしてんのよ」
すいすい空を飛ぶ形で私とグレーテルを追随する二人。
パパが何で泣くのよ。意味が分からないわね。
「あった!」
グレーテルの嬉しそうな声に視線を前に戻す。
そこにあったのは匂いのもと。
チョコレートで出来た扉に、透明度の高い雨の窓。ビスケットとクッキーの壁に、マカロンの屋根。ウエハースのプランターには生クリームの土。そこにカラフルな金平糖の花が咲いている。
あまりにも甘ったるい匂いに、それだけで胸焼けがしそうだ。
でも、パパだったら一時間で食べつくすわね、これ……。
「よかった……」
ほっとした言葉を漏らし、グレーテルは、私を掴んでいた手をするりと放すと、ふらりと家に近づいた。それは染みついた癖みたいなものだろう。
「んー、美味しー!」
「ってイースあんたね……」
早速屋根のマカロンを剥がして齧りついているイース。マカロンは抱えるほど大きくて、それをぺろりと食べ切りそうな勢いのイースが若干怖い。
「悪くはないな」
柊まで。丁寧に小さな金平糖を摘んで口に運んでる柊も何か幸せそうだ。
中身まで女子なのか。発言は男子そのものなのに。
……まぁいいか。私、そこまで甘いもの好きじゃないし。
「誰だい私の家を食べてるのは!」
しわがれた声が、闇夜を切り裂いた。
びくっと姿勢を正すグレーテルとは対照的に、イースと柊は黙々とスイーツに勤しんでいた。
こいつらも、大概だわ……。
鉤鼻に、皺だらけの手と顔。黒いローブに覆われた腰の曲がった魔女。
背丈は低いけど、その鋭く睨む眼光は、グレーテルを竦ませるには十分だ。
えーっと、確か、私の出番だったっけ。
「えっと、ごめんなさい。森で迷子になって、お腹が空いてしまったの」
「うわ、ヒロインが棒読みとかないわー」
「だから練習しておけとあれほど言ったんだ」
外野の野次が私を軽々苛立たせるがぐっと我慢だ。
ぎろりと冷たい目で私とグレーテルを睨んでいた魔女は、その目元を緩めた。
「そうかいそうかい。それは大変だったね。中にお入り。暖かいものを作ってあげよう」
「ありがとう、おばあさん」
手招きした魔女に歩み寄った私とグレーテルに、魔女が不意に。
「遅かったねぇ、心配していたよ」
「え?」
それは確実に台詞外で。その意味を問い質すより早く、魔女は私たちの手を引いた。
「さあ、ゆっくりしておいき」
物語は、廻ってくれている。
だけど、柊とイースがどこか張り詰めた空気を醸しているのは、気のせいかな。
普段の二人なら、物語に直接関係するお菓子の家に手を出してはいないはず。
物語を無理矢理進ませているような、歯車をかみ合わせようと、必死なような。
嫌な予感が、外れたらいい。
だけど、どうしてだろう。
――私の中に、不安と一緒に広がるのは、何故か切なさだった。