惑いのフレイム
「さて、それじゃあ始めようかねぇ」
「ええ、そうね」
重い腰を上げた魔女をそっと支えて、私は頷いた。
物語のフィナーレを飾る大事なシーンだ。
すっと一歩私が離れると、魔女の女優スイッチが入る。
「さてさて、そろそろ食べごろかねぇ」
くつくつと暗い笑いを零しながら、樫の木の杖を支えに、グレーテルを閉じ込めた檻へと向かう。
私はその後を黙ってついていく。
毎日朝食前にグレーテルの肥え具合を確かめるかまどの魔女。
だけど、かまどの魔女はとても目が悪いから、グレーテルの手を直接触って確認する。
そして、グレーテルはそれを分かっているから、食事に出された鳥の骨を差し出しては魔女の感覚を欺いていた。
まぁ、正直それで騙されてしまう魔女は、目だけじゃなくて手先の感覚もおかしいのかもね。
深い闇が閉じ込められたような檻の前に立つ魔女の姿は、とても不気味だ。
流石名女優。
「グレーテル、手をお出し!」
ぴしゃりと叩き付ける様に命令する魔女。
膝を抱えていたグレーテルの頭がぴくりと反応する。
じっと覗いていた私と、不意に視線が合った。
その瞳はあまりに澱んでいて――ぞくっと、背筋が凍る。
何で、そんな目してるの。ちょっと、怖い……。
思わず腕を抱いて、半歩身を引いた。
嫌な予感がする。
何かおかしい。まるで、あの時の人魚姫みたいだ……。
嫌な高鳴りを見せる心臓。胸に手を当てて抑えようとしつつ、魔女とグレーテルの動向をじっと見守るしかできないのが今の私だ。
すっと、グレーテルが骨を拾い上げて、それを魔女へ差し出す。
両手を伸ばして、その表面を撫でる魔女。
物語の構成通りに。だけど、不安が膨れて、私は目を離せない。
「ちっとも太らないじゃないか。ヘンゼル、ちゃんと食事は与えてるんだろうね!」
骨から手を離して、今度は私を睨み付けた魔女。
びくっと背筋を伸ばして、私は慌てて頷いた。
私の反応に、魔女は忌々しげにふん、と鼻を鳴らす。
「もういいさ! ヘンゼル、手伝いな!」
グレーテルに背中を向けて、カツカツと杖の音を響かせながら、魔女はもと来た道を戻っていく。
私も追い掛けなきゃ、だ。
ちらりと、何の気なしにグレーテルを見やると、グレーテルは目で私を促す。
その目には、先ほどの澱んだ瞳ではなく。思わずほっとした。
こくりと頷いて、私も魔女を追いかける。
視線を外した刹那、グレーテルの口元に冷たい笑みが浮かんだのは、きっと気のせいだ。
◇◇◇
「ほらぼさっとするんじゃないよ! とっとと火を熾しな、ヘンゼル!」
「まだ食事を作る時間じゃないわ」
「私はもう我慢できないんだよ。やせぎすだって構やしないさ。今日こそはグレーテルを食べるんだよ」
怖い笑いの魔女。流石だなとつくづく思うわ。
嫌な予感はまだ拭いきれないけど、それでももうすぐこの物語も終わるんだ。
終わらせてしまうしかない。
えぇと、確か火を熾せないふりをする、だったよね……。
「あとさー、ウィン悲しむふり位したらー?」
くすくす笑うイースの声を背中に受けつつ、私はかまどへと向かった。
そんな余裕ないし、そもそも私は演技上手じゃない。下手な芝居するよりはいいでしょ。
かまどに近づいて、ふと、気づく。
「……なんか、熱くない?」
そっと傍らのイースに確認すると、イースは首を傾げてそっとかまどに顔を近づける。
見る間に眉間に皺を刻むイース。
「……ほんとだ」
そしてそっとかまどの蓋に手を伸ばした瞬間。
「ヘンゼルっ!!」
「え?」
振り返るより早く、私の視界に赤い飛沫が舞った。
ぴしゃりと私の頬に落ちた朱色。私の前で、崩れ落ちる魔女。
その向こうに立っていたのは……グレーテル?
「どうし、て」
「まずっ、魔女さん!」
イースが慌てて蹲る魔女へと寄り添った。
慌てて視線と落とすと、ひゅうひゅうと細い息を吐き出す魔女さん。
その左腕から、ぼたぼたと赤い血を滴らせていた。
「な、なんでっ……」
「気を抜くな馬鹿!」
「え?」
柊の鋭い声に顔を上げると、金属がぶつかり合う音が狭い部屋に響いた。
赤いジャケットの柊の背中。
その手に握る鎌と拮抗するのは、グレーテルの握りしめた大振りの包丁。
訳が分からない。
疑問と衝撃でパニック状態の私の視界に、黒い光が、踊った。
「あ……!」
「はぁぁ。またあんたら……邪魔ばかりせんといて欲しいわ」
見たことのある姿と、聞き覚えのある口調。間違いない。この間、人魚姫の件で出くわしたイレギュラーな黒い妖精だった。
ということは、あの少年もいるってこと?
「邪魔をしてるのは、お前たちの方だろうっ……ましてやこんな介入!」
グレーテルに押し負けないように力を込める柊。
鎌と包丁がギリギリと軋む音を立てながらも未だ両者ともに譲らない状況。
すっと思考が冷えた私は、一つ深呼吸。
「……イースは、魔女さんを治療して」
「天使のイースさんにおっまかせー!」
「柊、グレーテルは抑えてて」
「ああ」
そして私は、ポケットからブルーフレームの眼鏡を取り出す。
私がすべきことのために。
「私は、こいつらをこの物語から叩き出すっ!」