第2話『衝動の結果』
夕暮れ。
薄暗くなっていく空を窓越しに見上げていた御厨は、静かに椅子から立ち上がり、ドアへと歩き出した。
その背後の机の上には、患者の名前が書かれたリストが置かれている。
その一番上――高砂英志という名前の横に、赤いバツ印が付けられていた。
それが何を意味するのか――。
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数時間前のことだった。
その青年は突如として現れた。
疲れ切った目、痩せた体、そしてあらゆる負の感情を貼り付けたような表情。
曰く、彼は二年前に一度罪を犯し、逮捕されているという。
『何をして逮捕されたんだ?』
御厨は青年の目を真っ直ぐ見つめて問うた。
青年は数秒の間を置いてから、重い口を開いた。
受け子。
指定された場所で荷物を受け取る役で、指示役から送られてくる情報だけを頼りに動く、いわゆる闇バイトの一種。
彼もその一人だったらしい。
何を受け取るのかは知らされておらず、数人で現場に向かい待機していたという。
『それで、何かあったんだろう?』
『は、はい……箱を渡されたんです』
『――箱?』
それほど大きくはない、一つの箱。
それを指定の場所まで運ぶという契約だった。
しかしその途中、警察に踏み込まれ、逮捕されたという。
『箱はどうなった?』
『逃げる途中で……海に落としてしまって』
『それで、中身は見たのか?』
その瞬間、青年はびくりと肩を震わせ、勢いよく立ち上がった。
『見てないっ! 見てなんかいない!』
すぐに我に返り、力が抜けたように椅子へと座り込む。
『……すみません、つい』
『構わない。吐き出せるだけ吐き出せばいい』
御厨はペンを机に置き、メモを閉じた。
『最後だ。なぜそんな仕事を受けた?』
『金が……なかったんです』
『よくある話だ。気に病む必要はない』
その言葉に、青年の表情がわずかに緩む。
暗かった顔に、ほんの少しだけ希望が差したようだった。
『これで全部か?』
『あっ……いや』
青年はまだ何かあると、迷いを滲ませる。
『実は……一緒にやっていた仲間と連絡が取れなくて。もしかしたら雇い主に殺されたんじゃないかって……』
御厨の眉がわずかに動く。
『それは普通、警察に話すべきじゃないのか?』
『警察とは関わりたくなくて……でも先生、強いじゃないですか』
御厨は沈黙したまま続きを聞いた。
『実は俺、あのバーにいたんです。その時、先生が現れて――カウンセラーって』
全てが繋がった。
御厨は確信すると同時に、机のペンを手に取った。
ゆっくりと立ち上がり、青年を見下ろす。
『……居たんだな』
『はい……っ』
次の瞬間。
御厨はそのペンを、青年の喉元へ投げつけた。
言葉を言い切るより早く、鮮血の赤が散り、絶命のその瞬間を見守った。
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同時刻。
氷室正行は車の中で、現場の資料を左手に持ちながら、もう一方の手でコーヒーを飲んでいた。
苦々しい味が、徹夜明けの氷室の意識を覚醒させていく。
バーの一件。湾岸地区での虐殺。
昨日今日と、あまりにも忙しすぎる。
だが、それを理由に逃げることはできない。それが警察官という役目であり、宿命だった。
『もうひと頑張りだ』
そう自分に言い聞かせた、その時だった。携帯が鳴る。
『どうした』
氷室はすぐさま左手の資料を置き、代わりに携帯を取って電話に出た。
『それが、バーの件で店内にいた客たちを洗い出していたのですが、一名だけ消息が不明でして』
『自宅は? 通っていた場所とかは分かるか?』
『それが、彼はつい最近出所したばかりでして、職に就いているかも怪しい状態でして』
氷室は目を閉じ、思考する。
『名前と、何をしでかしたか教えてくれ』
『名前は高砂英志。25歳です。闇バイトに手を染めたのが原因で、二年半ほど刑務所に入っていました』
『刑が軽いのは初犯だからか?』
『はい。氷室さんの言うとおりです』
氷室はすべてを聞き終えると、右手に持っていたコーヒーを飲み干し、
『高砂と関係があった奴ら全員を調べろ』
『了解しました。それで、氷室さんは?』
氷室はゆっくりとハンドルを握り、アクセルを踏む。
『俺も俺で調べる』
言い終えると電話を切り、駐車していた白い車を走らせた。
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夜。十一時も後半、十二時になろうとしていた。
その時、アパートの階段を登る足音が二つ。
青色のネオンに照らされた男、二人が部屋の前で、話し込んでいた。
『そんで、バーでのことをこいつが知ってるって?』
『あぁ、警察相手に黙秘を貫いてたらしい』
『つまり、こいつに岩崎を殺った奴を聞き出せばいいってことか』
『ボスは、岩崎を殺されたことに御立腹だ。手っ取り早く聞き出すぞ』
『了解』
一人の男が、針金で鍵を開ける中、もう一人の男は腰に手を回し、拳銃を取り出す。
ーーカチャ
ピッキングが成功した音を合図に二人は目を合わせる。
ドアノブを握り、突入――
しようとした刹那。
一本のナイフが、ドアノブを握っていた男の右目に突き刺さり、横転する。
『――は?』
反応が遅れる。どこから飛んできたのか、理解できない。
その一瞬。金属が床を打つ音。
跳ねた。
弾かれたナイフが低く滑り、角度を変え、そのままもう一人の男の脇腹へと突き刺さる。
『ぐっ……!?』
体勢が崩れる。視界が揺れる。
遅い。
気付くのが、遅すぎた。
背後。気配があった。
振り向こうとした、その瞬間。
三本目。正確に、首元へ。
男の動きが止まり、そのまま崩れ落ち、床に頬が触れる。
滲む視界の中で、それが映った。
扉の前。
いつの間にか、立っていた。
マスクで顔を覆い、感情は読み取れない。
暗いジャケット。腰にはナイフを携えている。
――誰だ。
そう思う間もなく、意識が沈んでいく。
静寂。倒れた二人の間を、ゆっくりと歩く影。
ナイフはそのまま、床と肉に突き刺さったまま。
マスクの男は、死体を一瞥し、ドアへ手を伸ばす。
ドアノブと右手が触れかけた時、手袋のズレに気付き、逆の手の指先で整えた。
そして、ゆっくりとドアを開くのであった。




