第1話『厄日』
バーの中は、静まり返っていた。
割れたグラスの破片が床に散り、酒と血が混ざった匂いがわずかに残っている。
照明は点いているが、その光は現場を明るくするためではなく、ただ、そこにあるだけだった。
誰も、この場所をもう店とは呼んでいない。
『状況固定。第一班、入ります』
スニーカーではなく革靴が床を踏む音が、静かに重なった。
制服ではない。防護ベストを着た捜査員たちが、バーの入口から順に展開していく。
その先頭にいた男が、足を止めた。
『……これは酷いな』
低い声。警部・氷室正行は、現場全体を一度だけ見渡した。視線の動きは速い。だが焦りはない。
『鑑識、先に写真』
『はい』
シャッター音が連続する。
フラッシュが壁に反射し、割れたガラスが白く浮かび上がる。氷室はその光の中を歩く。
『遺体は?』
『カウンター奥に一名。その他、店内に三名。全員死亡確認済みです』
『搬出はまだするな。まず配置を固定しろ』
『了解』
カウンターの奥。
そこに、大柄の男がいた。
胸元と喉元に、正確すぎる位置で突き刺さった金属器具。
『凶器は、ナイフとフォークか?』
氷室が聞く。
鑑識がしゃがみ込み、慎重に観察する。
『ナイフと……フォーク、あとグラスも一部使用されています』
一瞬、空気が止まった。
『……武器は持ち込まれていない?』
『少なくとも外部持ち込みの刃物は確認できません。店内備品のみです』
『防犯カメラは』
『ありましたが、破損しています』
『原因は?』
『グラスの破片が突き刺さっていたので何者かが意図的に破壊したのでしょう』
顎に人差し指と親指を置いた氷室は、再度、思考を切り替える。
『生存者は?』
『目撃者は現場外に複数いますが、全員、黙秘を貫いている状態でして、恐らく犯人に殺されるのが嫌なんでしょうね』
『意地でも吐かせろ。最近の件もあって上の人たちは殺人事件に、過敏になってるからな』
その言葉を発した時、声と重なるようにして胸元から音が響いた。その正体は氷室の携帯の着信音。
『氷室警部、至急です。別件で死体が発見されました』
受話器を取ったまま、氷室の目がわずかに細くなる。
『場所は』
『湾岸地区、第三コンテナ埠頭です』
一拍。
『死因は』
『銃創です。ただし……』
『ただし?』
『弾丸の数が異常です。一つの遺体に対して、二十発以上確認されています』
氷室は沈黙した。そして、冷静沈着に声を紡いだ。
『現場は押さえてあるな』
ーーーーーーーーーー
湾岸地区・埠頭 夕方。
海は黒かった。波の音はあるのに、音として認識しにくい。
コンテナが積み上がるだけで、空間が区切られている。
氷室が現場に到着したとき、すでに空気は固まっていた。
鑑識が言葉を選びながら報告する。
『被害者は一名。男性。身元はまだ確認中ですが……』
『撃たれ方が尋常じゃないな』
氷室はシートの隙間から遺体を一瞥する。
胸部、腹部、肩、脚。
一点ではなく“面”で撃たれている。
『拷問か』
『いえ、それだけでは説明できません』
鑑識が薬莢を拾い上げる。
『弾道が一定ではありません。至近距離と遠距離が混在しています』
氷室は海の方を見ながら尋ねた。
『周辺の監視は』
『一部死角がありますが、コンテナ上部からの侵入は可能です』
『犯人は複数か?』
『まだ、断定できません』
手掛かりなし、というわけでもない。バーとは違いこのような手段を持つ者たち心当たりがあったのだ。
『反社絡みかもな』
『反社ですか。確かに可能性は高いです。港湾の貨物ルートに不審な動きが……しかし、反社の件は公安が担当すると』
鑑識が何かを言いかけたところを、氷室が強引に遮った。
『いいから調べろ。線を繋ぐんだよ』
鑑識は、その威圧感に逆らうことなどできず作業を進めた。
氷室は踵を返す。
『バーの件といい、今日は厄日だな』
ーーーーーーーーーー
カウンセリングルーム 夕方。
御厨夕源の部屋は、変わらず静かだった。
時計の針の音だけが、空間の輪郭を作っている。
その静寂を破ったのは、扉が開く音だった。
入ってきたのは、細身の青年だった。
年齢は二十代前半。
そして、異様に疲れた目をしていた。
『……あの』
声は小さい。
『ここ、カウンセリングって……』
御厨は書類から目を上げない。
『どうかしたのかい?』
青年は一度だけ視線を落とす。
『俺……前に、事件を起こしてて』
沈黙。
御厨のペンが止まる。
『出所したばかりなんです。でも……』
青年は拳を握る。
『誰も、俺を見てくれないんです』
御厨はゆっくりと顔を上げる。
『見てほしいのか?』
青年は一瞬言葉を失う。
『違う……いや、違うんじゃなくて……』
御厨は小さく頷く。
『良いんだよ。本音を曝け出してくれたら』
青年の表情がわずかに揺れる。
『不安を溜め込むのは、それこそ毒になる。吐き出して、整理すれば、楽になりますよ』
御厨は静かに立ち上がる。
『では、話を聞こうか』
青年は息を吐く。
それは救いを求めるような呼吸だった。
御厨は扉を閉める前に一度だけ外を、暗い闇に呑まれていく空を見上げた。




