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哀の千年闇士  作者: ふぇんねる
七章 ウラグァ
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 荒涼とした野を、小さなイタチのような獣を先導に、少女が一人進んでいた。それはもちろんトゥキとリュエルだった。


 冷たい風がひっきりなしに砂埃を舞い上がらせて、日の光をその小さな粒子たちで遮る。もうくたびれてしまった少女の外套をはためかせ、その長い髪を絡ませる。


「トゥキ……私はあなたを信頼していました。ですが初めから、私が生まれる前から、あなたはマティアスのものだったのですね……」


 そう言ったのは月明かりの下で荷車に乗せられていた時のことだった。もうひと月も前になる。


 もうリュエルの頬は、その事を想っても濡れる事ことはなかった。そんな悲しみは超えて、寧ろ笑っていた。


「ふふっ、今さら……。国を失い、友を失い、師を失い……この手で愛すら捨てて来たのです。何がこの先また失われようと、怖くはありません」


 大陸の中央部にある同盟を組む五諸国が揃って落ちたと風の噂に聞いたのは、トゥキと二人、旅に出てすぐの事だった。どの国も、突如王都に腐沼が生まれ、ラクィーズと同じように間もなく沈んだのだという。そしてエヴィアが溢れ、国土も荒廃したのだという。マティアスの仕業に違いが無かった。


 弟子を失ったからなのか、最も危険視していただろう師であったオロフを消したせいなのか、ともかくも時が満ちたのは確からしく、これまでとは違ってマティアスははっきりとした意図を持って、大陸中の組織を破壊しているようだった。あのマティアスのことだし、生き残ったリュエルの仲間たちが、諸国に真実を話し、立ち向かってくることは容易に想像ができることだろう。


 最後まで国の形を保っていた大陸一の軍事国家がやすやすと落とされたのも先日の事だった。そこは今では腐敗臭を漂わす青緑色の深い霧に囲まれ、無数の異形のエヴィアたちが闊歩するという。人間のような姿の獣が番をするかのように昼夜虚ろな瞳でうろつき、近づく者あればその肉を食らってしまうとすらいう。お互いを共食いする姿も確認されている。


 リュエルにはもう分かっていた。その土地にいた生物は、不完全だが均一化されたのだ。実験地であるマティアスの庭では見かけられたが、それ以外の結界の無い場所での人間の姿を幾分残したエヴィアというのは、いささか新しい。マティアスの実験もまた一歩進んだのだろうか。共食らうという事は食料になるものが少ないのだろう。辺り一面の大地が腐沼に沈んでしまったのに違いない。きっと、そこには日も差さず、沼が乾く事はない。


 それで、もう、この大陸には国どころか大きな町すらも無くなってしまった。リュエルがついこの間辿り着き引き返してきた最東の商業都市ヴァイヤールも、もう無いのだと、どこかの騎士だったのだろう老兵が言っているのを聞いた。


 二度と会うことは無いが、地図をくれたあの学者を名乗った若者は元気だろうか。今でも調査を続けているのだろうか。よくできた地図だったが、すっかり腐沼だらけになってしまったので、もう役には立たないな。そんなことを考え、リュエルは虚しくなって鼻で笑った。


 トゥキは短い足をせわしく動かして進む。時折食べ物や他の獣に気を取られ、僅かな寄り道をしながらも、確実にマティアスとの距離を縮める。その道案内でリュエルはひたすら進んだ。人の絶えた街道は捨てて、点在する民家や農村を繋ぐように。もうこの大陸には大きな町が無くなってしまったから、自然そうなった。


 進む先は、徐々に傾斜となり、紛れも無い山道へと変わる。どこからか流れてきているらしい湿気を取り込み、少し柔らかくなった大地が、足を踏み込むとめり込んで凹んだ。そこにはリュエルの見たことのない虫たちが住んでいた。


 トゥキがリュエルを最終的に連れてきたのは、風の織機の最西端、間もなく海を臨めるだろう〈魚の上顎〉と呼ばれる地域の、とある大きな峰だった。ついこの間来たばかりの、マティアスの庭の方角から風の織機と呼ばれる山岳地帯に入り込んだのだ。一緒にこのあたりまで旅したシアンと別れたのも、ずいぶん昔に感じられた。


 その峰は、雪こそ頂かないものの、他よりもひと際標高が高かった。見上げると、山頂までの間には雲が流れる。


 風の織機の大山といえば、ファハナ火山が有名だ。数百年の昔、大陸を飢饉に陥れるほどの凄まじい規模で爆発したため名を与えられる事になったが、元来は風の織機の深部に位置するため、人がほとんど寄り付かない。噴火の後、火口付近が落ち窪み、そこには水が溜まった、と古書には伝えられている。

 リュエルは、この山はそれに間違いがないと思いながら、急斜面を登った。一歩を進むだけで体が重く、息があがる。意識的に、時々深い呼吸を繰り返さなければ、頭がぼんやりとした。火を焚いて暖を取りながらの一泊を挟み、早朝にはまた出発してしばらくすると、樹木の姿は消え、背の低い高山植物があたりを覆うようになっていた。


 そんな苦労の末辿り着いた山頂では、まるでリュエルを待っていたような景色が広がっていた。

 高山に自生する小さな花々に覆われた岸、そのぎりぎりにまで、鏡のように煌めく湖面が静かに広がっていたのだ。あたりには淡い色の霧のようなものがあたりを幻想的に霞ませながら漂う。それが、この大陸の西から吹き付ける強い風の流れで、時折溢れるように、山峰を縫いながら遥か東の彼方へ飛び去っていっていた。日の光を反射して時折儚く輝くその霧の粒、誰の為にでもなく、ただそこにずっとあったのだろう景色。リュエルは思わず足を止めて、行く末を眺めてしまっていた。


「てっきりエヴィアの群れに歓待されるかと思っていましたが……」


 それを半分望んでいたリュエルはふっと笑う。


 少し奇妙なのは生き物の姿が見えないことだった。高地ではあるが、このような場所なら渡り鳥が羽根を休めていてもよさそうなものだ。だが、これが死出の旅なのだとしたら、その奇妙さもさして悪くなく感じた。


 ここに来て動かなくなってしまった主人を、トゥキが急かすように、履いている靴を噛んで引っ張ぱる。リュエルが顔を上げるとトゥキは、湖にせり出す背の低い濃緑が飾る、椀で言えばへりのような場所を迷い無く駆けて行った。そうして、地下に繋がるのだろうか、下っていくらしい深い洞穴らしい入り口の前で止まり、こちらを振り向いて「キッ」と鳴いた。どうやらここが最終地点らしい。


 その入り口は、急な傾斜のある地面にぽっかりと開き、人一人がゆうに出入りできるだろう大きさがある。中を覗き込むと、真の暗闇が満ちている。それでも何かしらの音や気配を探そうと神経を集中し身動きを止めていると、ふと横目に、水辺に一羽の鳥がやってきたのに気が付いた。喉が渇いているのかもしれない。


 リュエルは少し気になって、洞穴から顔を離し、そちらに目をやることにした。見たことの無い鳥だったが、世にも美しい紺碧の尾羽を煌めかせていたからだ。貴婦人の帽子にでも付けたら良さそうだ。体格は、鳥としてはかなり大きい。だから恐らく、その畳んだ翼は飾り物で、大空を飛行できるものではないような気がした。一体どこから来たのだろう。


 リュエルが不思議に思って眺めていると、鳥はリュエルに近づいてきて、頭を足に摺り寄せてくる。そのか弱い首の力がくすぐったくて、リュエルの頬は弛んだ。


「ふふっ」


 再び一人旅を始めてから、微笑んだのは、もしかしたらこれが最初かもしれない。リュエルはなるべく鳥に警戒心を抱かせないように、じっとしていた。なかなか鳥は愛くるしく、人間を怖がらずに外套がひらめくのに口ばしでじゃれている。


 この先に必ず、マティアスとの対峙が待っているせいだろうか。こうして束の間の平穏を感じていると、何故だかリュエルには昔の事が思い出された。あれは一人前と認められたマティアスがオロフの元を発つと聞いた夜だった。谷にあったマティアスの部屋にリュエルはいたのだ。


 いつものように、過去が現実を凌駕してリュエルの視界を奪う。






「マティアス。ラクィーズへ行くって本当?」


 あれはリュエルが十才の頃だった。


 マティアスの谷を出る準備が、着々と進んでいた。山ほどあった書物は棚から出されて、おとうと弟子たちに置いていく分と、自らが持っていく分とに選り分けられていた。衣類などもすでにほとんどが鞄の中に仕舞われていた。元々几帳面なまでに整頓された部屋ではあったが、今はもっと片付けられていて、まだ荷物はあるのに、がらんとした印象を受けた。


 就寝時間を少し越えてはいたが、マティアスは普段のようにリュエルに部屋に戻れとか、とやかく言ったりしなかった。半顔をきっちりと布で隠した上に、直毛の黒髪をさらさらと流して、マティアスは、多分、微笑んだ。


「ああ。オロフ様が王に推薦してくださってな」

「すごい!」

「はは。何を言う。ただの、一介の宮廷魔術士になるだけだよ」

「うん。でもきっとマティアスなら、すぐに偉くなるよ! オロフさまとおんなじく、魔術長官とか!」

「だといいな」


 そう言ってマティアスは目を細め、リュエルの髪を撫で付けるように優しく頭に触れてくれた。






 リュエルが現実に帰ってくる。


「私が宮廷魔術士を目指したのは……あなたがきっかけだったんです。マティアス」


 今思えば、マティアスが布や手袋でアザを隠していたのは幼いリュエルの為だったのかもしれない。見て心地よいものではないからだ。今更そう気づく。だがもう遅すぎて、リュエルには何も感じるものは無くなっていた。


 紺碧色の鳥は、いなくなっていた。つまらなくなったのか、気が付いた時には、来た時とは反対の方へと去って行ってしまった後だった。その姿が麦粒より小さくなっていく。


 もう聞こえないと分かっていたけれども、リュエルは鳥に語りかける。


「お行き。間もなくここは戦場となる。その飛べない翼で、どこまで行けるのかは知らないけれども」


 そう、言ってから気づいた。その言葉は、本当は自分に向けるべきものだったことを。


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