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リュエルは初めのうちなんとか逃れようと体をねじったり罵倒したりしていたが、そのうちに、どうしても逃れられないことを知った。そばにいた〈燦然たる鱗〉が水による捕縛術を使って、リュエルの指の動きを封じてしまったので、術を使うこともできない。オロフも術を発動しない。きっと、リュエルやシアンが捕まったままでは巻き込まれてしまうのだろう。
さっきシアンが我が身を差し出す決意だったのと同じように、リュエルも悟られぬようにオロフに「私に関しては、それでもいい」と目配せをした。直後、〈獰猛なる爪〉が歓喜の雄たけびを上げ、リュエルを捕まえた仔兎のようにぶんぶんと振り回したので、オロフがどんな反応をしたのか見ることができなかったが、絶対にリュエルの意図は伝わったはずだ。
できることをし尽くして、リュエルは諦めた。抵抗をやめ、逆さにただ吊るされる。
「良い眺めだ」
敵の愉悦の言葉を聞き流していると、腰のあたりで何かがもぞもぞと動くのにリュエルは気が付いた。忘れていたが、そういえば塔の荷物を運び出す時に、薬草と一緒にトゥキを腰帯にくくりつけた荷袋に入れたままにしていたのだ。きっと、さっきまで眠っていたのだろうが、さすがにこんな衝撃では目覚めないはずが無い。ついに袋の口からひょっこりと顔を出した。
「トゥキ……」
トゥキは愛くるしい黒目をぱちくりとさせて主の顔を見つめ返している。リュエルは逆さのまま、優しく相棒に語りかけた。
「トゥキ、いつもありがとう。ずっと、どんなときも私の傍にいてくれて。王国が滅びた時も、旅の間も……助けになりました。……正直……ひとり旅だったら寂しかった……それに、実は私はずっと、少し孤独を感じていたんです。私の周りにいた人は親切な人ばかりでしたが、でも、同世代の友人となれるような人がいなかったから……。だから、あなたの存在は私にはかけがえの無いものだったんです」
トゥキが普段と変わらない様子で、くるくると耳を回す。
「いくらあなたでも、そこまではよくわからないでしょうけどね」
リュエルは少し笑った。
「……でも、私の命もここまでです。一緒にいれば、この憎たらしい人間の成れの果てどもに喰われてしまうでしょう。ですから、ここでお別れです。逃げてください」
ピニークは賢い生き物だ。トゥキはその中でもとりわけ賢い。人間の細かな感情までは理解できないかもしれないが、リュエルのこの状況がおかしいという事は感じるだろうし、旅の間中、何度も戦いを繰り広げてきた、この〈獰猛なる爪〉が敵であり、危険だということも分かっているはずだ。
しかしトゥキは逃げなかった。その瞳を、ただ煌めかす。
「トゥキ……?」
不思議そうに見つめるリュエルの目の前で、トゥキは『獰猛なる爪』がどこかで引っ掛けてきたらしい、その身の硬い毛に刺さっていた何かを見つけて食べた。
「……!」
リュエルはその時、体の臓器全てがぎゅっと締め付けられるような変な感覚を覚えた。
頭上から低い声がする。
「……マティアス様のお言葉と言えど、完全には信じられなかったが……なるほど。今となってみれば、思いあたる節もある。リュエル……お前……」
ふと見上げると、マティアスの弟子たちが真面目な顔でリュエルを見つめていた。そういえば、トゥキとゆっくり話をしていられるなど、この様子をずっと見ていたのだろうか。セレヴィアたちは揃って眉を捻り上げている。その、人間のように戸惑い篭もる声色も、何か尋常ではない。しかしすぐに、そう言った当の〈獰猛なる爪〉が首を振る。
「まあ、しかし。我々はあくまで、全て滅せよとの命を遂行するのみ。恩知らずにもマティアス様にどこまでも盾突くのだからな」
「奴に恩など……!」
「無いと言うのか? お前にその卓越した魔術を授けたのはオロフだけではなかろうに。そしてその命もだ。捨てられていたお前を拾ったのは、誰だったのか、忘れたとでも言うのか?」
そう言うと〈獰猛なる爪〉の足首を掴む力が強くなる。血が止まるどころか、骨が折れそうだ。
「主を誤解されたままなのも癪だ。言おう。お前が思うより、マティアス様は愛に満ちたお方だ」
そんなこと知っている。足の痛みと、逆さに吊るされ続けたことでぼんやりしてきた頭で、リュエルは思った。
六年前、ラクィーズに向かう日、十才だった幼いリュエルは笑顔だったのだ。優しく穏やかなオロフの元を離れ、見守ってくれていたオロフの弟子たち、そして物心ついてから一度も出たことの無いピニークの谷としばし別れるのだというのにだ。それは他ならない、マティアスの招きだったからだ。
マティアスがリュエルに教えてくれたものは魔術ばかりではない。あの奇妙な容貌で、いつも子供の手遊び歌で遊んでくれた。竪琴を持ち出して、この世の不思議なものや美しいものの話を唄い聞かせてくれた。
谷にいたオロフ含め子供好きの優しい術士たちは皆、少なからず色々な方法でリュエルと遊んでくれたものだった。オロフは粘土や紙で一緒に物を作ってくれることが多かった。他の者も絵を描いたり、森で散歩したり、それぞれのやり方で関わってくれた。他に得意な者がいなかったこともあったが、だが、歌を歌ってくれたのはマティアスだけだった。歌はリュエルをいつも、穏やかな眠りに導いた。
そばで大きな腕が振り上げられる。
〈獰猛なる爪〉の、きっとこの身を赤く染めるだろう一撃。その初動を、朦朧とする意識の中、リュエルは空気の流れで感じていた。
「待てっ!!」
それを叫びで止めたのはオロフだった。リュエルが驚いて目を開けると、オロフはなぜか、あえてまた塔の入口近くに立っていた。逃げるのなら不利な場所だ。




