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いくらか走った後に、隠れるように入り込んだ薄暗い裏通りの隅の井戸脇で、シアンはようやくリュエルを下ろした。ここならばこの時間、人通りもほとんどない。
あれだけの魔術を振るったリュエルの目は、燃え盛るどころか逆に死んだように虚ろだった。なんとか座りはしたが、まるで精巧にできた人形のようにだらりと、その身を重力に任せている。だがシアンが覗き込むと、頬をさっと紅潮させ、気まずそうに顔を少し背けた。
本来なら、責めるべきところだろう。けれど、反対にシアンの顔には安堵が浮かんだ。
「ちょ、ちょっと……びっくりしたよ。いきなりどうしたんだよ!?」
リュエルが無抵抗でただ担がれているのを内心、心配していたのかもしれない。様子が別に変わり無いことを知り、それで、やっと聞くことができた。そんな風だった。
罰の悪い顔をリュエルはする。
「……あの方が王国を愚弄したからです」
あまり話したくなかったのだが、そうもいかず、言いながらさらに視線を避けることでささやかな抵抗をする。
「王国? 王国って……?」
「ラクィーズです」
聞いたシアンの顔は正直だった。呆れている。
「え? ……でも、だからって、いきなり魔術を振るうなんて……怪我させる気はなかったんだろうけど、あんな風に……。いや、あいつらはどうせ鼻つまみ者ばっかりだからいいんだけど、店が……」
あの店はシアンの馴染みの店らしかった。リュエルが意図した時点で術の効力が失われるのは森でシアンも見ていたから、今現在は凍り付いてはいないということは分かっていただろう。だが、テーブルや店の床をいくらか壊してしまった。それに居合わせていた客たちに迷惑をかけた。それはそのまま店の損失に繋がる。
「……そうですね。すみません。頭を冷やします」
はっとしたリュエルは、今は本当に反省しきった顔をして、井戸のふちに腰掛け額を押さえた。酔っての行為ではないのはシアンでも知っている。さっきまでずっと同じテーブルについていたのだし、だいたいまだ食事は始まったばかりだった。
シアンは「ふう」と溜め息をついた。
リュエルという人間を見る人は、たいていは冷静な印象をまず受ける。でも本当は、心の奥は、違うのだ。冬の嵐のようなものを抱え込んでいる。溜め息をついたのは、シアンもきっと同じ印象を持っていたからだろう。半分は驚いていたし、半分は戸惑っていた。
「……そんなに怒るなんて、リュエルはラクィーズ王族の血筋でも引いてるの?」
「まさか」
「じゃあ……」
シアンが聞きたそうにしていても、無理にでもその言葉で一蹴してしまおうと思ったほど、本当はリュエルにはそれ以上を語る気が無かった。
だが、あの店はシアンの行きつけで、店の者とは浅くない仲のようだった。多大な迷惑をかけた。もやもやした様々な思考が乱雑に散らばる中で、そんなことにやはり思い当たって、この話題には普段は重いリュエルの唇も、長い沈黙ののちに離れた。
「幼い頃、私は……縁あって、ラクィーズ王宮にご厄介になっていた事があるのです」
そうして当然目を丸くするシアンに、リュエルは簡単にだが、自分の生い立ちを語り始めた。
「兄弟子……ええ、そうですね、私の兄弟子が術士として王宮に勤めていましたので。そこには将来、王宮勤めが確約されている修行中の術士が幾人もいました。私もそうなろうと、その働きぶりを見学しながら、住み込みで術の手ほどきを受けていました」
リュエルは自分で自分の発言に間違いが無いことを確認するかのように話した。
一国の王城で暮らした。まるで雲の上のような話だが、語るリュエルの顔は真剣そのもので、それが嘘や冗談ではないとシアンに証明する。
「……ただの女の子ではないとは思ってたけど、王宮魔術師を目指してたのか。それもあの……」
「ええ、腐沼に沈んだ王国の、です」
「そんな言い方……今怒ってたじゃないか。自分で言うもんじゃないよ。俺はただ、あの『魔術の都』として名高かったラクィーズの、って言おうとしただけだよ」
当時、滅びる前のラクィーズは数代前の術士長が大陸屈指の術者として退役後も名を馳せていたため、それを崇拝する者が巡礼地のように訪れる事もあった。だから一部ではそんな風にも呼ばれていた。
シアンは本当に心配した顔をしていたのだ。だが、今のリュエルには届かなかった。余計に過去の事と言われた気がした。少しだけ歪んだ微笑を浮かべて、灰紫の瞳を細める。
「あなたもきっと、ご存知でしょう? 王都はエヴィアたちによって一夜にして落ちたことを。……あれは星が弱く瞬く、風の強い夜のことでした。夜更け、地震と共に、突如王宮や市街に複数の腐沼が発生したのです。それはなぜか、火事の火の粉が周囲に飛び移るように次々と。そして当然、沼からは大量のエヴィアが生まれました。今でこそ、それは当たり前のことですが、当時は誰もそんなことを知らなかった」
なにせ初めて腐沼が生まれた場所が、そのラクィーズだからだ。リュエルはその初めての時を語っている。遠いが、今も自らを時折強力に捕らえる景色をイメージの世界に呼び起こす。
「人々は逃げ惑い、泣き叫び、混乱の中、いずこともなく多くの火の手が上がりました。黒い煤を上げながら炎は歓喜したようにあたり一面を踊り狂い、家々を焼き、美しかった草花を焼き、腐沼に浮く油にすら燃え移りました。逃げ場を失った人々を、エヴィアたちは切り裂きました。運良く火の手を逃れた人々をも追いかけ切り裂きました。……王都の民のほとんどの命がそこで潰えました。王族も例外ありません」
リュエルは頭上で美しく瞬く星々を一瞬見上げて、苦々しく目を伏せる。あの夜の空と星の瞬きは同じなのに、景色は嘘のように違いすぎたから。
「今やラクィーズは王を失くし、民を失くし、領土の大半が腐沼に沈み、異形の獣たちが我が物顔で闊歩する土地。もはや再興を夢見る事すら愚かしいほど……。今でも、深い腐沼へと変わってしまった王都には、足を踏み入れることすらできないと言います」
王国が一夜にして落ちたという話はあまりにも有名で、もちろんシアンも既知なのだろう。その一言一言に静かに耳を傾けていたのだが、話の後半になってからは身を乗り出した。それは、そこにいた者にしか知る由もない光景だったからだ。
「ラクィーズの王都が腐沼に落ちた、まさにその時、……リュエルはそこにいたのか?」
リュエルは頷いた。シアンの目はすっかり元の大きさを忘れてしまっていた。それほどの場所から逃げおおせた者が存在するとは。そしてそれが自分の目の前にいるとは。と。
その表情がリュエルにもう少し詳細を語らせた。




