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「……今、何と言いました?」
「あ? なんだ?」
エヴィアと平気で渡り合うリュエルの声は時に、少女とは思えない存在感を醸し出す。男たちはなんでもない風を装ってはいたが、沸き立っていた空気は明らかに変化した。
しかし、面目に掛けてそんなことを許すわけにはいかなかったのだろうか。帰れと煽ったひときわ体格の良い親分格の男が、リュエルのそばまで近づいていって、よせば良いのにその細い肩を掴み、乱暴にぐいと回して顔をこちらに向けさせた。女といえど殴りかかる勢いだったのだが、容姿を見て態度を一変させ、口笛を鳴らす。
「あんた、べっぴんだな。こいつらを追い出したら俺たちのテーブルに来いよ。可愛がってやるからよ」
その巨体のむこうの人垣の影で、先ほど仲裁を試みた店員がリュエルに向って「関わらないほうがいい」とでも忠告したいように、怯えながらこっそり小刻みに首を振っていた。だが、当の少女はその善意すら全て無視した。
「ラクィーズと言ったでしょう?」
「うん……?」
一瞬の間のあと、男は「ああ」と言って頷く。自分で口走った言葉を忘れていたようだ。
何もそれは特別なことではなかった。ラクィーズという王国が腐沼とそれによって生まれたエヴィアの為に滅びたあと、そう言って相手をけなすのが大陸では流行していたからだ。何かの呪いとも時に噂される事もある王国の滅亡を引き合いに出すのは、くだらない者たちの間では、その呪いが我が身にも及ぶかもしれない、という危険を恐れない勇気ある行為だと受け込められていたからだ。大男もその例外なく誇らしげに胸を張る。
「そうだ。腐沼に沈んだって馬鹿な国よ! 国土のほとんどが腐沼になっちまった上に、今でも王都には気味の悪いエヴィアが溢れてるって話じゃねえか! お似合いだぜ! 大体、昔からラクィーズ人ってのは、どっか気取ってて気に入らなかったんだよ。がっはっはっはっ」
「く、国のことは言うな……っ!」
大男の向こうで、対抗するもう一方の男たちが一斉に声を上げた。どうやら本当にラクィーズ人らしい。が、それでやめられるのならば、はなからいざこざになどなりはしない。
「人間への神罰だとか言う奴も多いが、実は王家が魔術の扱いに失敗しちまって腐沼が産まれたって噂もあるじゃねえか。ほとほと迷惑な国だぜ! 王族の顔なんか知らねえが、見つけたらぶっ殺してやりてえもんだ!」
「くっ……てめえらっ……!」
その言葉が終わらないうちに、奇妙な異変が起きた。硝子にひびが入ったような音が、店のあちこちから響き始める。
初めは全員が無視していたのだが、段々と大きくなる音に、ついには睨み合っていた男たちも視線を外して、その原因を探し始めた。だが、どこにも何も見つけられない。ただ、アルコールの入った人々の体温で満たされた室内の熱が急激に失われていっていた。
人々がはっきりとそのことを認めたのは、本当に体が震え始めてからだった。その時にはもう、まるで、漆黒に塗り込められた深い洞窟湖にでも入り込んだような冴えた冷気に包まれていた。ここまで来るとさすがにリュエル以外の誰もがまともな表情をしていなかった。
「なんだ? どうしたんだ……?」
「なんか……寒くないか……?」
そんな人々のざわめきを掻き消して、突然、周囲のテーブルや椅子が天井まで跳ね飛んだ。衝撃で砕け散り、細かな木片と変わり果てて、男たちどころか店内の人々のほとんどが慌てふためく頭上に降り注ぐ。
「うわあ!」
「きゃああ!」
悲鳴が上がったのはそのせいだけではなかった。
ハンターたちが争っていた場所に、剣のように鋭利な氷の結晶が、ものすごい勢いで、忽然と生まれ出たからだ。突き破られながら凍りついた椅子や食器もある。そしてそれはその場だけでは収まらず、湖に氷が張るのを、時を早めて見たように伝播して、瞬く間に見渡す全てを同じように凍てつかせた。
リュエルのそばに立っていた大男は、先ほどの威勢はどこへやら、「あわわ」というような音を口から漏らして、腰を抜かしかけながら仲間の元に後ずさった。
少し前までいざこざ含め賑やかだったこの場所は、今は閉ざされた氷窟のようだ。
こんなことができるのはこの店、いやこの町でも多分ただ一人。リュエルだ。そしてリュエルがこの術の行使者だということは、今は誰の目にも明らかだった。なぜならその体の周囲に防壁のごとく、レイピアのように細い氷の結晶がその背を越えて成長していたからだ。煌めく輝きを数多はべらせて、少女は冷たく男たちを見据える。
術にお目にかかるのですら一般の者には稀な事だ。いまだに徐々に厚くなっていく透明の氷が覆う床を恐れて客がいっせいに後ずさる。場がさらに騒然となる。
「な、な、な……お前、魔術師か!?」
もはやどちらの勢力も無くなり、すっかりそっくりの怯えの色を見せる男たちに向って立ち、リュエルは片手を軽く上に振った。すると男たちの皮膚すれすれを、投げナイフの速さで幾本もの氷槍が床から伸びて囲った。今度は紛れも無い大の男たちの悲鳴が上がる。
「ちょっ……待ち!」
今まで唖然とでもしていたのだろうか。そこにようやく人壁を押しのけたらしいシアンが慌てた顔で躍り出た。もちろん、取りに出かけたサハタ豚料理などは持っていない。
「シアンの連れ……だよな、その娘……」
厨房の奥からさっき見た強面のシェフが大きなフライパン片手に出てきて、リュエルを指差しながら目をしばたたかせていた。その料理人に向かってシアンが声を張り上げる。
「わりい! 必ず弁償するから、今夜は見逃してくれ!」
そう言い捨てると、シアンはリュエルを強引に肩に担ぎ、人攫いが逃げるように酒場を飛び出した。騒ぎが起こっても少し前の主同様、我関せずとテーブルで肉をつついていたトゥキが、気づいてそこをぴょんと飛び降り、短い足をすばやく動かして、ぴたりと二人を追いかけた。不思議と、リュエルは抵抗せず、ただ運ばれた。
店内では発端の男たち含め全員が、ぽかんと口を開け、ただそれを見送った。




