二章
夕暮れのロンドン
ユリウスは深い眠りから醒め、ゆっくりと重たい身体を起こし、硬いベッドから出る。窓へ眼を向けると、鈍色の空に滲むかのようにすばらしい茜色の夕日が部屋と灰色の街並みを照らしていた。赤薔薇はしばらくそれを眺めてから周囲を見渡す。飾り気のないベージュの壁、白いカーテンの裏には隠し扉、硬く真っ白なベット、壁面をステンドグラスのように彩った洗面台、箪笥、鏡台が置かれている。ため息混じりに洗面台の側まで歩み、扉のドアノブに手を伸ばして開けた。
恐る恐る、中へ立ち入ると紅いアラベスク柄で彩られた壁、趣味の良い調度品や格式高い家具が美しく置かれ、親和性の高い寂寂たる静物画と威厳溢れる数名の人物写真を中心に飾られている。食卓の奥には、凛としたアカンサスのガーヴィングを施したウォールナット材の暖炉棚の上に眼を惹かせる調度品が並べられ、暖炉前は小さな円テーブルと青林檎のように爽やかな色合いをした金華山織りのイタリア調な長椅子と二脚の肘掛椅子が置かれていた。質素な寝室とは対照的に、豪華絢爛な空間にユリウスは思わず息を呑む。美に心酔する赤薔薇は思わず、美術品を鑑賞するかのように部屋全体を見渡しながら歩くと、小さな円テーブルの上に羊毛紙が置かれていた。それを手に取ると、そこには『コッテージ・デライトまでお越し下さい』と記されていた。赤薔薇の脳裡に酒場にて穢らわしい労働者たちに向けられた厭らしい視線と下卑た笑いを浴びせられた忌々しい記憶が過ぎる。それは、悍ましく唾棄すべきものだった。
「下劣種どもめ……」呪詛の言葉を洩らしながら、寝室へ戻る。白いカーテンを捲り、隠し扉を開けて暗い階段をゆったりとした足取りで降りてコッテージ・デライトへ向かう。酒場は開店前でしんと静まり返っており、カウンター内では金茶色に輝くエールをゆっくりと味わいながら飲むアーサートンと、その傍らで小ぶりの薔薇が描かれた優美な白磁のティーカップを持つカッスルがいた。
「カッスル、噂の吸血鬼様がお目醒めだ」
「おや、ローゼス。ようやくですか——お身体の調子は如何でしょうか?」探偵は向き直って尋ねると、ユリウスは腕を組み、気怠げに答えた。「身体は重い。まだ本調子ではないようだ」
「そうですか。捕食者たる者に、たとえ安らかな眠りを三日たりとも与えたとしても、全てが癒えると限らないのですね」
赤薔薇は驚きで眼を見はらせて言った。「私は、三日間も眠っていたのか!?」
「はい。あなたが眠っている間、お身体の傷を確認させて頂きました。今は完全に癒えておりますので、どうかご安心ください」
「そうか。それより、この国はどこだ?」
「偉大なる大英帝国です。通称英国です」
「英国だと? 聞き慣れぬ国だ。それより、私が眠っていた間、狩りはどうなった?」
「狩人たちが内なる獣性を露わにし、あなたの同胞を狩り続けております。肉を引き裂き、骨を断ち、最後には灰を浴びるその姿は、実に怖しいものです」
カッスルの脣から語られる言葉に、不安の表情をありありと泛べて憂慮する。祖国と英国にいる同胞たち、遠き地に暮らす最愛なる友は無事であろうか? 狩人たちの手により、その尊き命を散らすことのないよう願うばかりだ! と、焦心苦慮した。
「しかし、博物館向けな衣装ですね。大英博物館に寄付し、ご展示されてみては如何でしょうか?」ジギタリスの毒を含む言葉に、主人は声を立てて笑った。「いっそのこと、ローゼスごと寄付したらどうだ? おもしれえことになるぞ」
探偵は、微笑を泛かべて香り豊かな紅茶を啜った。赤薔薇は、すぐに己の装いに眼を向ける。華やかな金糸のエポレットを飾った深紅のジュストコール、背中にはオーガンジー生地のマント、胸元の優雅なフリルのジャボ、それらはクライリバーでは高貴の象徴である。しかし、「厳格」と「格式」を様式美として重んずる英国では誰一人として羨望の眼差しを向けない。向けられるのは、愚かな好奇なのだ。
ユリウスは脣を噛み締めながら、俯きマントを強く握った。嘲笑の対象となった衣服は祖国クライリバーの誇りでもあり、唯一の精神的支柱でもある。それらを拒まれ、弱き心に虚無を抱き、深紅に輝く瞳にはうっすらと涙が滲み出る。
「カッスルさんよ、服の一着くらい貸してやれ。見世物小屋の珍獣として晒されるぞ」
カッスルは、悲哀の情をたたえる赤薔薇をじっくりと眺めたのち、ようやく脣を開く。「承知致しました。ローゼス、嘆き、涙すその様は婉麗としております——ですが、その衣装は私の趣味に反しておりますのでお貸し致します。アーサートン、また後ほど、サパーでお会い致しましょう」静かに紅茶を飲み干すと、カップとソーサーをアーサートンに渡してから椅子から立ち上がった。ユリウスはそっと涙を拭い、くるりと向き直って、飄々とした足取りで寝室へと向かう探偵の後へ続く。暗い階段を登り、再び質素な部屋へと戻る。
カッスルはすぐに箪笥の戸棚を開け、衣紋掛けに掛けられた数着の背広と赤薔薇を交互に見つめる。しばらくすると葡萄茶色、濡羽色、紫鳶色の背広と上質なコットンシャツを取り出した。三色の背広を一着ずつ赤薔薇に当てながら「葡萄茶は英国の庭で咲くには華やか過ぎます。濡羽は闇夜に咲き誇る薔薇のようにすばらしい。ですが、やがてその花は霞むでしょう——紫鳶……ええ、これが相応しいでしょう。夜の帳に咲く、枯れることを許されぬ薔薇の色です。あなたは光に愛される花ではありません。闇の中でこそ、その異様な輝きを放つのです。さあ、こちらをどうぞ」と言い、それをそっとベッドの上に置いた。
ユリウスは見慣れぬ背広に眼を注ぎながら、衣服をそっと脱ぎ始める。磨かれた象牙のように滑らかな肌が露わとなり、華奢な肩から流れる肢体はまるで大理石から掘り出した彫刻のような肉体だった。上質なコットンシャツの袖を静かに通し、紫鳶色の背広を身に纏う。探偵は満足そうに微笑み、箪笥の引き出しから差し色として冥色のシルクネクタイを取り出し、それをユリウスの細い首に通した。指先で襟を整えて、丁寧に結び目を形作りながら、僅かに顔を近づける。赤薔薇は顔を顰めるが、けしてその手を振り払うことはしなかった。
「ええ、実に閑麗です。ローゼス。さあ、どうぞ鏡をご覧下さい」
導かれるがままに鏡台の前へ立つと、華奢な肩から胸へ流れる立体的な裁断、高い位置に優雅な曲線美を描くウエスト、適度なゆとりのあるズボンは長い脚を魅せている。初めこそは華のない退屈な衣服として興味を示さなかったユリウスだが、質実剛健で控えめな美を追求する英国ならではの仕立ての良さに惹かれ、洗練された己の姿に心酔するのであった。
「……悪くない」
「ええ、美しいですね、ローゼス。その髪も、その瞳も。しかし不思議なものです。人は黄金や宝石を見れば欲するというのに、あなたを見た者は皆、恐怖を覚える。美とは、時に祝福ではなく呪いなのでしょう」
数々の称賛の言葉を浴びた赤薔薇は、鏡をまじまじと見つめながら自己陶酔をする。「そうだ、私はこの世で最も美しい花だ——たとえ泥に伏せようとも、踏みにじられようとも、けして枯れることはないのだ!」
「けして枯れることはない、ですか——美しい花ほど、終わりは静かなものです。その終焉を、この眼で見届けられるなら、それもまた僥倖でしょう」その棘のある厭らしい言葉は、喜色満面としていた赤薔薇の神経を逆撫でる。くるりと向き直って、こう言った。「どうやら私の槍の錆になりたいようだな?」
「どうかご安心下さい。今は、まだそのような体力は残っていないでしょう?」
「貴様……命知らずにも程がある! ランス!」ユリウスは咄嗟に槍を握るポーズを取り、手から薔薇色の光が微かに洩れる。その瞬間、奇妙たる静寂が漂った。愛槍ランスが現れないのだ。赤薔薇は驚きで眼を見はる。すぐに眉を顰めるが、戸惑いを隠せずにいた——いや、隠しきれなかったのだ。まるで、三流笑劇を鑑賞したかのようにカッスルは思わず声を立てて笑った。
「笑うでない!」ユリウスは顔を赤らめて叫ぶ。
「滑稽ですね。槍が現れるのを期待しておりましたが、どうやらあなたには裏切られたようです。しかし、槍の名前がランスとは……実に安直ですね」
「黙れ!」
「私を黙らせたいのならランスをお呼びください。くれぐれも円卓の騎士ランスロットは呼ばぬように。彼は、王アーサーに仕える者としての責務があるのですから……」
苦渋を飲まされた赤薔薇は歯噛みをすると、射るような眼差しを探偵に向けて、罵倒をした。どこか楽しげな様子なカッスルは穏やかな声音で話しかける。「それより、ローゼス。明日、新しい服を新調しに街へ出掛けませんか?」
「英国の衣服など興味はない!」不貞腐れたユリウスは顔を背ける。その姿は、まるで幼子そのものだった。
「サヴィル・ロウには一流の仕立屋があります」
「……一流だと?」
「イード&レイヴェンスクラフトです。侯爵や判事なども仕立てを任せております」
「案内しろ。今すぐにだ!」
「残念ですが、閉店時間です。どうか彼らに安らぎをお与え下さい」
「……そうか」肩を落とし、落胆しながら、背広とシャツを脱ぎ、愛する祖国の衣服に手を伸ばして、袖を通す。
「では、明日お伺い致しましょう。あなたは学芸員の者たちに好奇の眼差しを向けられる対象なのですから……」
「必ずだぞ!」
穏やかな笑みを泛かべながら、カッスルは頷いた。
「さて、ローゼス。英国にやってきたからには文化の一つである紅茶を覚えて頂きます。あなたが大変お気に召したショートブレッドも紅茶と一緒に召し上がることによって、より一層楽しめます」
「あんな貧相なものをこの私に飲ませる気か?」
「その厭った言葉を、並べたくば、まずは口になさい。あなたが祖国の装いを誇るように、英国にも英国の美があります。故郷を愛する心は尊いものです。ですが、その花を異国の土へ植えたのなら、異国の雨を拒めば、やがて枯れるだけでしょう。子爵の名も誇りも、異国では朽ちた冠に過ぎません。冠とは、戴く者ではなく、信じる者がいて初めて冠となるものです。ですが、あなたほど美に殉じる方ならば、その程度の幻に縋ることもありますまい……」
「知ったことか! 私にとって美とは、クライリバーにのみ宿るものだ! そして英国の文化など認めぬ。私の祖国こそ至高だ」
探偵は、しばらく沈黙した。そして、ただ微笑を泛かべた。
「そうおっしゃると思っておりました」カッスルは三着の背広に眼を向けると、それらを手に取り箪笥の中へしまう。戸棚を閉め、最後にシルクネクタイを引き出しへしまった。「では、私はサパーを頂きに、コッテージ・デライトへ向かいます。居間にショートブレッドがございますので、節度を持ってお召し上がり下さい。そして、アーサートンに感謝をすることです」と言い残し、寝室を後にした。
ユリウスは、居間へ向かいながら呟く。「……英国など認めぬ。だが、あの焼き菓子だけは別だ」
円卓の上に残されたショートブレッドの瓶だけが、夕暮れの茜を受けて静かに輝いていた。




