一章
邂逅
異国の都市、霧深きロンドンの路地裏ウォータールーへ迷い込んだ"赤薔薇"ことユリウス・ローゼスは地面に力無く崩れ落ちていた。吸血鬼狩りたちから追われ、血を失い、それでも尚、気高く在ろうとする姿はまさに散り際の薔薇である。そんな赤薔薇に対し、ウォータールーはあまりにも無慈悲だった。休息の間を与えられることはない。汚い地面を踏み締める規則正しい重い足音が遠くからゆっくりと鳴り響き、近づいている。吸血鬼狩りの一人だろうか、と赤薔薇は再び逃れようと立ちあがろうとするも、決してそれは赦されなかった。とうの昔に、力は使い果たしたからだ。ふと、同胞と最愛なる友の顔を脳裡に泛べる。彼らのためにも苛酷な運命に抗い続ける。だが、生を渇望する身体はもはや自由を拒んだ。ここで終焉を迎えるのか、と悲嘆し、深紅の瞳から涙が零れる。その時――ユリウスの前に一人の男が現れた。燻んだ山吹茶色の髪、長い睫毛で縁取られた榛色の瞳を妖艶に光らせている。男は小首を傾げ、眼を細め、静かに脣を開く。
「死臭漂う病んだ路地裏に、不似合いな薔薇が咲いておりますね」
「……何者だ?」赤薔薇は男に対し、冷たく、そしてナイフの如く鋭い眼光を向ける。
「ご安心下さい。私は吸血鬼狩りではありません。ただのしがない探偵です」と穏やかな声音で言った。
「探偵だと? 戯言を……殺すならさっさと殺すが良い」
「残念ですが、私にそんな趣味はありません」探偵を名乗る男は、その場でゆっくりと腰を下ろし、鞄からナイフを取り出すと、左手の黒い革の手袋を外し、自らの掌を深く切る。その奇妙たる光景にユリウスは、思わず眼を見はった。
男はしばらくそれを見つめると、傷口から出る鮮血はやがて小さな泉となり、静かに溢れ流れる。同時に、仄かに漂う甘い香りは、赤薔薇の本能を擽らせる。
「さて、命を繋ぐか、このまま散り行くか、お選び下さい」差し出されたのは救済の血。赤薔薇は本能のまま手を伸ばすが、すぐに止める。しかし、喉は焼けるように渇いている。それでも、その血に触れることをどこかで拒んでいた。この男は、一体何が目的なのだろうか? 下劣種が何故、私を救う? と、疑心暗鬼になっていると、男は耳元で甘い声音で囁いた。「何を迷われているか、存じませんが、あなたは大変美しい。壊れるにはまだ早過ぎます。さあ、どうぞ、これで命をお繋ぎ下さい」
"あなたは大変美しい"――その言葉はユリウスの心を大きく揺るがせた。この男は、私の美を理解している。それだけではない、私に対して、生きよと述べている。同胞と友の為にも、この血を受け入れねば! と、迷いを捨て、鮮血に染まる男の手を取り、そっと口元へ運ぶと施された血を啜り始める。冷たい身体には熱が迸り、渇いた欲望は潤され、次第に深い快楽へと溺れる。血に酔いしれながら、ユリウスは命を啜り続けた。やがて、泉が枯れると、傷は癒え、失われかけた未来を取り戻す。
「ようやく薔薇に色が戻りましたね」男は、喜悦に満ちた微笑を泛べながら言った。先程まで、甘い酩酊へ意識を沈ませていた赤薔薇は「礼は言わぬぞ」と言った。
「礼など不要です。それより、立てますか? 壊れてしまっては困ります」そっと手を差し伸べるが、それはすぐに振り払われる。助けなどは不要だと言わんばかりに、ユリウスは立ち上がろうとする。けれども、膝に何度も力を込めるが脚に荊が絡みついているかのように上手く動かせなかった。そんな赤薔薇に興味を損ねたのか男はそっと立ち上がって、その場から去ろうとした。
「待て!」男はすぐに歩みを止め、静かに振り返り「如何なさいましたか?」と尋ねる。その声は低かったが、とても穏やかだった。しかし、その視線は氷の如く冷たい。
「……手を貸してくれ」ユリウスは顔を背けながら脣を噛み、声を顫わせて懇願する。
「おや、捕食者が人間に助けを乞うとは――実に、滑稽です」
赤薔薇は、烈火の如く、顔を染め、血液が逆流したかのように激情し、男を射るような眼差しを向けて罵倒した。しかし、男は喋り続ける。「ええ、そのように——そのまま舞い散るまで吠えていて下さい」
ユリウスは、今にでも吐き出る罵倒を飲み込み、歯噛みをする。男はしばらく沈黙した。それは、まるですばらしい芸術品を鑑賞するかのようにじっくりと眺める。そしてようやく手を差し伸べる。赤薔薇は込み上がる怒りを抑え、その手を受け取った。蹌踉きながら立ち上がるが、すぐに膝から崩れ落ちる。男はユリウスに肩を貸し、ウィットルジー・ストリートの隅にあるコッテージ・デライトと称する酒場まで歩み出す。地面を覆う泥と汚物を踏まぬように、足取りを選びながら男は脣を開く。「申し遅れましたが、アーネスト・オールドカッスルと申します。カッスルとお呼び下さい。あなたのお名前をお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「……ユリウス・ローゼスだ」赤薔薇は、眉を顰めながら渋々と答えた。
「ローゼスですか。赤い薔薇のように端麗なあなたにはふさわしい名ですね」
「当然だ! ところで、貴様は、私をどこへ連れて行くつもりだ?」
「私の事務所兼自宅です。当分の間、ロンドンでは吸血鬼狩りは続くでしょう。あなたはそこで身を潜めて下さい」
ユリウスは、しばらく考えたのち、恐る恐るカッスルに訊いた。「何故、吸血鬼である私を匿おうとする?」
「それが一体なんだと言うのですか? 私は、あなたがどのような結末を迎えるのか興味があるだけです。しかし、威勢だけはご立派ですね。実に見事です」
「なっ! 貴様ッ! 私を愚弄しているのか?」
「愚弄? 私は事実を述べたままです。ローゼス、この先は騒がしくなります」煤を被った重厚なオーク材の黒い扉のハンドルを握り、そっと開ける。そこは薄暗く、男たちの身体にこびり着く泥や汗の匂いが交じり合い、歪な臭気となって漂う。その喧騒に満ちた場には、過酷な労働から解放された者が集い、笑い声や罵声、グラスの打つかる音などが所々に飛び交い、不快な熱苦しさが赤薔薇の肌を包み込む。
探偵は、短く整えた黒茶色の髪。対照的に首元まで無造作に伸ばした髭を蓄えた大柄の主人に対して、親しげに声を掛ける。
「アーサートン、ただいま戻りました」
「おう。カッスルか」ジェローム・アーサートンは眉を顰め、粗野な顔付きに見合わぬ、蟹鳥染色の瞳で値踏みするかのようにユリウスを見つめてこう言った。「なんだ? その女のような面をした男は? 男娼かなんだか知らねえが、妙な奴を連れてくるとはお前も物好きになったな」主人の荒々しく乱暴な口調は、赤薔薇としての尊厳を削ぎ落とす。
「黙れ! 私はクライリバーの子爵であり、吸血鬼だ」
主人は一瞬眼を丸くさせるが、すぐに声を立てて笑いながら「クライリバーの子爵で吸血鬼だと? どこぞのお貴族様か知らねえが、知ったこっちゃねえ! ここは、飯を喰らい、酒を呑むところだ。何も喰わねえのならさっさと出ていけ!」と言い放つ。すると、酒場に集う者たちは赤薔薇に好奇の眼を向け、まるで見世物小屋の珍獣を眺めているかのように下卑た笑いが四方から降りかかる。無数の不快な視線を浴び、言葉を喉元に詰まらせたユリウスは脣を強く噛み締め、一筋の赤を流した。
「アーサートン」カッスルは低い声で名を呼んだ。
「なんだ? オールドカッスルさんよ」
「私は、彼を連れて部屋へ戻ります。サパーは後ほど、頂きます。ボウモアも用意して頂けると幸いです」
アーサートンはふた返事をしながら、速やかに厨房へと向かった。探偵は、やれやれと小言を洩らし、赤薔薇を連れながら再び歩み出す。喧騒を抜けると、灯のない深い闇に覆われた階段が現れる。一段、一段踏み外さぬようにゆっくりと登る。静寂に支配された空間は、階段の軋む音を不気味に鳴り響かせながら階段を登り切る。扉を開け、白いカーテンを潜って部屋へ入る。
「なんて質素な部屋だ」飾り気のないベージュ色の空間を目の当たりにしたユリウスはため息混じりに不満を洩らす。
「睡眠を確保するのに華やかさは不要です。ローゼス、しばらくここで休んでいて下さい。食事をお持ちいたしますが、何か食べれますか?」硬いベッドに赤薔薇を坐らせてから尋ねた。
「……甘味以外食せぬ」顔を背けながら答えた。
「贅沢な方ですね。しばらくお待ち下さい」手袋を外したカッスルは壁面を豊かな色彩でステンドグラスのように彩った洗面台へ向かい、薄紅色の大理石天板の上に置かれているボウルにジャグの水を注いで手を濯ぐ。左手の傷口を刺激せぬようにタオルで丁寧に拭うと、洗面台の側にある扉を開けた。すると、葡萄酒のように深く紅いアラベスク柄で彩られた空間に、豪華で趣味の良い調度品や格式高い家具が美しく見えるように一つ、一つ計算されて置かれていた。探偵はマホガニー材の食器棚へ向かい、開ける。手軽に摘めるショートブレッドが大量に入った大きな瓶を手に取り、足早にユリウスの元へ向かう。
「貴様、何を持っている?」
「ショートブレッドと呼ばれる保存性に優れた焼き菓子です。素朴ですが、手軽に摘むことも出来ますし、私も好んで食べております」カッスルはコルクの蓋を開けて渡す。それを、受け取ったユリウスは眼を細めてまじまじと見つめたのち、渋々と一つ取り出して恐る恐る口に含んだ。すると、濃厚なバターの香りが静かに口中へ満ち、ほろりと崩れる生地は異国の雪のように儚く消えた。そんなショートブレッドに感動を覚え、思わず眼を焔のようにきらきらと輝かせた。そしてもう一個と口元へ運ぶ。その様子を眺めていた探偵は、微笑を洩らし、静かに寝室を出ると、暗い階段を駆け降りながら主人が待つコッテージ・デライトへ向かった。
「アーサートン、戻りました! 今晩のサパーは何でしょうか?」
「ようやく戻ったか。今晩はパイだ」
「パイですか。分かりました」
「それと、ボウモアだ」主人は、クリスタルカットされたグラスに注いだすばらしい琥珀色のウィスキーをカッスルに差し出す。探偵は、礼を告げながら、傷ついた左手でそれを受け取った。
「カッスル、その左掌の傷だが、まさかあの吸血鬼に血を与えたのか?」とアーサートンが眉を顰めながら訊く。
「はい。瀕死のところ、命を繋げる為に与えました」
「……そうか。それでどうするつもりだ?」
「あまりに美しかったものですから、思わず連れ帰ってしまいました」
「また悪趣味なことをやろうとしてるな。しかし、吸血鬼と名乗っていたが、よくあんな物騒な生き物を拾おうと思ったな。俺たちに危害を加えたりしないだろうな?」
「彼は誇り高いだけです。牙を持つ獣というより、檻に入れられた貴族です。それに、この状況下ですのでユリウス・ローゼスも身を潜める場所が必要でしょう」
「奴はユリウス・ローゼスと言うのか。よりにもよって、お前を頼るしかねえとは憐れだな」
「そうでしょうか? あのまま散り行き、覚めることのない夢、忘却へ誘われる方が私は憐れだと思いますがね」
「どちらでもいい、ほらよ」主人は、口をへの字に歪ませながらカッスルにナイフとフォークを渡した。探偵はそれを器用に使い、均等な大きさに切ると、それを口元へと運んだ。パイは冷え切っているが、サクサクで肉はぎっしりと詰まっており、生地とフィリングの間に隙間なく挟まっているゼリー状の肉汁が濃厚な旨味を引き立てる。それをボウモアでゆっくりと流し込み、スモーキーなピート香の余韻に浸りながらサパーをじっくりと楽しむ。労働階級ならではの華のない質素な食事だが、カッスルはまるでそれを一秒、一秒を大切にするかのように素朴な味を噛み締める。そして食事を終えると、いつものように阿片入りの巻煙草を取り出し、火をつけて、青白い煙を燻らせる。甘美な毒を肺へ少しずつ満たし、煙を吐き出した。
「アーサートン、ご馳走様でした」飾り気のない乳白色の円い皿の上にナイフとフォークを六時の方向へ置く。
「相変わらず綺麗に食べるな。一つ気になったが、あの吸血鬼は何も食わないのか?」
「その件ですが、ショートブレッドを与えてみました。大変眼を輝かせておりましたので、今頃は虜になっているはずです」と探偵が穏やかな微笑を洩らしながら言うと、アーサートンは「吸血鬼でも甘いもの食うのか。まあ、なんでも良いが、俺らに危害を加えるようなことはするなとローゼスに伝えてくれ。『コッテージ・デライトが吸血鬼に襲撃された』って噂なんか流れて見ろ? 皆、恐怖で慄き、客足がピタリと止まってしまう!」と不安の情を示した。
「アーサートン。ローゼスは人間を忌み嫌っているだけです。本当に危害を加えるような方でしたら、殺戮に走ります——それに、彼は自らが吸血鬼、そして異国の地クライリバーの子爵としての尊厳を守ることを選びました。ローゼスなりの信条もあるでしょう」
主人は肩を竦めてから言った。「そうか。お貴族様だの吸血鬼の信条なんかよくわからないが、ローゼスのことはお前に任せたぞ」
「承知致しました。では、私は彼の元へ戻ります。おやすみなさいませ。また明日、お会いしましょう」ボウモアをゆっくりと飲み干し、グラスをアーサートンへ渡すと、足早に赤薔薇の元へ向かって、ノックをし、寝室へ入る。中へ入ると探偵は、どこか楽しげな様子でユリウスに話をかけた。
「どうやら大変お気に召したようですね」
「悪くなかった」
「そうおっしゃるわりには、中身は空なのですが?」
「黙れ!」頬を赤らめ、思わず声を張り上げる。
「それよりお身体の調子はいかがですか? まだ優れないようであれば、横になっては如何でしょう?」
「貴様はどこで休むと言うのだ?」ユリウスは振り向いて言う。
「居間です。椅子さえあれば、どうにでもなります。さあ、私のことは気にせずどうぞゆっくりお休みになって下さい。それでは、失礼致します」
赤薔薇は「貴様! 待つのだ!」と叫ぶように言うが、カッスルは一瞥を与えることなく居間へと向かった。探偵の言動に躊躇いつつも、そっと横たって思考を巡らせ始める。あのアーネスト・オールドカッスルは一体何を考えているのだろうか? 私に危害を加えるつもりもなければ、食事や寝床までも提供した。私の身の安全は保証されたようなものだ! しかし、食事として出されたあの焼き菓子だが、クライリバーでは、けして味わうことのない味だった。ショートブレッドが忘れられない。叶うならば、もう一度口にしたいものだ。が、私の命の源である血液はどこで入手すれば良い? 甘味だけでは、私は欲望は満たされることはない——この私が、いつか血に飢えた獣のようになってはしまわないのではないだろうか? いや、この高貴な私が、けしてそのような厭らしいものになるものか! 馬鹿馬鹿しい! 私らしくないではないか! そうだ、あの男を利用すれば良い。ただそれだけのことだ。気味の悪い人間だが、所詮は下劣種だ——利用させてもらうぞ。と、ユリウスは花開くような美しい微笑を泛べてそっと瞼を閉じた。




