Roar 9
◆
降り積もった新雪を蹴り、
切り立つ崖を超え、
大きく開いたクレバスを渡り、
必死に彼は駆けた。
そしてローは、ロムスの支配する群れへと辿り着いた。
彼が辿り着いた時には雪は止み、太陽がしっかりと顔を出していた。
雪上には鮮血が散り、肉の食い荒らされた跡がある。恐らく、ロムスに刃向かった狼たちとレムスの残骸だろう。息をする度に血生ぐさい臭いが鼻を刺激する。辺りを見回すと、十数匹の狼たちが眠っている。まだ、生き残っている狼はいるようだ。狼たちが全滅していないことに、ロー安堵した。
ローは小高い丘に登り声をあげた。
「みんな、聞け! 今から数時間後に村の人間たちがやってくる! そいつらは俺たちを殺そうとしている!」
急な叫びに、狼たちは飛び起きた。それはロムスも例外ではないだろう。
「このままここにいては危ない! 今すぐにどこか別の場所へ移動するんだ! 何をしているんだ。早く!」
ローの声は聞こえているはずだ。だがしかし、誰一人としてその場を動こうとしない。
「ははは。死に損ないが戻ってきやがったか」
ロムスが小さく唸りながら、洞穴から歩いてくる。その姿は自信に満ち、なにも恐れていない。
「こいつらは動かねえよ。ここから逃げれば殺す、と前々から釘を刺しておいているからな」
ロムスは高らかに笑っている。群れの狼たちにとって、逃げても殺されるし、逃げなくとも殺される。進んでも地獄、戻っても地獄なのだ。
「こいつの言うことなんて聞くな! ここにいても殺されてしまう! 早くここから逃げるんだ!」
「こいつだと? デキソコナイの分際で、なんて口の聞き方だよ。まったく躾がなってねえなあ」
「構うな! 早く行け!」
ローの必死な叫びに心打たれたのか、一匹の狼が駆けだした。それを見た狼が、一匹、また一匹と駆けだした。群集心理というものがよく分かる光景だった。
「お前ら! 誰が移動を許可した! 俺じゃなく、そんな穢れたデキソコナイに従うっていうのか!」
あっという間に、すべての狼がその場から離れた。彼らがどちらに従ったのか、火を見るよりも明らかである。
「このデキソコナイが。これは俺の群れだ! どうなるか分かっているんだろうなあ?」
ロムスは目をギラギラと輝かせている。
「この群れはあなたのものじゃない。僕は、もう何も怖くない。出来損ないだと言われても、穢れていると言われても、僕は構わない。僕を認めてくれる存在がいるから!」
ローは高らかに遠吠えをして、ロムスに向かって一直線に駆けていった。もう何者にも彼を止めることは出来ない。
ロムスも負けじと遠吠えをして、ローの方へ向かって行った。
二匹の声は大地を震わせ、他の動物をも震え上がらせた。降り積もる柔らかい新雪がさらさらと崩れていく。
勢いよく駆けていったローは、ロムスを押し倒し、噛みつこうとした。が、その勢いを利用され、ローは後ろへと弾き飛ばされた。
「甘いんだよ、デキソコナイが!」
今度はロムスがローに襲いかかった。巨大な口開き鋭い牙を剥き出しにして。ロムスの姿は神話に登場する巨大な狼のそれを思い起こさせる。
雪の上に倒れているローは、かろうじて彼の巨大な牙の一撃を避けることが出来たが、彼の鋭い爪が腹部へと突き刺さった。
ローは苦痛を露わにした。
ロムスの体重が、彼の爪をじわじわとローの体へ押し込んでいく。
圧倒的な力の差を見せつけられた。同じ父親の血をひいているのにもかかわらず、これほどまでに力の差が出るものか。ローは身体をくねらせ抵抗してみるが、深く突き刺さった爪が食い込むだけだった。蝋燭の火を見るかのように、ローの力はなくなっていった。
「はは。やっぱりお前はデキソコナイだ。毛が黒いだけじゃなく戦ってもこれほどまでに弱い」
ローの上から勝ち誇った笑みを浮かべている。
「分相応に生きろよ。今すぐにお前も母親のようにしてやるよ」
ローは閉じかけていた瞳をパッと見開いた。何かが彼の中で覚醒したような。
「なんだって?」
息も絶え絶えにローが尋ねる。
それを上から見下し、舌なめずりをしながらロムスが答えた。
「お前の母親を俺の実の親を殺したのは俺さ」
「なんで、なんでそんなことを」
「デキソコナイのお前をいつまでも擁護して、不愉快極まりなかったからさ。真っ白な俺よりも、穢れたお前に愛情を注いでいた。俺がどれだけ頑張っても、お前ばかり。それがどれ程不愉快なことだったか、お前に分かるか? あぁ、あの時お前もさっさと殺しておけば良かったかもな」
彼らの母親を殺したのは、ロムスだった。
彼の母親は、己の命の灯火が消えるまでローを愛し続けていた。彼の事を出来損ないだとか、穢れている、などということを、一度たりとも口にしなかった。ローにとっては光だったが、ロムスにとっては闇だったのだ。母親という存在が、煙たくて……欲しくて仕方がなかったのだ。歪んだ愛は残酷なものだ。
ロムスの言葉で、ローの体中に巡る血液が沸騰した。
彼の閉じかけていた瞳は輝き、力の薄れた体には大きな力が湧き出てきた。そして、勢いよくロムスの体を弾き飛ばした。
爪の刺さっていた腹部からは血が流れていたが、ローは痛くも痒くもない、という顔をしている。今のローは痛みすら感じなかった。
母親を殺し、自分を追い込み、村の家畜を食い荒らし、群れを破滅に導いたロムスを憎んでいた。何者にも消すことが出来ない、憎しみの炎が彼の中で燃え盛っていた。
「なんだ、怒ったか? あんな馬鹿な親を殺した程度の事で」
ローは何も答えない。何も語らぬ彼の瞳からは、揺るがない決意が感じられる。
彼の真っ黒な毛に付着した純雪が雲の隙間から射す太陽の光を受け、金色に光り輝いている。ローの姿は、月の様に金色に輝いている。そして、頭を低く下げ、彼は光芒の矢の如く、ロムスに向かっていった。そして、ローの爪がロムスの体をかすめた。ロムスの体から赤い血が流れ落ちる。
「なんだ、お前も戦えるのか。面白いじゃねえか!」
ロムスも負けじと爪を振り下ろす。だが、その攻撃はローの体をかすりもしなかった。先程までのローとは明らかに動きが違う。アマラの言葉でわだかまりが消え、ロムスの言葉で彼の過去が燃え上がり灰となったのだ。もう彼に迷いはなかった。
だが、ローの素早い動きも長くは持たなかった。初めに受けた目の傷に、腹部の傷。それらが彼の体力を奪っていった。徐々にローの動きは鈍くなり、ロムスの攻撃を避けるだけで精いっぱいな状況に追い込まれた。
「さっきの威勢はどうした?」
ロムスの言葉は余裕に満ちていた。だが、ロムスは攻撃の手を緩めることはなかった。どれだけ弱い存在にも全力を注ぐということが彼のポリシーであるからだ。
ロムスの鋭い爪がまたもローの体をかすめた。ローは精も根も尽き果てた状態になろうとしていた。
その時である。昇りかけていた太陽が分厚い雲に覆われ、辺りに漆黒のカーテンが降ろされた。光は完全に遮断され、ローの姿は闇に擬態して見えなくなった。その状況に慌てたのはロムスである。
「くそ! デキソコナイめ。どこへ行きやがった!」
ロムスは怒り、あたりを手当たり次第引っ掻いてみるが、何の手ごたえもなかった。
――しめた!
予想外の状況に狼狽するロムスをよそに、傷だらけのローはひっそりとロムスの背後へと回り込み、思いっきり引っ掻いた。ロムスの叫びが雪山を揺らす。ロムスが慌てて背後に攻撃を仕掛けるも、そこにローの姿はなかった。
ローは縦横無尽に闇の中を掛けた。この機会を逃せば勝機はない。そう感じた。ローは攻撃を何度も繰り返し、ロムスを翻弄した。
ロムスの傷がローと変わりなくなってきた頃。天はローを見放した。闇が裂け、雲間から眩いばかりの光が差し込んできたのだ。その光のせいで、ローの姿は白日のもとに晒された。ロムスを仕留めるまでに、後一歩というところだった。
「はは……そこにいやがったか。もう終わりにしようぜ」
ロムスはにやりと笑い。ローに狙いを定めた。全精力を一撃に賭けるつもりのようだ。ローも覚悟を決めた。二匹はまったく同じ攻撃の態勢をとり、互いに睨みあった。
とうとう決着の時がきた。
そして二匹同時に口を開け、互いの首元へ飛び付いた。
「があああああ!」
叫びをあげたのはロムスだった。
ローは、体にあらん限りの力でロムスの首に噛みつき、その肉を食いちぎった。
ロムスの真っ白な毛は鮮血に染まり、彼の苦痛に満ちた叫びが山中にこだまする。そして、真っ赤な雪上に倒れ伏したロムスは、血袋と化し、ごうごうと燃えていた命の灯火はサッと消えた。ローは勝利したのだ。
しかし、すべての力を出しきったローも、ロムスと同じようにその場に倒れた。彼の命の灯火もまた、消えようとしていた。
何やら轟音が聞こえてくる。
山の頂から、すべてを飲み込む音が。
雪崩が迫ってくるのだ。
原因はロムスの発した最後の叫びと降り積もった新雪、それに彼らが戦った時の振動だろう。
――アマラが危ない。助けなくちゃ。
ローは薄れゆく意識の中で考えた。
大事な人を最後の最後まで守り抜こう、と。
ローは力を振り絞り、大きな遠吠えをした。
アマラに危険を伝えるために。
自分を認めてくれた、大切な人を救うために。
命の灯火を燃え上がらせ、彼女の為に黒い咆哮を……。




